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<歌と水の街>名前のある椅子 ――アナ・メルフトの記述

 月夜の石畳の上で、一匹の野犬を前に、私は微動だに出来ずにいた。

 十四歳の夏。大陸でも有名な水上都市、『歌と水の町』の劇場の歌い子として稽古に明け暮れていた私は、密かに月光浴をするのが唯一の楽しみだった。

 けれど、路地裏になど立ち入るんじゃなかった。泣き出しかけたその時、私の後ろから人影が飛び出して、野犬に踊りかかった。

「逃げろ!」

 けれどそう言う人影は小柄で、すぐに野犬に圧倒されそうに見えた。私は夢中で、木靴を脱いで野犬に投げつけた。それが鼻先に命中し、野犬は弱々しく鳴いて走り去った。

「凄いね。僕、格好悪いな」

「そんなことない。有難う」

 月明かりが照らしたのは、痩せた少年だった。苦笑いするその表情が、なぜか月よりも 明るく見える。

 彼は、ジャンといった。

 私と同い年のジャンは、家具工房『ベル・フーチ』の見習いだった。籠の鳥の私とは違い色々なことに詳しく、私の夜の息抜きは彼とのお喋りに変わった。彼も同世代の友達が他におらず、二人で毎晩の様に話した。

 ある休日の午後、ジャンは街の裏山にある丘へ私を誘った。丘から街を見下ろして、私は

「綺麗ね……」

と呟いた。

 でも、白と煉瓦色の混じった街並は、見た目程には平和ではなかった。革命軍の兵士が潜んでいるという噂で、貴族警察もボウガンの常時携帯を許可されている。

「怖いことが起こるのかしら」

「君は守るさ。いつかここから、二人で平和になった街を見ようよ」

 丘に吹く風の中で、私達は寄り添った。

 お互いに たった一人の友達。いつまでも、彼の傍にいたいと思った。

 夏の終わり、街に騒ぎが起きた。ベル・フーチの棟梁が革命兵を手引きした罪で、警察に連行された。関係者は皆容疑者だとして、ジャンにも手錠が掛けられた。

 目抜き通りを警察に引かれていくジャンに、私は駆け寄った。しかし、私まで巻き込むことを恐れたのか、彼が視線で私を制した。

 立ち竦む私に、傍にいた大人が気の毒そうに告げた。

「友達かね。記録も残さず、薬殺されるよ」

「いいえ。ジャンは悪いことなんてしてない。すぐに戻るわ」

 自分に言い聞かせる声は、頼りなく震えた。

 それから、私は何度もあの丘へ行った。工房が閉じた今、ジャンが帰った時に会える所はここしか思いつかなかった。

 でも、誰も いない丘は、何度訪れてもただの空き地でしかなかった。

抱く期待は僅かなのに、裏切られた時の傷は容易く私の胸を両断する。一年も経つと、私は耐え切れなくなって丘へ行くのをやめた。

 こんな思いをするなら、いっそ出会わなければよかったのだと、何度も泣いた。

 五年が過ぎた頃。

 劇場で私を見初めたという若い貿易商が結婚を申し込んで来た。

 彼の純粋な好意と優しさに、知らずささくれていた心が癒されていく感覚は心地よかった。半年程して、私は求婚を受け入れた。

 相変わらずの治安の街を離れ、私は彼の故郷で嫁ぐことになった。

「離れる前に、寄りたい所はあるかい」

 彼にそう言われたが、この街に格別好きな場所などない。

 ……でも、忘れられない風景が一つだけ ある。もう戻れないのなら、一度だけあそこへ行ってみたい。

 丘に着くと、以前よりも少し草が伸びていた。

 相変わらず、見た目だけは綺麗な街が見下ろせる。

「こんな所があるんだね」

 彼がそう言い、続けて、

「あの椅子は、君が置いたの?」

 私は、身動きが出来なかった。

 二つの木製チェアが、街の方を向いて置かれている。

 彼が椅子に近付き、背もたれに彫られた文字を読む。

「”ベル・フーチ謹製 Jean”……こっちには、”Ana”。君の名だ」

 胸が痺れ、眩暈がした。

 生きている。

 この世界のどこかで、ジャンは呼吸をしている。

 涙が溢れた。

 なぜ私はここへ来ようと思ったのか、その理由が今解った。

 私を守ると言ったジャン。傍にいたいと思った私。

 友達だった。でもあれは、恋だった。幼すぎて気付かなかったけど、あれが恋だった。

 初恋のまま取り残された私の恋に、私は会いに来たのだ。

 静かに、彼が傍に立つ。私は涙声を絞った。

「ご免なさい、私、どうしていいか判らなくなってしまったの……」

 勿論、彼を断ってジャンを探すことなど出来ない。けれどただとにかく、私は自分の胸も意志も今この時、粉々になってしまったのを感じていた。

「なら、何でも出来るさ。会いたい人を探すだとか」

 驚いて、私は彼を見た。

「そんなこと……」

「僕だって、どうしたらいいのか判らないのだぜ。そんな君を見るのは初めてだから」

 そう言って苦笑する。

 この冷たい世界の中で、人の想いなど一体何程のものだろう。

 でも、一度 は呪った出逢いすら間違いではないと、気付かせてくれたのも人の想いだった。この名前のある椅子が、ここでそう唱え続けてくれていた。

 それは、眼下の虚ろな街よりも、遥かに確かだった。


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