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フィクションに人生はあるのか?

ところで、この前同僚とちょっとした口論になりまして。

口論というか、議論? 演説? まぁ、お互いに熱が入っていたわけなんですけど、何故かその話題がヒップホップだったんですよね。

私、ヒップホップ全く興味がないんですが、何でそういう話になったのかというと、ヒプノシスマイクの話題になりまして。私は声優にもさして興味がないし、もちろんヒプマイにも興味はない。でもハマっている人は周りに多いので、一応キャラと設定は知っている。

ヒプマイ女の子の間で流行っているけど、本来ラップとかヒップホップというのは、貧困層がお金を得るために自分の人生を歌にしていって生まれた文化だから「声優や俳優が演じて歌う」のは本当のラップではない。というのが同僚の主張。

私の主張は「その世界観の中ではキャラクターが自分の人生をラップとして歌にしている」(ヒプマイは女尊男卑の世界で、ラップでバトルする男の戦いだという設定は知っていた)ので、少なくともそのフィクション世界の中では「本物のラップとして矛盾しない文化」ではないか、ということ。


その議論(飲みの席だった)を聞いた上司の感想。


「設定としてのラップと現実のラップを何で一緒にせえへんといかんの?」


……せやな?(せやで)


それはともかく、同僚と何故この認識の差異が生まれたのかを議論しているうちに、あることに気が付いたのだった。


同僚、フィクションの世界には「描写された以上の情報はない」と考えているんだ……!

こ、これがパンピー寄りの人間の発想かーーー!!!(色々腑に落ちた)

私のようなガチガチのオタクは、フィクションの中の登場人物には、描写されていないだけで今まで送ってきた人生があり、物語の最中でも描かれていないところで彼らは様々なことを経験していて、もちろんエンディングが終わった後にも(生きていれば)続きの人生がある、と考える。

けれど、同僚はフィクションに描かれている場面は、描かれているもの以上の物語はないと考える。だから、役者を目当てにドラマや映画を見たり、評判が良かったから見たり、面白かったシリーズだから見たりする。


非オタ一般ピープルは、描かれていない物語に強めの幻覚を見ないのである。


前に、『天気の子』についてこんな記事を書いていたわけですが……。

>>一般人にトゥルーENDの概念はあるのか


なるほど、一般ピープルは「スキマを深読みして妄想をする」ことはなく、描かれたエピソードをそのまま素直に受け止めるので、物語のキャラクターが様々な選択肢の中で選んだ一つの結末、というとらえ方をしないわけなのだった。

話をラップに戻すと、結局のところ何でそんなに真剣生討論状態になったかというと、「どうせヒプマイ好きな人はキャスト(声優)が好きで見ていて、ラップの神髄を理解しないんでしょ?」という論調だったからである。

それに対する私の返答が、「フィクションをナメるな!フィクションの中に人生がある!」だったのでかみ合わなかったわけである。

ちなみにリアルに「フィクションをナメるな」と言ったので、近くにいた後輩がツボに入ってふいていた。マジ顔で言い返すことがそれか、ってなったんだろうな。すまんな。マジなんだ。

いやでも、こちとら刀剣乱舞にハマった女子がリアル刀剣に投資をしまくってしまい、結果的に行方不明だと思われていた刀剣が見つかったとか、文化財指定を受けたとかそういう話をここ数年ずっと見てきたわけでして、フィクションに歴史や人生がないかというと「フィクションは時に現実の人間の価値観や社会を変えることもある」わけで。

強めの幻覚を見ていても、現実と混同しているのかと言われると必ずしもそうではなく、影響はされていても現実は切り分けているオタクも多く……。

むしろ、昔から「ドラマで悪役をやった役者を現実でも悪人だと思い込む」人とかが普通にごろごろいたわけでして。

安達祐美さんとか、「家なき子」のドラマやった後に、道端でごみを投げつけられたことがあるとかおっしゃっていたなぁ。

あのドラマ、孤児になった安達祐美(が演じている主人公)がいじめや迫害にあいながらも強く生き延びていく、という内容で悪役やったわけでもないのに、ドラマで酷い扱いされていたのを見て現実にも演者に対してそれをやっていいと思う人って本当にいたの?頭大丈夫?と思うんだけど、実際そういう人はいるんだよ……な……?

TVのバラエティでやっていたことを真に受けてクレームが殺到したとか、そういう理由で過激な内容はほとんどできなくなったとかいう話もあったしな……。まぁ、過激なことを無理やりやらせるのは良くないだろうけど、そんならエセ医療番組も駆逐してくれ。

フィクションに描かれた以上の物語を求めないのは個人の自由だと思うけど、描かれたことをすべて現実と結びつけてしまう人は普通に実害があるのでやめて欲しいよな……。

実在のモデルがいても、演じている人間がいても、フィクションはフィクションとして描いた時点でその世界のものであって、現実の人間とイコールではない。作品を書く時は、その物語の中での真実を書かねばならない。

そんなことをおっしゃったのは明治時代の文豪、国木田独歩氏なわけなんですけど。(機会があれば国会図書館デジタルコレクションで「病牀録」のモデル問題の項を読んでみるといいぞ!)

つまり、この議論に明確な結論を出せる人間はいないんだよ。だってフィクションの世界の中にある人生、という強めの幻覚を観測できるのは、そのスジの思考的な素養がある人なんだもの!

明治の終わりから100年以上経っても、同じところをぐるぐる回るわけだよ!

オタクはオタクの世界で生きよう!

パンピーはパンピーの世界でいきよう!

この話は解散だ!



でも、悪役を演じた人が本当に悪人だとかは幻覚ではなく妄執なのでやめような!





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