『羅生門』芥川龍之介 構造

下人が羅生門の下でずっと待っている、この叙述の三回ほど繰り返す間に京都の町の説明、描写が入る。
その後下人のこころの様子(盗人になるか、ならないか)
結局羅生門をねぐらにさだめて、梯子に足をかける。

ここでポイント
「それから、何分後かの後である。羅生門の楼へ出る、幅の広い中断に一人の男が、猫のように身を縮めて、息を殺しながら、上を容子を窺っていた」
上記文章から始まる段落にて、プロローグが終わる。これ以前の段落は説明に多く文章が割かれていたが、以降はほぼなくなる。
プロローグの文章は「下人」として主人公を指示していたが、ここで急に「幅の広い中断に一人の男が」となり、主人公が客観的に描写される。読み手の頭の中で起こっていたはずの、主人公への寄り添いがいったん無化される。

窺って、もしくはのぞいて、という叙述の後、下人がのぞいたものの描写。
この順序で文章が繰り返される。たとえば映画で、何かを除いている人物の様子を映しておいて、人物の主観に切り替わる、そういう効果。(ここで読者は下人に自分を重ねるか)

老婆の姿を見て以降、描写はほぼなくなる(もちろん説明も)
下人と老婆の動きの叙述が少し増え、特徴的なのは、下人の内面の描写に半分ほど割かれるようになる。主人公と老婆の間で会話が交わされる。老婆の心情は会話文の中でのみ窺い知れる。なお間接話法は一切ない。

最後の三段落は主に動きの叙述。「外には、ただ、黒洞々たる闇があるばかりである」で描写が返ってきて、効果的。
「下人の行方は、だれも知らない」で結ばれるが、この「だれ」とは誰か。この小説では人物については、下人と老婆、下人に暇を出した主人(過去中)、魚の干物と偽って蛇を売る女(会話分中)しか言及されない。言ってしまえばそもそも、下人が羅生門の下で雨をしのいでいたことも、ひとしきり身の振り方について逡巡したことも、老婆を打擲したことも(まあこれについては老婆は知っているが)、誰も知らない。知っているのは下人本人、そして語り手と読み手とである我々ばかり。つまり語っているぼくも知りませんよ、ということか。下人が羅生門を離れてしまうと語り手も語ることをやめる。物語が終了するものすごい深淵。これって語り手が羅生門、それ自体なんじゃないか?

この小説の優れた点としては、様子を窺っている下人の主観が描写され、それが何度も繰り返されるところだと思う。それによって読み手は下人になる。その後の心理描写にすんなり移行、共感するためのいいお膳立てになっているのではないだろうか。
なので意外と語られている内容については重要ではないのではないだろうか?

プロローグの下人と、その後の下人は、果たして同じ「下人」なのか、、?

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