サッカーを両手で扱う女子高生と ズラタン・イブラヒモビッチみたいな女子高生
都内の古い典型的な賃貸マンションの子供部屋、白い壁紙に仕切られた狭い部屋にはシングルベットと勉強机、片隅には狭い部屋相応の三十インチほどの液晶テレビが壁の棚に一つあった。
人によっては殺風景と思うような部屋だが、これが女子高生の部屋だと思うとさらに殺風景な部屋だと思う無機質な部屋。
そんな無個性な部屋の持ち主は床に置いた小さな青いテーブルの上に銀色のノートパソコンを置いて壁際の液晶テレビを覗き込んでいた。
音声のボリュームを絞ったテレビの画面にはサッカーの試合が映っていて、テーブルの前に座って女の子は表情を変えずに真剣に見ていた。
サッカーの試合はついこの前までやっていたロシアワールドカップ杯の試合だった。
赤茶色のユニフォームを着たポルトガル代表と白いアウェイ・ユニフォームを着たスペイン代表とのグループステージ第一戦、実況解説の音は小さくしてあってほとんど聞こえないようになっていたのは集中して見るためのようだった。
白いTシャツにジャージの短パン、黒い髪を肩口で切りそろえた少年の様に線が細い女の子は何かを数えているような真剣な目つきでテレビ画面を凝視していた。
そして時々テレビを止めては手元のパソコンに文字や数字を入力していった。
手元のパソコンの画面には普通は大人が仕事などで使うエクセルの画面が表示されていて、そこには選手名と国籍、そして誰がいつシュートをどんなパスから何タッチでシュートを放ったのかが克明に記載されていた。
高校一年生の女子が部屋でやる事としては随分と渋い作業だが、女の子は特に表情を変えずに淡々とテレビ画面を時々止めて、パソコンの画面への入力を繰り返して見ていた。
サッカーを見ながら盛り上がったり応援している感じもない。
ただサッカーの試合を見てエクセルの入力を行っているだけで顔は笑いもしない。
何かのアルバイトのように見えるが、女の子は時々感心したような表情を浮かべてテレビのリモコンで画面を止めて、少しだけ巻き戻してもう一度プレーを見直したりしていた。
「上手い」
思わず小澤翔子(おざわしょうこ)は唸るような声をあげた。
白いユニフォームを着たスペインの選手は殆どパスミスをせずに長短のパスで赤茶色のポルトガルの陣地に侵入していく。
だがそれはポルトガルの選手も予想済みなのか、無闇にボールを持っている選手(ボールホルダー)に突っ込むことなどせずに、壁のようにゴール前にデフェンダーを並べて耐えていた。
ボールをなるべく長く自分たちが保持するポゼッションスタイルでワールドカップ・南アフリカ大会で優勝したスペイン代表と、大エースクリスチャーノ・ロナウドの得点力を生かす為にデフェンスからのカウンターを狙うポルトガルとの対決はお互いの意図がガッチリ噛み合っていて、我慢比べのような試合展開になっていた。
翔子は食い入るように、まるでバスケットボールのようにパスを交わしてゴールに近づくスペイン代表の試合を見ていた。
スペイン代表のボールの中心には今年からJリーグでもプレーするイニエスタとプレミアリーグを優勝したマンチェスター・シティーに所属するダビド・シルバ、チャンピオンズリーグ三連覇のレアル・マドリード所属のイスコという世界でもトップクラスのボールコントロールできる能力を持った選手たちが居る。
サッカーというスポーツは足でボールを蹴りあうスポーツなので、どうしてもボールは止めたつもりでも跳ねたりしてコントロールができない状態になるはずなのに彼らは両手でボールを扱ってるかのごとく正確にボールを止めて自分のコントロール下に置いて、数メートルのパスを受け手の欲しいところへ届ける技術を持っていた。
何度見ても彼ら世界のトッププレイヤーの足技は尋常ではない。まるで足が手のようになっているようにボールは吸い付くようにドリブルをして、パスは正確でトラップは野球のミットのようにボールを掴んで離さない。それを屈強なデフェンダーに囲まれながら出来るのだからただ見惚れるしかなかった。
そんな風に翔子はテレビ画面の足を見ていたら、肩に何かがのし掛かって来た。
