読書会、はじめます

 どこか田舎のひなびた庵に閉じこもって、晴れの日は耕し、雨の日は読み、そういう生活にあこがれはしても、実際にそう生きていくことは難しい、それがわかったのが、このコロナ禍、だと思います。

 ここ約二年、狭いアパートにこもって、テレワークをしてきました。実家は瀬戸内にあるので、家族からも離れ、長年住んできた都心で作った家族などおらず、たまに友人に会ったりしてはいますが、基本的には一人。誰とも言葉を交わすことなく、一日が終わっていく。孤高な感じで生きていきたい、とうそぶいてはみても、他者たちと隔絶されているというのは、やはり寂しい。寂しさも染み入るうちは感傷にひたれてなかなかよいものですが、骨身にまでこたえてくると、生きているということがわからなくなるものだと学びました。

 また、連日のニュースの報道からもこんなことがわかってきました。たとえ家族や恋人と一緒に住んでいたとしても、外部との接触が薄れてしまったこのコロナ禍では、愛しているはずのものも時として地獄に成り得る。こう言ってはしまっては残念ですが、愛するものたちによってのみ、人間は生きていけるわけではないからでしょう。やはりどこか外部と接触していないと、とてもきつい。

 小説や詩は、自分一人の部屋や空間の中で味わうことを前提にされている「外側」だと思います。例えば詩人の田村隆一さんが、「詩は万人の私有」である、とその作品の中で言っていますが、それはそういうことだと思います。だからこそ小説や詩は、孤である個、に語りかけてくる力がとても強い。

 個人的な話を続けて恐縮ですが、少なくとも私は、どうしようもない夜を、どこかの誰かがひとり部屋にこもって書きつけた言葉に、救ってもらいました。涙が出るほどそれをありがたいと思った。そして自然とその体験やその言葉のどこに感銘を受けたかを、誰かと直接語り合いと思い、途方にくれました。①救われたと思った途端に他者を求めていることに②語り合える他者がいないことに。

 これは私だけでなく、過去、現在、そして近い未来に――たとえコロナが収束し元の世の中に戻ったとしても――すべての人が根源的に経験する(している)ことだと思います。だから、それを共有する場を作りたい。ひとりの時間の中で拾って来たものを見せ合って、それを一つの外部として認め合うような場を。完全にわかり合えなくてもいいと思います。自分以外に、他にももう一つの、半有形な世界がそれぞれにあるのだ、そう認識できれば、過去を見つめ、現在に踏ん張り、未来を生み出せるのではないかと信じます。

 ひとりきりの部屋で、家族にあてがわれた自分だけの部屋で、コーヒーを無言でただ飲んで帰るだけの喫茶店で、それぞれ別々に本を読んだあと、集まってその話をする、というのはどうでしょうか。コーヒーや紅茶、少しのお茶菓子を口にいれながら、コクテイル書房という、築百年の開かれた古本酒場を借りて。そして、その本はどこか外国のものがいいのでは、と思っています。異邦の喜びや苦しみ、そこから生まれた言葉は、それが見知らぬものであるがゆえに、よりその体験を広く私有できるのではないかと思っています。2022年1月15日から、月に二回。課題図書、詳細については、12月11日までに決定し発表します。

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