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彼の歌と一千万の紙吹雪(小説)

すごい光景を見てみたいな……と思っていた。すごい光景ってどんなのと言われたら困ってしまうけれど、すごい光景を見たいなと思った。

「あ……お金を入れにいかなきゃ」
 一人つぶやいて、銀行に向かう。今日は一般的に給料日と言われる日だからだろう。銀行には長蛇の列が出来ている。顔は皆どこかしら真剣味が見え隠れしている気がする。今日の給料でいろいろと支払わなければという思いがあるからだろう。私はイヤホンの位置を調整した。少し音が大きく感じて、音量も変更する。聞こえるのは懐かしい曲だ。私が十年前に狂ったように好きで愛していた音楽を、私は今も聞き続けている。私がはまりこんでいた人は元々個人で活動していたけど、今はバンドとして活動しているらしい。でもバンドでの曲は聴いたことはなかった。大人気というわけではないけれど、ロック好きには認知されている人らしい。次に人気が出るのではという話も出ていた。なんだか少し遠い人になってしまったなという感じだった。
 私の番がきた。ATMに向かう。灰色の機械に暗証番号を打ち込むと、私の給料が入っている講座の情報が出てくる。十六万円。保険や年金を引かれた数だ。二十八歳。五年はこの金額の給料が振り込まれている。工場の一般事務。今の勤め先ではこれ以上の給料は見込めないだろう。皆平等に貧乏だった。
 ただ私は家族と暮らしていて、家族に渡すお金以外は自由だった。月々六万円渡して、残りの十万のうち必要経費を抜いたモノを口座に入れる。その額は一千万円になっていた。その金額を見る度に不安になる。お金が人並み以上に貯蓄しているのは分かる。でもいくら金額を貯金しても、どうしようもなく不安になる。だってそれで私はどうして大丈夫と言い張れるのだろう。私の自信に何も直結していないのだ、そのお金は。

「どうしたの、ぼうとしてない」
「あ、いえ」
 私は深々と土下座をする。相手はシャワー上がりだ、タオルを腰に巻いて、ベッドに腰掛けている。私はそのベッドの前で土下座をしていた。私はほとんど裸だ。これから相手にサービスをする。
 友達、といえるほどの付き合いをしているわけではないが、たまに話す女の子は、私の仕事をどう思うだろうか。昔からコミュニケーションをとるのが苦手で、たまに風俗を体験で入っていた。そもそも誰かと近くで話すことがほとんどなかった私にとって、強制的に距離が近くなる風俗は、「勉強」にはうってつけだった。でも何だろ、愛想笑いもろくに出来ないし、会話もあわあわとしてしまう私には風俗はあまりにあわないようだった。それならこっちの実技を求められる方が、まだ向いているかな。本当に肌を重ねるくらいに距離が近づくし。なんだろ、そのラインはあまりに低かった。軽く足を上げれば通り越せるくらいだった。私にとって私という存在はあまりに軽いのだろうか。ふわふわ浮かぶ風船みたいだ。でも、こっちでもあまりうまく言っているかと言うとそうでもない。月に一度か二度、出勤だけしている。普段の仕事があるからと言う理由でそうしている。ただそんな出勤状況なのに、契約を切られないことが不思議なくらいだ。
「ホントに下手くそなんだなぁ」
 咥えて舐めていると、そんな言葉が降りかかってきた。私は上手く返答できず、ぎこちなく笑おうとする。すると「もういい……」というため息交じりの言葉が聞こえてくる。失敗したという顔だ。私はなんと言葉を出せば良いのか分からない。
「で、あんたさ、あの話本当なの」
 口にたまっていたつばを飲み込む。
「本番もするって本当?」
 私は一瞬キョトンと目を丸くする。どうしてこの人はその事を知っているのだろう。前のお客さんの時も口止めをしたし、その前のお客さんにだってした。でも言葉による口止めの効果なんて、紙よりも薄いものなのだろう。
 なんだか観念するような思いだった。私は裏切られたのだと思う。ちゃんと約束したのに、裏切られたのだと思う。
 まるでそれまで透明だった水に、クロインクが落とされたような感じだ。でもそもそも私が本番なんてことをしなければ良かったの
だ。でもそもそも私が本番なんてことをしなければ良かったのだ。つまり自業自得といってもいい。
 でもどうしてそもそも本番なんてしてしまったのだろう。私は相手の言葉に黙ってうなずき、スキンだけを着けることを頼んだ。
 男は悠々とそれにうなずく。私は胸を撫で下ろす。
 そうしていれば大丈夫という思いがあった。バカだろうとは分かっている。
 こんな風に私の唯一の頼みに頷いてくれる男だけとはかぎらないのに。そんなの嫌だといわんばかりに暴力を振るうのもいるだろう。何も安全なことはないのだ。ただでさえ、通常の業務でさえも。
 何だかよくわからないまま時間が過ぎていく。唾液も精液も汗の臭いも。
とっても臭かった。仕事が終わると、私は体を丹念すぎるくらいよく洗った。
 汚いとは思わないし、この仕事もコミュニケーションの勉強になると思う。
でも、臭い。