何かと考える間も無く肩口にのし掛かって来たのは白くしなやかな張りのある曲線を持った細長い足だった。
「イブ、邪魔しないで」
「翔子ちゃん〜私すごく暇なんですけど〜」
翔子の肩に足を乗っけた女の子は翔子の狭い四畳半程の部屋には不釣り合いな手足の長い女の子だった。翔子と同じ白いTシャツにジャージの短パン姿だが、金色の絨毯でも引いて居るのかと思うくらいボリュームのある金色の髪を床に広げ仰向けになって翔子の後ろで寝ていた。
「もう眠くなって来たんですけどー」
青い目を擦りながらグーデリアン・伊吹は翔子に足を絡ませながら文句を言った。
流暢な日本語にドイツ人の父親譲りの髪と瞳の色はゲルマン人の特徴を有していたが、本人はずっと日本で生まれて日本で育っていて、偶に街で外国人に話しかけられると無理無理と手で顔を隠しながら慌てて逃げ出す事が多い。
身体は大きいが翔子と同じ高校に通う一年生だった。
「じゃあ家に帰って寝ればいいでしょ?」
今日はサッカーを家で見ると言う翔子について来て、試合開始四分のロナウドのPKまでは翔子の横で伊吹は見ていたが、すぐにテレビから目を離しして横になっていた。どうせすぐ飽きると思っていたが、本当にすぐに伊吹が飽きたので翔子はめんどくさいと思った。
「やだーつまんなーい」
伊吹は両手を震わせてバタバタし始めた。
「夜遅いんだからやめて」
翔子の家は古い賃貸マンションの一室で、そんなに防音に優れているのではない。伊吹の家は都内の湾岸沿いにある大きなタワーマンションなので隣や階下に物音が響くということが理解できなかった。
「ワールドカップ始まってから翔子ちゃんはツマラナイ!」
「私は楽しい」
「もーお、その試合見るの二回目でしょ?」
リアルタイムで一回見て、今見ているのはビデオレコーダーに録画した分だった。
「二回も同じもの見て楽しいの?」
「今回はビデオで止めながら分析してるの」
伊吹は漫画も映画も一度見たら繰り返して見たことは無い。
翔子は最初は何も考えずに簡単なメモ程度で見た後、もう一度重要なシーン毎に止めながらサッカーの試合を見るのが好きだった。
「今度は何を分析してるの?」
「シュートが決まるまでのパターンの分析よ」
「全部のシュートを?」
「そうよ」
「めちゃくちゃ時間かかるじゃん!」
「だから邪魔しないで」
翔子は右肩に乗った伊吹の長い足に手をかけてゆっくり降ろす。手で伊吹の足を持ったときに、ふと画面に写ってるサッカー選手達の事を思った。
ハーフの伊吹は手足も長いのだが、骨がとても硬い感じがする。滑らかな白い肌の下には筋肉と骨太の骨格が備わっているのを翔子は感じた。
翔子はゆっくりと伊吹の足を傷つけないようにそっと床に置いた。
ため息をついて再びリモコンをとって邪魔されて進んでしまった試合を巻き戻そうとする。
「遊んで」
「何っ?」
声を上げる前に伊吹は両足を翔子の小さな肩に引っ掛けて、膝を曲げてまるでカマキリの捕食のようにがっちりとつかんで翔子を引き倒した。
「なんで私が相手しなくちゃいけないのよ?」
「最近遊んでくれないじゃん」
伊吹は足に力を入れて抗議する。
「捕まえた!」
「ちょっとやめて」
足を交差していわゆる四の字固めのように足を絡まされて翔子は身動きが取れない。
翔子は伊吹に圧倒的な体格さで身体を押さえつけられて振りほどこうと足に手を掛ける。
「邪魔しないで」
「ふふん私の足から逃れられないよ」
カモシカの様に細長いしなやかな脚が少年の様な翔子の体にまとわり付く、伊吹の足は細長く見えるが、骨が太く筋肉質で締めつけられるととても痛い。
「ちょっと放して」
「やだ遊んでよ」
「良い加減にして!」
「グェ」
翔子が後頭部を思いっきり振って伊吹のお腹を打った。
伊吹の脚が緩んだので持ち上げて外すと翔子はテーブルの上のリモコンを取り出して伊吹に捕まっていた間の時間分を戻した。
「まったくもう……」
「ねえ翔子ちゃん遊んでよー」
伊吹は胸を後頭部に押し付けるように翔子の頭の上から覆いかぶさる。
「あーもう放してよ」
「やだ遊んでー」
