信州で蕎麦をくう。
縁あって、関東から信州こと長野県に越した時のことでございます。
信州といえば信州蕎麦をたぐってみたいと思い立ち、周囲の知己に「おいしいお店を教えてくらさい」と聞いてみたところ、あそこだここだとご教示いただきました。
そんなわたくしに忍び寄る、人のいい信州人がアラ一人。
「君ね、信州の人は、本当にお気に入りの蕎麦屋なんて、昨日今日の他人に教えやしない。自分の足で探すんですよ」
それがほんとかどうかは分かりませんが、なるほど道理と膝打ったわたくし、ためしにいくつか、蕎麦屋の木戸を叩いてみました。
すぐに分かったことが一つ。
蕎麦がうまい。
いやいや何言ってんの、蕎麦なんだからうまいのは当たり前でしょ、ええ信州の方がそうおっしゃるのはごもっともです、しかしね。
他の県でたぐっておった蕎麦はありゃ何なのかと尋ねたくなるくらい、香りが違う、味が違う。おまけにどこでくってもうまいうまい。
蕎麦ってのはね、腹が膨れないし、かさは少ないし、だしの味しか記憶にござらん、そんな感じがちょいとあるでしょ。ありませんか。これは失礼。
そんなわたくしでもたまげるくらい、信州の蕎麦はたいがいうまい。
ほんとにそんなに違うのか、お疑いの信州人は、ぜひほかの県で試してみてください。
そんなこんなでわたくしも一丁前に、長野で蕎麦をくうわけですが、信州のみなさんてのは気合が違って、何しろ真冬でもざるでくう。
寒冷地というやつで、窓ガラス一枚外は氷点下。足元は隙間風が吹きゆく中で、氷水でしめたそばをからげるからげる。年越し蕎麦が、ざる蕎麦だからね。
さて、信州人面した素人のわたくしも、手前なりに蕎麦のくい方が決まってきましたよ。たいていお昼にいただくけども。
蕎麦っくいにはしきたり好きが多いけれどね、こちとらもともと門外漢だから、知ったこっちゃなくて、好きにくう。
お知り合いの蕎麦っくいが、「蕎麦のくい方の作法は、これこれをしちゃならないってもんじゃない。あれこれしていいってことなのよ」と教えてくれたもんだから、なおのこと。
つゆは辛めに、蕎麦の五割ほどの高さまでつけてくう。二寸だ一寸だのは知らないね。
これは別に通ぶったつけ方てんじゃなく、こうすると、まず蕎麦だけの香りがぱんときて、そこから間髪入れずにつゆの流れ込んでくるあ塩梅が、まあちょうどよくていけません。
あんな土らしい、華美さも可憐さもないような香りが、どうしてこんなに蠱惑的かね。
一度箸を上げればもう止まらん、ぱんと香ってはかなく消えるあの匂いを、もろ手を伸ばして追っかけ追っかけ、つゆがのどに流れた後は、残り香の消えぬ間に次の一口。
ひたすらこれでたぐるたぐる。
蕎麦は二口噛んで飲み込むもんだ、てえ通もおるでしょ。でもね、信州蕎麦は、噛めば噛むほど味と香りがぽんぽん弾けて、飲み込んでる場合でもないんですわ。のど越しはどうも二の次で。
ワサビだネギだは入れんのか? そりゃやっぱり通ぶっとるんじゃ? いやいやそれは違います、たんに欲張りなだけでござんして。
コーヒーにミルクを入れちまえば、もうスットレートには戻ってくれんのと同じです。
蕎麦が半ばまで減ってきたら、ワサビをちょんと蕎麦にのっけていただきます。そばつゆに溶かさんのは通ぶっとるんじゃなく、ええ出ましたね欲張りな癖が、つゆに溶けとらんワサビで蕎麦がくいたい、その一心でございます。
さあ残るお蕎麦は三分の一、ここからはお祭りですよ。
残ったワサビをつゆに溶かし、ネギを蕎麦猪口にさらさら。
蕎麦の五分までなんぞと格好つけておられたのはさいぜんまでのお話で、ここからはじゃぶじゃぶと蕎麦がつゆをかぶるのくぐるの。
たっぷりつゆのからんだネギと一緒に、ワサビぷんぷんの蕎麦を口に放り込むとね、もうつゆとネギとワサビの味だけ。蕎麦どこ行った。
しかしね、ここで、お蕎麦かみかみのくい方が生きてくるんですね。
蕎麦の香りってのはあんなに繊細で楚々としてるのに、つゆが流れ、ワサビが消えても、からいおネギとだけ添い遂げるがごとく、噛めば噛むほど味が出るんだね。
たまげたことに、ネギに負けやせんので、信州の蕎麦は。
最初からこの味わいにたどり着いちまうのは、まあ、贅沢どころか、お蕎麦がもったいなくて仕方ないね。初めにつゆもなくすすらせていただいたあの一口があるからこそ、このうまさのありがたみが分かるんですね。
最後にいただくのは蕎麦湯です。つゆに入れる人もいるけれど、わたくしはそれがどうももったいなくて、もっぱらそのままいただきます。
これは通ぶっとるんじゃないんですよ。
この時の蕎麦湯ほどうまいものはそうそうなくてね。いきなり飲んでも味も素っ気もなさそうなんだけど、蕎麦をたぐり終わった後、カラのざるを見ながらいただくこいつは、格別でしてね。
温かい蕎麦湯でおなかをあっため、ルチンも頂戴。
いやあ満足満足。
しかし蕎麦ってのはそうそうおなかにたまるもんじゃないから、半刻もすればちょいとおなかがすいてくる。
日暮れ時には晩御飯がおいしくいただける、ちょうどそんな腹具合。
ありがたくって涙が出るね。
とまあこの程度には、素人でも述べられるくらい、信州蕎麦はおいしいもんです。
信州へお越しの際は、ちょいと気軽に、蕎麦屋ののれんをくぐってみませんか。
終
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