 私の好きな歌手だった人は、最初そんなに歌が上手なわけではなかった。でも作る曲はとても素敵だった。
華やかで早い音楽で、そうまるで坂から転がり落ちる少女が歌いそうな曲だった。
 本人の好みが少し独特で歌うにも技術が要りそうな曲。
下手くそな歌かもしれないけれど、その一生懸命さがあいまって、人気が出たのだと思う。その人が活動していた動画サイトもその頃は、うまい下手も人気の基準ではあったけれど、独自性と愚直なひたむきさも評価のひとつだったのだ。
 その人は天賦とも言える才能と、努力で生きていた。だからプロになって今も活動できているのだろう。私はそんなキラキラした彼を見ていられなかった。
 大学に通ってもなじめず、吐くことが続き、中退。その後をただふわふわと流れる風船のような私には、あまりに輝かしい存在になりすぎた。

 仕事の料金は高かった。毎度どうしてこんなにもらえるのか不思議だったけれど、本番をした口止め料もかねているのかもしれない。でも何も説明がついていないから、すべては私の妄想だ。でもこのお金を口座に入れようと思わなかった。
 私はいつもだったら食べない(それこそ母が仕事の際は毎回弁当を作ってくれる)千二百円の牛タン定食を食べる。牛タンの味はおいしい、麦飯がいくらでもすすむ。そしてあまった残りのお札を、私は誰もいない路地裏で燃やした。綺麗だった。もしくはビルに吹き込む風に飛ばした、ひらひらと羽のように飛んでいく。それも綺麗だった。何だろう、本当にずっと見ていられる。

 生きるのに理由はいらないし、存在意義なんて深く考えることでもない。何か目的がなくても楽しく生きられる。それはそうだろう、確かにそうだ。でもそれを言い切れるのは、そうして何も不満を感じない人だけなのかもしれない。私は不満というよりは不安だらけで、こうして歩いているだけで周りに人がいるのに、寒気を感じる。一人で雪原を歩いているようだ。そこには果たして私を迎えてくれる家はあるのだろうか。
 私はなにか、人間の仕様という意味で問題があるのだろうか。それほど問題はない気がする。昔から両親は私を気にかけてくれた。お金の無駄遣いを防止したかったのだろう、お小遣い制ではなく、必要なときお金を渡してくれた。それで必要なモノだけ買うようにした。そうしたら必要なモノ以外に興味を持たなくなった。欲望がすうと排水溝に吸い込まれるように消えていった。ただそれでも大学に行きたいなと思っていた。大学に行くとなったら、自立せざる得ないことも多いだろう。自分は知らない世界に飛び込みたいというのだけはあった。

「だってアンタ暗いんだから……」
「皆の空気、壊すんだよ!」

 だけど駄目だった。私は私の知らなかった世界に飛び込んで生活できるだけのメンタルではなかったのだ。あまりに知らなかった挫折だった。辛いとか悲しいとか、それ以前に呆然とした。私は、なんてちっぽけだ。そう知ることは良いことなのか……少なくとも私はそこから、ずっと迷走している。こうして、死んでいくのかなと思ってしまう始末だ。まるで生きながら、塵になって消えていくよう。

 それも人生なのかな……私は胸元を掴んだ。

 空気が少しざわついている。そんな気がしてしまったのは、私の心がかなりおかしいという証拠なのだろうか。いや、きっとものすごいまぐれに動いた直感だ。その日、とある県で彼のバンドのライブが開かれることになった。私の住んでいる東京からはずいぶん遠い県。彼のバンドのライブは人気で、ファンはずいぶんと楽しみにしていたようだ。でもそのライブが休止になった。バンドはどこぞの週刊誌にすっぱぬかれるような不祥事を起こしていなかったし、誰かの体調が悪いという事前情報もなかった。突然の中止沙汰。ライブの主催が発表した文章も、ファンの不安を煽ったそうだ。それは以前バンドメンバーの死去で中止になったライブの時に出された文章とそっくりだったからだ。
 私はそれを何もかもが終わった後で知った。
 今月に入って初出勤だった。いつもの仕事が大変で、いつも以上にヘロヘロな状態で、サービスをはじめていた。その日のお客さんは初めての人だった。店側からは、一番大人しい子という要望を元に私をすすめ、金を支払った。私は彼の前で挨拶したとき、お客さんは開口一番に私を罵った。そして顔を足で踏んだ。どうも聞いていると、風俗で童貞を捨てたらしいが、あまり良い捨て方ではなかったようだ。女性に対する憎悪が全身からみなぎっていた。傍から見れば哀れな男というより人間なのかもしれない。風俗で働く女性に憎悪をぶつける以外に彼の気持ちの落ち着きどころがないような気がした。

