75年、満州の花嫁のこと
私の祖母は、祖父とお見合い結婚だった。
それだけなら時代柄珍しくもないけれど、祖母の家は地元ではそれなりの大地主であり、祖父は一介の農家の次男だった。
どうしてそんな身分違いの結婚が昭和の初期に叶ったのかといえば、祖母の顔に大きなアザがあったからだ。
アザのせいでお嬢様にも関わらず嫁ぎ先がなく、厄介払いのようにお見合い結婚をさせられたのが祖母ということだ。
祖父母は満州に渡った。
祖母は、当時新聞で「満州に渡る花嫁って記事されたのよ」と、酔っぱらう度に私の母に自慢したそうだ。
当時の満州というのは、国策で定住者を増やそうという試みがされていたそうだ。実際、満州の入植者に嫁がせる目的で女性の農業従事者を募っていたそうだ。
そんなことを国策でするくらいなのだから、最初から夫婦で入植してくれるというのはありがたい存在だったのだろう。新聞の記事になって華々しく送りだされた。
それが、『顔にアザがある』という理由で女性の尊厳を奪われた祖母にとって、きっと恐ろしく幸せな記憶だったのだろう。
満州の農地は、大変に豊かであったらしい。
だけど、祖父母の間に生まれた長男、次男は、満州で飢えや病気で死んでいった。大変な苦労をしたようだ。どれくらいの時期に行ったのかはさだかではないが、祖父は短期間であるが従軍していたというし、満州に行っても末期の頃は召集がきたという。満州からの引き上げも楽ではなかったと聞く。そういうこともあって、子供が育てられなかったのかもしれない。
終戦後、祖父母は自分の故郷に帰らなかった。
祖母にとって、実家は自分を厄介払いした家である。
祖父の出身は広島だ。戻れなかった理由は想像がつく。
そして、満州の農地に夢を見たのと同じように、祖父母は北海道の戦後入植者として新しい生活を始めた。
我が地元は、肌寒くてろくに作物が実らない場所だ。草くらいしか育たない。だから大半が牛を飼った。きっと満州よりも入植は大変だっただろう。
父の妹(つまり私の叔母)は、祖母に大変な苦労をかけた祖父のことを嫌って、葬式にも顔を出さなかった。
私は祖母が大変な思いをしていたことは知らない。
私が知っている祖母は、いつでも底抜けに明るかった。
私が知っている祖母は、顔に大きなアザなどなかった。
上の二人が亡くなったので、三男だけどほとんど長男のように扱われてきた父が、母と結婚する時、祖母は父に「お願いだからアザの手術をさせて。お嫁さんに逃げられてしまう」と懇願したそうだ。
祖父ではなく父にお願いしたのは、祖父は今更アザを気にしていなかったからなのかもしれないし、単純にアテにならなかったからかもしれない。
アザがあったがために、良家のお嬢様なのに入植者に嫁いだ祖母は、満州での生活を乗り越え、戦争も遠い記憶になった高度経済成長期になってやっと、自分の人生を運命づけた顔のアザから解放された。アザが手術で消せる時代になった。
アザがなくなった祖母しか知らない私は、とにかく底抜けに明るいところしか見たことがなかった。
だけど酔うと泣き上戸で、母に「昔、あの人はあれをしてくれなかった、これをしてくれなかった」と、祖父の不親切をグチグチと嘆いていたらしい。
それでも孫の私には、そんな顔を少しも見せたことがなかった。
祖父はずっと、無口で頑固な人だった。いかにもな昔の男だった。
アザのある祖母と祖父の間に、愛があったのかはわからない。恐らくなかったのではないか。ワケアリ見合い結婚の夫婦など、そんなものだと思う。
それでも祖母は祖父と添い遂げたし、祖父は寡黙だけどアザがあってもなくても、ずっと祖母と共に生きた。
愛はなかったのかもしれないけれど、絆はあったのかもしれない。
戦後75年。
祖父の故郷の広島は、緑にあふれている。
祖母は62歳で早々に亡くなったが、祖父は89歳まで生きた。
実家で家族そろっていた正月に、あわただしく亡くなった祖母。
脳梗塞で寝たきりになった後は、遠くの病院でひっそりと肺炎で亡くなった祖父。
どちらも「らしい死に方」をしたと思う。
祖父母は私に何も言わなかったし、母が祖母から聞いた話を又聞きしたくらいで、満州や北海道での入植生活が実際どれほどの苦難だったのかを知らない。
ただ、アザのことで家族からないがしろにされたのであろう祖母が、愛のない結婚をしたのであろう祖父母が、ともに生き続けることを選んだことは何となく忘れないでいようと思う。
祖母がいた時は無口な祖父が少しは話していたことを、祖母が亡くなった後も祖父が私と二人きりの時だけたまに軍歌を口ずさんでいたことを思いだしながら、戦争を知らない私は戦後75年の夏を生きている。
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