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<歌と水の街>きみが楽園からこぼれ落ちたら――名もなき君ら

「歌と水の街」は、大陸の端にある一大芸能都市である。
 最大の花形である歌劇団を筆頭に、多様な娯楽が散在している。
 強い光と同時に巨大な闇を抱えた街は、腐敗と暴力にも事欠かなかった。特に歌劇団が抱える、ボウガンで武装した私警団は、その過激さで知られていた。
 人々の鬱屈は膨れ上がり、歌劇団の転覆、更には街そのものの再構築を目指す運動も起こった。治安は、悪化する一方である。

「逃げるんだ、俺と」
「無理だよ」
 夜の歌劇場の裏口で、歌い子の少女と、出入りの弁当屋の少年が口論している。
「なら、今の暮らしを続けたいのか。歌い子なんて、つまりは」
「やめて。私なりに、先のことくらい考えてる」
「何としても君を連れ出す。俺は、それが間違っているとは思わない」

 街外れのベーカリーのすぐ脇に、四五人の浮浪児がいる。
 店の中では、亭主と女将がこそこそと話していた。
「坊主ども、うちに乗り込んでくるつもりじゃあるまいな」
「この界隈でパン屋を続けてるのはうちだけだから、えらく儲けてると思われてるんだよ。酷い誤解だよね、粉代もままならないのに」
「値段は上げんぞ。俺は、貧乏人にたらふく食わせてやりたくて、パン屋を継いだんだ」
「でもこのままじゃ、娘を学校にやる金も残らないよ」
 二人は、年々粗悪になる小麦粉の袋を見下ろして、嘆息した。

 幼い姉妹は、薄暗い子供部屋で、人形を取り合っていた。
「だめよ、あんたには昨日貸したでしょ」
「だって、お姉ちゃんより私の方が可愛いから、お人形が似合うって皆言うもの」
 もう何度目だろう。十二歳になる姉のプライドが、まだ八つの妹に踏みにじられるのは。
「そうしたら私がずっとお人形を持っている方が、公平だもん。私、間違ってる?」
 妹は、いつからこんな語彙と口調を手に入れたのだろう。
 それでも、確かに自分よりも容姿に優れた妹に、使い古しのシーツのような服しか着せてやれないのは不憫に思う。
 ただ、その日暮らしの両親には、服を買ってやってなどとはとても言えない。
 妹の渇望が満たされれば、自分の心も多少平穏になるような気はするのだが。

 初等部の老教師は、街の中の貧富の差を、生徒達の服装に、まざまざと見いださざるを得なかった。
 こんなにも格差のついた人々に、一様な道徳など共有されるとは思えない。
 だが、教師が諦める訳にはいかない。
 自分には、人の善を説く責務がある。
 テキストを開くと、教師はバリトンじみた声で音読を始める。
「人は相互いに救い合い、施し合い……」
 かつて所属した歌劇団の男子部を辞めてから、どんな世相でも正義を説いてきた。。
 ここで変節しては、苦労をかけ通しの妻にも面目が立たない。

 十代の少年とその父親が、倉庫の陰で耳打ちし合っている。
「父さんて、レジスタンスのために働いてるんだろ。手伝わせてくれよ」
「馬鹿。本当に危険なんだ。我々が狙っているのは歌劇団を、ひいては貴族院を転覆させる一大革命だぞ」
 父親は子供の頃、教師から、正しさを貫く大切さを教わっていた。そのことを、息子にもよく話した。
「俺も初等部で、同じ先生に教わったよ。それが正しいと信じてる」

 武器商人は、倉庫の中で、歌劇団の私警団長と話し合っていた。
「旦那、俺らの仕事で、もうどれだけ人が死んだんですかね」
「何だ、足を洗いたくなったか」
「今更そんなことしたら、あんたらに皆殺しにされるでしょう。酷い稼業ですがね、手の届く社員どもだけは守り抜く、俺が決めたのはそれだけですよ。正しいでしょう、生きもんとして」

 誰もが、誰かを守ろうとした。
 そのためならば躊躇いを捨てることに、街そのものが慣れすぎていた。
 武器商人が、歌劇団との会合をレジスタンスにリークしようとした男を殺した。仲間を守るために、必要だった。
 その男には、十代の息子がいた。
 半狂乱になった息子は、父と自分に正義の大切さを説いた老教師を殺した。
 老教師の妻は、生きる拠り所を失って弱り果てた。
 十二歳の姉は、生ける屍と化したその妻の家から金を盗み、妹の服を買おうとした。
 それを見とがめたベーカリーの女将は、姉を捕まえた。
 大人が子供を痛めつけようとしていると見た浮浪児達は、連帯感と彼らなりの倫理観から、女将に襲いかかって打ち殺した。
 それを店の中から目撃した亭主は、弁当の仕入れに来た少年を突き飛ばして駆け出した。
 よろめいた少年は通りがかった馬車にはねられて、死んだ。

 歌い子の少女は、劇場の裏の暗い階段に座り込んでいる。
 街が、なぜだか少しずつ、冷えていくように感じていた。
 あの少年が持ってくる、丸パンとオレンジだけの弁当が、やけに恋しかった。

 やがて得意客から呼ばれ、少女は劇場の中へ戻って行った。


 

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