飼い主に必要以上のスキンシップを求めて突撃してくる大型犬のように、離しても離しても伊吹は執拗に翔子に絡みつく。
「イブもちゃんとサッカー観なさいよ」
「サッカーは自分でやるもんだよ、誰かがやってるの観ていても面白くないよー」
伊吹は胸を翔子の頭に乗せながらため息をつく。
二人とも高校に通いながら近くのクラブでサッカーをやっているのだが、サッカーに対する態度は正反対だった。
「そんなだからイブは戦術メモリーが足りないのよ」
「ああアレ? サッカーをたくさん観ればサッカーが上手くなるってヤツだっけ?」
「そう単純な話じゃないけど……」
スペインなどのサッカーをより戦術的に捉えようとする意識が高い地域ではサッカーの局面ごとの正しい判断を記憶して、最適な判断を繰り返すことができるように頭を鍛える事が求められている。
サッカーは同じ事が二度起きる事がないスポーツだとされている。絶えず選手の位置は入れ替わり、足でボールを扱うのだからミスがたくさん起こるからだ。
だからサッカーを多く見て記憶したり経験を積むことは、頭の中に戦術メモリーとしてこういう状況が前にもあったから、次はこういう行動をとるべきだと頭の中に刷り込ませるだけでもポジショニングなどが上手くなる事がある。
「サッカーをたくさん観てた方がサッカーをより深く理解できるでしょ?」
「そうかな? だってボール蹴ってる時にそこまで考えて蹴ってないよ」
「イブはそれで良いのかも知れないけど、私はサッカーをもっとしっかり勉強したいの」
「もう本当に翔子ちゃんはサッカー好きなんだから」
「イブは嫌い?」
「うーんボール蹴るの好きだけど、こうやってテレビのサッカー観てると眠たくなっちゃうかボールを蹴りに行きたくなるよ」
伊吹には翔子のように毎週何試合も見てましてや手元でメモを取りながらサッカーを観る事なんて絶対できない。
「私はサッカーをこうやって頭を使って観るの好きなの」
「私もシュート頭を使って決めるの好きだよ?」
「イブみたいに背が高くてジャンプ力があったらねそういう頭だけ使うサッカーもできるかもね」
「へへへ」
伊吹は金色の髪をブラッシングのようにかきあげて照れる。
もちろん翔子は褒めたつもりはなかった。
「あっ」
「何?」
「今のシュート凄くない?」
「あっそうかジエゴ・コスタのシュートシーンか」
一点リードされた後のスペイン代表が、バルセロナ所属のブスケッツのロングフィードから抜け出したジエゴ・コスタのドリブルからのシュートで同点に追いついたシーンが流れていた。
「三人くらいデフェンス居たのに一人でドリブルしてゴールしちゃったね、なんであんな事できるの?」
「冷静に正しい選択をしてるからよ」
「今のなんか頭使ってたの?」
「ほらよく見てて、ジエゴ・コスタは右足でシュートしようとした時デフェンスがその前に立ったでしょ?」
「ふむふむ」
「それを見たジエゴ・コスタは切り返して左足でシュートを打つ選択をしたんだけど、もう一枚のデフェンスがそのコースを塞ぎに前に立った、それを見てジエゴ・コスタはもう一度左足で切り返して振った相手の股下が空いて居たのでそこを狙ってシュートしてゴールを決めたの」
「本当にそこまで見てたの?」
伊吹は疑って掛かったが、翔子はそうは思わなかった。
「見てたからシュート決められたの。それにボールの持ち方が左右どちらでもシュートが決められるようにボールに対して体を並行にしてるからどちらにもボールを動かすことができるから、常に相手よりも多く選択肢が持てている」
「ふーん、そうするとどうなるの?」
「相手がいる時に体を斜めにするとそれだけボールを動かす方向を制限しちゃうでしょ?」
「そうかなあ?」
「このレベルになると身体能力の差で相手のデフェンスを破るのは難しいから、ああいう駆け引きが必要になってくるの」
「駆け引き?」
「相手の裏をかくって事、右に食いつかせて空いた左で打つ。相手の選択の裏を取るの」
「なんだかめんどくさいね」
「めんどくさいって……」
「だってそういう細かい事私は苦手」
「そもそもサッカーは相手との駆け引きをするスポーツでしょ、相手が居て成り立つスポーツでしょ?」
「うーんそういうものかな?」
