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ラーメンの化学調味料の話は「はきちがえさせ」やすいのです ~ラーメン漫画の論理のパラドクスを見た話~

今回は化学調味料の是非ではなく、たとえ話がよく起こす論理の事故の話です。

とあるラーメン漫画で、2024年に、化学調味料について取り扱っていました。

ラーメンはかねてより、大量の化学調味料でうまさを補ってきた歴史があります。
またそれに対して、化学調味料に頼らずに、食材の味を引き出すことで本格的な味わいを実現させることにこだわる料理人も多く輩出されてきました。
化学調味料不使用の「無化調」という言葉が生まれたゆえんです。

一方で、化学調味料は特に人体に害のない(現状確認はされていない)ものであるし、いくら無化調でもおいしくなければしょうがないわけで、適切に扱う分にはほかの調味料と同様、極端に目の敵にするものでもないでしょう。

さて、冒頭の漫画では、化学調味料に頼らない味を作り続けてきたラーメンの達人である主人公から、作中このような論旨が展開されます。

「今時、化学調味料を過度に敵視する必要はあるのか。化学調味料たっぷりの味でも、別に問題はないではないか」

このセリフはストーリーの流れに即したものであり、ここだけを切り取るのはあまりいいことではありませんが、今回注目したいのはこの後です。

「化学調味料批判にありがちなものに、『化学調味料を使うとなんでも同じ味になってしまう』というものがある。
だがこれを言う人は、醤油ラーメンならどんなものでも『醤油味なんだから同じになってしまう』と文句を言うのか?
同じ味になるなんていうのは、言いがかりに過ぎない」

冷静にこう言い切られたセリフを、作中の別のラーメン識者が追い打ちで肯定し、特に反論されることもなく、作中の「正論」として扱われています(この後の展開次第でまた変わるのかもしれませんが)。

一見筋が通っている理屈に見えるかもしれませんが、さて、どうでしょう。
本当にその通りでしょうか?
「そう言われればそんな気はするけど、なにか変だな?」と思うでしょうか?

私はこれは、化学調味料が議題になる際、肯定的意見でも否定的意見でもよく見る、「誤った強弁」「誤った例の用い方」の一例だと思います。
作中のキャラクタが何を思ってこの発言をしたのか、その真意は分かりません。
しかしこんなたとえによる理屈を、作中の正論とされたのには驚きました。

私は個人的には、特に積極的に化学調味料を使うほうではありませんが、使われているものでも普通に食べます。
で、その際、「化学調味料味で、同じ風味づけだな」と感じることもあります。
一方、よほど強烈でなければ、「なんでも同じ味になってしまってだめだな」とまでは思いません。
なお、一度、本当に「化学調味料の味しかしない味つきイクラ」の業務用試作品を食べて閉口したことはありますが、これは極端な例なので置いておきます。

さて、その程度の化学調味料ユーザとして、上記のセリフにどんなモンクがあるのかというと、下記のとおりです。

「化学調味料を使えば、現実に、どんな料理でも同様に『化学調味料味』になる(だって使ってるんだから、これはいいでしょう)。
これを『どんな醤油ラーメンでも醤油味だから同じ味だとは言わないだろう』と指摘されているが、まさにそれが問題なのだ。
醤油はすばらしい調味料だ。
しかし、麻婆豆腐も、バンバンジーも、エビチリもフウヨウハイも、すべて一様に醤油味になったらたまらないだろう
(むろん、風味づけや隠し味程度のものは別)
それが、どんなに異なる風味の醤油でも、お断りのはずだ」

つまりくだんのセリフの問題とは、化学調味料というのは(現段階では)一種の補助的調味料であり、醤油や味噌や塩味のおにぎりとまでも組み合わせて、どんな料理にでも使うのが可能という画期的なしろものであるのに、例として出されているのが「醤油ラーメン」という極めて限定的なメニューであることなのです。
塩ラーメンにも味噌ラーメンにも使えてしまう調味料の話を、ラーメンどころか醤油ラーメンの話に限定しています。
ここに、このセリフを支えている最大のパラドクスがあります。

先ほど挙げた「なにか変だな?」と感じるものの正体が、このパラドクスです。
「化学調味料を使うとどんな料理も同じ味になる」という感想を否定するのに、「醤油ラーメン村」という極めて狭い村に限定した理屈を当てはめているのです。
そりゃ、醤油ラーメンはどれ食べても醤油ラーメンで、文句は出ないでしょう。醤油ラーメンが食べたくて頼んでるんですから。

これでは違和感が生じるのが当然です。

フウヨウハイを食べに来たのに、生醤油をたっぷりかけられた皿を出されたら「待て待て待て」となるでしょう。
一方、必要な程度に調味料として醤油を使う分には、全然文句は出ないでしょう。
調味料の適切な使い方の話をするのに、今回使われている「どんな醤油ラーメンでも同じ味だと~」のたとえは不適切なのです。

なお、村の規模を論旨と合わせた「化学調味料味ラーメン」が例に出されたなら、どうなるかというと。

「化学調味料を使うとみんな同じ味になるだと?
それじゃ世の中の化学調味料味ラーメンは、どんなに風味が異なる化学調味料が使われていても『みんな化学調味料味で同じになってしまう』と文句を言うのか?」

わけが分からなくなりました。
すみません。
醤油にしましょう。

「醤油を使うとみんな同じ味になるだと?
それじゃ世の中の醤油を使った料理は、どんなに風味が異なる醤油が使われていても『みんな醤油味で同じになってしまう』と文句を言うのか?」

これに対しては、
「いや、そんなわけないじゃない。誰もそんなこと言ってないでしょ。要は使いようでしょ?」
とあっさり反論がされてしまうでしょう。
つまり、もともと理屈として成立していないのです。

あくまで作中のキャラクタたちの考える「正論」ではありますが、ちょっと気になったので今回はこんなことをかいてしまいました。
なおこの漫画作品は今も連載中で、このたとえについてなんらかの真意の説明やフォローがされる可能性もあります。
そうなったらお恥ずかしい限りですが、無駄にお騒がせしてすみません。

調味料の話は個人的にもとても興味があるので、これからもいろいろな意見を聞いてみたいものです。
なんにせよ、化学調味料の話はけっこう人が熱くなりやすいせいか、こうした不適切なたとえや言い切り方で「はきちがえさせやすい」理論もよく見るので、注意が必要です。

世にたとえ話は非常に多いですが、自説を正当化するためにインパクト重視で整合性をおざなりにしてしまい、ちゃんとしたたとえになっていないことが、とても多いです。

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