「このあばずれが……楽な商売だよな、ホントに!」
「そうやって、俺を馬鹿にしてるんだろ!」

 馬鹿にしているつもりはない。痛いし、苦しい。彼は謝罪しろといわんばかりで頭を掴んだ。頭をベッドに押しつけてくる。呼吸を封じられ喉の奥がなった。そして解放されたとき息が荒れる。ヤバい、こいつ、本気で殺す気だと思った。
 でもここからある意味、一番マズいことになった。お客の男は興奮していた。体が収まりのきかないことになっていた。私はろくに濡れていない上に、スキンのつけていない男に犯された。痛かった、体を裂かれるのではないかと思う痛みと何も予防していないという恐怖がぞくりと背筋に潜り込み、喉の奥へと這い上がっていく。

「いやあああああああ!」 
 私は叫んだ。こんなに感情が大きく出たのはいつぶりだろうというくらいに。
 男は馬鹿みたいに腰を打ち込みつづける。それがまるでシンバルを叩き続けるさるのおもちゃみたいで、私は壊れそうだった。

 全てが終わった……私は男に置いていかれ、一人で全ての処理をした。みっともなさと嘘だという思いと、男の名残と……店側に訴えるべきだった。でも調査が入って、私が本番をしまくっていたことがバレたら……私もおしまいだった。このお店にいることも出来ない。それは何だろう……私はまた、何かを失うかと思った。居場所とか、役割とか、体を差し出すことで感じていた何かの意義とか。
 一人でどうにかするしかない。この場合はどこに行けば良いのか……産婦人科? ははは、ほんとに? 自分の傷を処理しに行かなきゃいけないの? 私は吐いた。産婦人科には妊婦と赤ちゃん連れが多くいる……そんなところに、私が行くという現実に耐えられなかった。それで必死に探していたら……検索サイトのトップニュースに「彼が死んだ」というニュースが流れていた。
 心臓がいきなり止まって、亡くなったらしい。ニュースサイトのコメントには哀悼と驚愕、戸惑いのコメントで満ちあふれていた。私は持っていたスマホを、床に落とした。私の青春が死んだの?

 どうして?

 どうして私じゃないの?

 結局私は自分がどういう状況になっているか分からないまま、家に帰った。次の日にはまた事務の仕事をしていた。私の身体はどうなっているのか、本当に分からない……だけど時間は過ぎていく。あれから一週間が経っていた。
 身体には特に何か違和感というか変化は感じない。ただネットの界隈では彼の死を悲しみ、昔よく聞いたと語っていた。休日、私は動画サイトを見た。するとおすすめで、昨年のライブで彼が昔の曲を歌っていることを知った。大好きな曲だった。逝ってしまった彼はあの曲をどう歌っていたのだろう。

「どうしてなんて言わないさ。ただ叫ぶんだ、叫ぶんだ」

「朝が消えて夜しかなくて、放り出された向こう側」

「泣くってどうすればよかったのかな。誰も教えてくれない」

 彼はまた一段と歌がうまくなっていた。ギターをかき鳴らし、たくさんの人の手拍子に乗って、歌っていた。青いライトが当たっている。まるで祝福されているようだった。彼は幸せそうに、悲しいはずのあの歌を歌っていた。まるで私の心のささくれにフィットしていたあの歌は、心傷ついている人を癒やし応援する歌になっていた。あまりに衝撃的だった。なんて、すごい人になっていたのだ。私を応援していたあの歌は、たくさんの人を盛り上げている。
 自然と私は泣いていた、夢中になって彼のバンドの曲を聴き続けた。それは以前とはずいぶん違った歌だった、でもどれも耳から離れない。どうして今まで聞いていなかったのだろう。こんな素敵な歌や曲を知っても、今はソレを作る彼はもういない。キラキラ輝く宝石みたいな曲だけ残していった。
「こんなにあっけないの?」
 彼は私とそれほど年が変わらなかった。三十代になったばかりでまだまだ歌い続けることが出来るはずだった。ぽつりと呟いた言葉はあまりに私の心に刺さった。もし今私が死んだとして、何が残るのだろう。何も残せない。強いて言うなら、一千万が残るだけか。でもその一千万に私はどんな意味を託せるのだろう。分からない。そのお金には虚無しかないのだから。

 私ははたして私の人生を生きているのだろうか。
生きることに漫然としていないか。それで、死んでいくのか。
 生きることに意味も意義もないのかもしれない。でも私はそんな言葉に傷ついてしまう。私は弱くて、満足していなくて、意味も意義も望んでしまう。
 私は……私は……生きたいんだ。心が底なしの泥に沈み込ませて、生きたくないんだ……!

 私はビルに入っている喫茶店から外を見上げていた。お札が降ってくる。一千枚のお札だ。まるで紙吹雪のように降ってくる。事務の仕事で訪れるビルの屋上から、ちょっとした仕掛けを使って降らせたのだ。仕掛けはうまくいき、札はさらさら落ちていく。なんて綺麗なのだろう。風に舞う札はあまりに綺麗だった。外では大騒ぎだ、札を掴もうとする人が続出している。喫茶店の中にいたお客は、私を除いて皆出て行った。私の虚無を宿したお金。今それは私の中から出ていった。私の中に何もない、何もない。あるのは何もないからこその覚悟だけ。

 生きるという覚悟だけ。

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