伊吹は翔子の話に納得してなかった。
「イブはまだ自分より背が高い人とサッカーやった事ないでしょ?」
「うんまあそうかも」
高校入ったばかりで百八十近い背の高さを誇るイブは女子サッカーではそうは居ない。背が高い子はみんなバスケかバレーに行くのだが、中学校では空手をやっていた伊吹はなんとなく足を使うサッカーもやってみたらあれよあれよというまに都代表くらい狙える選手になった。
それくらい伊吹の身体能力は女子サッカーでは貴重なのだ。父親はドイツ出身のエンジニアだが母親は社会人までバレーをやっていた。
「そのうちこういう駆け引きが必要になるよ」
「それはそれで楽しみだね」
伊吹はモデルのような体型で大人びているが、屈託の無い笑顔は子供そのものだ。
「今からでもそういう駆け引き覚えたらもっと楽にゴール決められるわよ?」
「うーんそういうの考えながらサッカーやってて楽しいの?」
「考えながらやってるようじゃダメなの、だから練習するの」
「コーチは頭使えっていつも言ってるじゃん?」
伊吹はめんどくさそうな顔をする。
「今のスペースの無いサッカーで考えてたらすぐに相手にプレッシングを受けてボール取られちゃうでしょこういう風に」
翔子が指差したテレビの画面には赤茶色のユニフォームのポルトガル代表の選手が何人もボールを持った白いユニフォームのスペイン人からボールを奪おうと取り囲んでいた。
「ほら取られた」
「これは下手だから取られたの?」
「違う、ポジショニングが悪いの。相手がプレスしてくる前に最適なポジションを二人目、三人目の選手がとってないから取られるの、パスコースが作れてないから、人間は顔の前にしか目がついてないし、足でボールを抱える事はできないから三人に囲まれたらボールは取られちゃうでしょ?」
「まあそんなに人が来たら流石に手を使って体を入れても取られちゃう」
「だからプレスを受ける前にボールホルダーはボールを離さないとダメでしょ?」
「でもボールから離れたらサッカー面白くないじゃん、ボールを蹴るのが楽しいスポーツなんだからさ?」
「そのキック一つ取ったって奥が深いのよ?」
リモコンを操作して翔子はテレビにゴールシーンを写す。
ポルトガル代表の二点目、クリスチャーノ・ロナウドのミドルシュートをデ・ヘアがファンブルしてゴールを割られたシーンだ。
「このキーパーの人下手なの?」
伊吹は移籍市場で百億円の値段が付くゴールキーパーの事を知らなかった。
「違うこれはキーパーよりもキックを褒めるところ、ほらここ見て」
テレビの前にでて、翔子はロナウドがシュートを打つシーンをスロー再生する。
「ほら打つ瞬間軸足を抜いてるでしょ?」
「わかんない」
「ほら蹴った後軸足浮いてる」
「本当だ」
ロナウドは右足でボールを蹴る瞬間、軸足の左足も意識的に浮かせていた。
「こういう蹴り方するとボールに無駄な回転が掛からないし、何よりシュートコースがキーパーから見て読み難い」
「ふーん、そういうもんかなあ?」
ロナウドのキックの技術の凄さを伝えても伊吹にはあまり響かなかったので、はあと翔子は大きな溜息をついた。
翔子はサッカーを色々な要素、ボールの蹴り方からフォーメーションまで色々な要素が詰まった「ゲーム」として捉えていたが、伊吹にはサッカーというのは「自分がボールを蹴って楽しむスポーツ」でしかないのだ。
その考えの差がテレビを前にしてメモを取りながらサッカーをみる翔子と、みてると眠くなる伊吹の意識の差だ。
「私はサッカーがただボールを蹴りあうだけのスポーツだと思わない。それじゃあゲームにならない」
「本当に翔子ちゃんサッカーが好きだよね」
「そうかもね」
喋りすぎたと思って翔子は恥ずかしくなった、伊吹相手にまたサッカーの事を語り始めるとどうにも止まらなくなる。
「私はもっとサッカーの事、今回のワールドカップの試合を調べたいから邪魔しないで」
「やだ」
まるで人形を抱きかかえるように翔子の腰に手を回して伊吹は抱きしめた。
「もうなんなのよ……」
「だって翔子ワールドカップ始まってから私のこと構ってくれないじゃん」
翔子の温もりを確認するかのごとく肩に顔を乗せて伊吹は耳元で囁く。
