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クラシックの演奏家と個性。

Twitterでちょっと話題になっていたので、私の感じていることを書きつつ、モイーズの言葉を紹介させていただきます!

私はクラシック音楽であまりに自己アピールの強い演奏を聴くと「いやいや、だったらアナタ、自作自演すればいいじゃない!」と思います。
(私も若い頃はそういう演奏をしていたので偉そうには言えないのですが^^;)

だって。自分の世界を表現したいならゼロから作ればいいはず。自分ではない誰かが作ってくれたものを演奏するならば、その作品世界をどう伝えるかが大切なのは当然のこと。ただ、かと言って、クラシックの演奏家に個性は重要ではないとも言えないのではないかと思うのです。

例えば自分がお金を払ってコンサートを聴きに行く時「私は一生懸命この音楽を勉強しました」ということしか伝わらない人だったら「う〜ん、学校の試験や発表会じゃないんだし‥。」と思ってしまうこともあったりして。やっぱりその向こう側にある何かに触れることを期待していて、それは演奏者の人間的な部分と深く関わっているように感じます。

偉大な作曲家の作品を借りて自分を見せようとするような演奏には共感できないけれど、でも私たちは演奏家の音楽に対する考え、解釈、生き様、人間性、様々な要素に触れることにも魅力を感じ、クラシック音楽を聴いているんじゃないかなぁと(少なくとも私はそうです)。

演奏家と個性について語られているもので私がとても共感しているのが、高橋利夫著「モイーズとの対話」の演奏論。ちょっと長いですが引用します。

個性がなければ芸術家にはなれないだろうが、音楽家だったらその個性は音色と曲の解釈に現れるだろう。
その人のだす音はその人の全人格を表している。
それはあたかも人声と同じようなものだ。
音を聴けばその人間が何を考え何をやってきた人間であるかはっきりと知ることができる。
人格が向上すればその段階に応じて欲する音を出すだろう。
従って音は死ぬまで変化しつつ生き続けるのだ。

もう一つは解釈、ある人が作曲者に対してどのくらいの音楽的良心をもって、符の玉から音楽をひきだすか、いかに自分を押し殺して曲の心を再現し曲に命を与えうるか、その度合いによっておのずから個性が変わってくる。
芸術家の音は少なくとも曲の再現に恥じない音であるはずだし、曲をだしに使って自分を見せるようなことは決してしない。この域での個性はそれぞれにすばらしい。
しかし、これは出そうと思っても出るものではない。
芸術家の己にきびしい追究の道において知らず知らずのうちににじみ出るものである。
結果的に我々がそれを個性と呼ぶだけのことである。
意識的に個性を作ろうとしたならば、ショウマンにはなれても、絶対にアーティストにはなれないだろう。
芸術家の個性は人格の表出であることに注目しなければいけない。
それに接することはあるときには作曲者の心に接すると同じくらい貴いことであるかもしれない。

高橋利夫著「モイーズとの対話」より

クラシック音楽の演奏で、奏者の自己主張ばかりが聴こえてくるのは好まないけれど、音楽と真摯に向き合って滲み出る人間的な部分に触れることはとても尊く、胸に響くもの。音楽に対してさえ忠実であれば、それは決して聖人的でなくてもいいし、溢れ出る「人間」や「生」を感じさせてくれる演奏を追いかけ続けたいと私は思うのでした。



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