「あのねえ……」
「翔子ちゃんがサッカー好きなのは知ってるけど、もうここまでマニアックだとは思わなかったよ」
「別に私ぐらいの人はたくさん居るわよ……」
「翔子ちゃんぐらいサッカー好きな子は他に居ないよ?クラブにだってここまで本読んで調べてる子他に居ないし。コーチより翔子ちゃんの話の方がわかりやすいって子いるもん」
「だからコーチから煙たがれてるけどね」
翔子と伊吹が通うサッカークラブのコーチは理論・理屈よりはいわゆる体育会系の走り込みなどが中心の練習メニューを組むので翔子はあまり好きではなかった。
それに走力や持久力、伊吹みたいな背の高さを生かしたサッカーだとどうしても背が低く細い体の翔子には不利になるし、多分今のコーチでは自分はレギュラーとして活躍できることはないだろう。逆に身長が高校一年で百八十近い伊吹はほぼレギュラーを取りかけている。
女子サッカーでその身長は「凶器攻撃」に近い反則だった。
「ねえ翔子ちゃん、私一度だけ対戦相手を意識したことあるんだ」
「誰?」
「背はすごく低くて、足も遅そうだから簡単に点が決められると思ったんだけど凄くネチっこくて、じーっとコッチみて一瞬も私から目を離さない子が居てね、ちょーやり辛かったんだけどあの試合は面白かったなあ」
「イブが試合面白いなんて珍しいじゃない?」
「だって初めてドキドキした。何やってもシュートコースに入ってきて邪魔してきて、審判の目線が外れた瞬間ユニフォーム引っ張ってきたりしてとにかくイヤラシイ感じの子」
「そんな姑息な子が居たの?」
伊吹の目が光る。
「うん、あんまりにもしつこいんでポジション変えてもずーっと犬みたいについて来るの、だんだん可愛くなって来ちゃって抱きかかえたりしたらファール取られちゃった」
「相手のデフェンダーは猫じゃないんだから抱きかかえてどうすんのよ?」
「だって捕まえないとすぐにパスコース入って来るんだもん」
「イブだったら背の高さ使えばいいじゃない?」
「うーんその子はね、周りのデフェンスの子に声かけてボールを上げさせないように徹底してたし、必ずボールと私の間に入って来て、必ず二人で挟まれるような形になって決定的な形作らせてくれなかったもん」
「まあデカくて速い伊吹にはそれくらいはしないと……」
そこまで話を聞いて翔子はなんだか話に違和感を覚えた。
伊吹は翔子を抱え込んで耳元で囁く。
「まだ気が付かないの?」
「何?」
「私をドキドキさせたのは翔子ちゃんだけだよ」
「はぁ?」
「今おんなじチームだからあまり戦う事ないけど、また真剣勝負やりたいなあ」
「この前も私の肩押さえてヘディング叩き込んだじゃない……」
「そうだっけ?」
「ちょっといつまで引っ付いてるの離れて」
いつの間にか両手でぬいぐるみのように抱きかかえられていて、翔子は伊吹の顔に手を当てて離した。
「翔子ちゃんはやっぱり手を使ってサッカーしてるね」
「はぁ?」
「そんだけサッカーの知識はたくさんあるのに私と最初にあった時のこと覚えてないの?」
伊吹は翔子の手を掴んだまま顔を覗き込む。
「「貴方、サッカーを両手で扱ってないでしょ」って言ったの覚えてないの?」
「何それ」
「私も意味がわからないから聞いたらさ「片手間でサッカーやるなって事よ」って」
翔子は伊吹の手を振りほどいて、再びパソコンの前に座り込んだ。
「もう帰って」
「翔子ちゃん?」
「明日の夜は練習試合あるでしょ? イブは出番あるだろうから早く寝といた方がいいよ」
「でも……」
「今日は帰って」
ドレスが似合いそうな立派な肩幅をガックリと落として、ブツクサと寂しい寂しいつまんないつまんないと恨みの言葉を呟きながら、ワザとゆっくり歩いて伊吹は部屋のドアを開けっ放しにして出て行った。
翔子は伊吹を玄関に見送るような事もせずに再びテレビとパソコンの前に座って作業を始めた。
試合はずっと流れていて、どこまで観たかなんかわからなくなっていた。
今更シュートチャンスをチェックしながら観る気もせずに、翔子はただ流し見を始めていた。
何度見てもワールドカップに出るレベルの選手達はサッカーが上手い。
サッカーが上手いということは決してボールを蹴る、止めるが上手いだけではない。パスを出すタイミングとポジショニング。ピッチに立って自分の今するべき役割を理解して勝利へ向かって走り出すチームという機械の歯車としての役割をしっかりと果たすことができるから、ゲームとしてのサッカーが上手いのだ。
スペイン代表のイスコ選手なんかはそこまでボールを持つ必要があるのかというくらいボールを持ったら離さない、まるで両手でボールを持って居るかのように足元からボールを離さないでいた。
日本人の女子高生からどれくらいレベルが違うのか分からないけど、ボールを足で扱うというだけでもトップレベルのプレーは見ていて惚れ惚れもする。
だが同時に嫉妬みたいなものを感じる。
テレビにはちょうどスペイン代表のイニエスタがボールが渡ったところだった。鮮やかに両足を使ってダブルタッチで相手の選手をかわしていく。あんな風にボールが扱えたらサッカーはどんな風な景色を見せてくれるんだろう。いつもボールを止めるだけでホッとしている自分と大勢の観客を前にして自由にボールを扱って相手からゴールを奪っていく。
憧れといえばそれまでなのだが、小学生の頃からサッカーが好きでずっとプレーしてきた翔子にとってはワールドカップでの選手達のプレーは眩しかった。
このトップレベルとどれくらいかけ離れているのか分からないが、だが自分も同じサッカーをやっていて何度も思い通り行かなくて悔しい思いをしていた。
その一番悔しい思い出が中学校での学校チームの最後の試合だった。
最後くらい勝とうと入念に準備して、スカウティングもして試合に挑んだ。
「ねえ小澤さん、相手のチームにすごいフォワードがいるらしいよ……」
「そんな強いチームだっけ?」
女子サッカー部はどこにでもあるわけではないので、少し遠い学校に先生のツテを使って試合を申し込んでいた。
「そうすごい背が高くて、どこからでも点が取れるフォワードがいるんだって」
「「ズラタン・イブラヒモビッチ」みたいな女子でもいるの?」
「誰それ?」
サッカーにあまり興味がないチームメイトにはあまりピンと来ない例えだったらしくて、翔子は流石に言い過ぎたかと反省したのだが、現れたのは本当にズラタン・イブラヒモビッチみたいな背が高くて、それでいてどんなボールも足が届く柔軟さと走り込むスピードを持った伊吹だった。
圧倒的な身体能力さで向かってくる伊吹にそれでも翔子は体を張って奮戦した。チームメイトと声を掛け合ってなんとか無失点で済んでいたが、最後の最後で伊吹にゴールを割られて試合に負けた。結局レギュラーになった中学三年生の試合で一度も勝てなかった。
試合後その「ズラタン・イブラヒモビッチ」みたいな女の子がまるで飼い主を見つけた犬のように真っ先に飛びついてきた。
「今日はすごい楽しかった。名前なんていうの?」
「小澤翔子……」
握手をしながら伊吹は手を上下に振った。
「私はグーデリアン・伊吹」
「ドイツ出身なの?」
「そう良くわかるね!お父さんがドイツ人」
「あっちでサッカーを?」
「ううん、私は本当は空手がメインでサッカーは時々呼ばれてるだけであんまり好きじゃなかったんだけど貴方との勝負は空手の試合みたいですごく面白かった!サッカーって面白いんだなあって……」
興奮する伊吹を見て翔子は唇を噛んだ。
「貴方、サッカーを両手で扱ってないでしょ」
「それはどういう意味?」
「片手間でサッカーやらないでよ。私にはサッカーが一番大事だから、貴方みたいに片手間でやられるのみると腹が立つの」
いきなり初対面で同級生に怒られることになるとは思わなかった伊吹は固まってしまった。
「ちょっと小澤さん大丈夫?」
険悪な雰囲気を察したチームメイトが間に入ったのでその場は収まったが、その後試合後チームメイトと泣きあった事を翔子は思い出した。
ビデオの試合は三対三の引き分けで決着していた。
リードしていたスペインが、土壇場でポルトガルのエースクリスチャーノ・ロナウドのFKで追いついて試合は終わった。
結局どんなに頭を使ってもサッカーでは圧倒的な個人の身体能力があれば試合に勝てるのだろうか?
点を取るという部分に関してはいくらやり方を工夫しても最後は個人の決定力に依存するのだ。
「ああもう」
パソコンを閉じて翔子はベットに飛び込んだ。
「サッカーを両手で扱う……」
自分が口にしてしまった事を思い出して、枕に顔を押し付けながら翔子は恥ずかしさに耐えた。
なんとなく伊吹と顔を合わせずらくなった次の日、翔子の目の前で繰り広げられている試合は昨日のテレビで見ていたワールドカップの試合と比べればスロー再生されているようなスピード感だった。
プロとアマ、男子と女子色々な区別があろうが同じスポーツと思えないくらいゆっくりとボールが動いていく。
それでも自分の所属する街クラブのチームと比べて相手の高校生のチームはまだボールを早く動かそうという意思は感じた。
なんでもディフェンスのセンターバックとGKは都代表に選ばれるくらいの実力があるらしく、週末の公式戦の前に実戦感覚を磨きたいと三年主体のレギュラーで試合に臨んで来た。
対する翔子達のチームはレギュラー・準レギュラーを混ぜながらの編成になって、伊吹は呼ばれて後半から出場しているが、どうやらデフェンスの翔子には出番は無さそうだった。
だからベンチ横でアップもせずに、試合を観戦していたが、時々伊吹が何か聞きたそうに翔子の方を見ていた。
もう自分じゃなくてコーチとか先輩に声かけてもらえばいいのにと思ったのだが、明らかに相手の都代表クラス、あまりない自分よりもフィジカルの強い選手に潰されたり、ボールを取られる度にベンチに座る翔子の方を見ていた。
「イブ! 」
翔子が我慢できなくなって声を張り上げた。
「デスマルケ!」
周りの女の子は不思議な顔をしたが、伊吹だけは思い出したようにベンチの横に座っている翔子に向かって親指を上げていた。
近くのコーチングボックスに立っていた男のコーチは翔子が何を言っているのか理解できなかった。
だが伊吹は翔子に言葉を聞いた後は徐々にフリーで相手のマークを外してボールに触れるようになった。
「ねえ翔子、伊吹になんて言ったのデスピサロだっけ?」
「デスマルケ、スペイン語でマークを外す動きの事」
「難しい言葉を使うのね……」
「難しくない。あっちだったら小学校の頃から叩き込まれるフォワードにとって必要な動き」
「ふーん」
「そこ、おしゃべりしてないでちゃんと試合見てろ!」
コーチの声が飛んで、何人かの女の子は嫌そうな顔をした後、ピッチに立ってる選手に向かって応援の言葉を投げかけた。
そこで翔子はまた黙ってしまう。
どうしても応援というよりは動き出しやボールをもらう位置や相手が攻めてくるときのポジショニングについて口を出したくなってしまう。
でもそんなものは誰も望んでいないので翔子はいつも応援も声が小さいのだが、伊吹に対してだけはついつい声を上げてしまう。
「あっ惜しい!」
伊吹がデフェンスのマークを外してフリーでボールを受けて前を向く、ペナルティーエリア内の右サイドの角度の無いところから左足でシュートを狙うがサイドネットに当たってしまう。
「伊吹、強引すぎるぞ周りをもっとよく見ろ!」
コーチの怒鳴り声が飛ぶが翔子は伊吹は利き足では無い左足でも強いシュートが打てるのを相手の伊吹をマークしているディフェンダーにも「見せた」事で選択肢が広がるのではと思った。
実際伊吹はシュートを外しても顔が笑っていた。
何か企んでる顔をしながら伊吹はゆっくりとポジションに戻って行った。
「ったく真剣にやる気あるのかアイツは……」
シュート外して笑ってる伊吹が気に食わないのか、コーチは腕を組んでブツクサと文句を言った。
翔子には笑わないで怒った顔をしてればシュートが入るのはどういう理屈なのか聞いて見たかった。逆に笑うくらい、楽しむくらいの余裕があったほうがゴール前で緊張してシュートを外す事も少なくなるのでは無いのかと思った。
伊吹は誰が見ても余裕があるように見える、恵まれた体躯、足元の技術もあるしスピードもある。
サッカーのフォワードに必要なものは全て持っている彼女に段々と周りの目も惹きつけられている。
親から受け継いだ金色の髪をなびかせて自分よりも年上で格上の相手に果敢に向かっていく。
相手も一年生に決められてたまるかと必死に伊吹に食らいつく。
ちょっと前までのんびりしていた練習試合の雰囲気が、伊吹を中心に戦いの空気を纏っていく。
気がつくとピッチの外で待っているチームメイトも自然に立ち上がって応援していた。
試合の結果どうこうよりも、一点取って伊吹たちのチームが相手の格上相手に爪痕を残せるかどうかというところに試合の興味移っていった。
ただの調整のための練習試合が伊吹がやる気を出すと、その熱が敵味方に伝わったのか急にみな必死に応援し始めた。
「イブ、三歩の動き忘れてる!」
周りのチームメイトが不思議そうな顔をしていたが、イブは試合中なのにベンチに向かって指を三本立てて首を縦に振った。
「何のアドバイスしたの?」
翔子の言葉に周りのチームメイトが反応する。
「動き出しが単調になってたから……」
コーチが余計な事を言うなと言う顔をしていたが、翔子が言っていた言葉の意味はわからなかった。
ピッチの中央でデフェンダー背負っている伊吹には三歩で意味は通じた。
「一歩目」
そう伊吹は呟いて自分のマークをしているデフェンスの前に出る。
「二歩、三歩」
まるで幼稚園生のお遊戯のように声を出して歩く、相手の三年生は何をするんだと不審に思いながらもブツクサ言ってる伊吹について行こうとした。
「ドーン!」
瞬間、今まで歩いていた方向と逆にターンして伊吹はトップスピードで走り出した。
相手の守備は一歩目めで着いていかなきゃとスイッチが入る、二歩、三歩と歩き出すと相手は注意して付いてくる。
たった二歩のスピードを変えるだけで、一瞬の隙を生んでそれが大きな差になる。
伊吹みたいに走力がある選手にはそれだけで相手のマークを振り切れるスペースを作れる。
そこへ味方の選手から山なりのロングボールが届く。
正確にトラップしてマイボールにするとそのまま伊吹はペナルティーエリアに侵入する。
「させない!」
もう一枚の相手のセンターバックが伊吹の前に立ち塞がった。都代表にも名前を連ねる、相手デフェンスの中心選手が自分のマークを捨てて伊吹を抑えにきていた。
伊吹は一瞬パスを考えたが、相手のデフェンスはうまくスライドしてオフェンス全員にマークが付いていた。
この一瞬で普通の選手だったら躊躇してしまったかもしれない、だが伊吹には一対一だったら負けない自信もある、この人を退ければゴールが挙げらえるという状況をネガティブではなくポジティブに捉えていた。
伊吹はその日一番の笑顔になった。
極悪な笑顔を自分の足元を見ながら浮かべる。
長い右足を振りかぶりシュートモーションに入った。
すかさず相手デフェンダーは伊吹の右足のシュートコースに入る。
瞬間伊吹は舌を出して笑う。
そのまま振り下ろした右足はシュートモーションから足元で止めて足のインサイドでボールを切り返して左足を振り抜く。
しまったと腰を落としていたディフェンダーは体を投げ打って伊吹の左足の前に体を投げ出した。
だが伊吹はボールを懐に収めたままだった。
彼女の金色の髪をまとめたツインテールが水平に動く。
シュートモーションを止めた左足のインサイドでもう一度右足へボールを移動する。二回振った時点で相手のディフェンスは完全に無力化された。
右足で打とうとシュートモーションに入る時に伊吹はゴールキーパーの顔が見えた。
一瞬お互いの目が合う。
右に打つのか左に打つのかゴールキーパーは正しくどちらかにヤマをかけることはせずに伊吹のシュートモーションからコースを見抜こうとした。
左か右かどっちだ?
両足をついてスプリットスタイルで待ち構えるが、ずっと笑っている伊吹の顔が気になった。
相手のゴールキーパは伊吹の踏み込んだ軸足、左足の方向を見て飛ぶことに決めたがそれが不味かった。
シュートのインパクトの瞬間伊吹は軸足を抜いた。
「えっ?」
そのまま振りの小さい右足のインサイドキックでボールの真ん中を射抜いた。
一番正確に蹴れるインサイドキックを伊吹が選択したのは二つ理由があった。
まずは左右に振ったことでGKも完全に両足に体重が乗ってしまったので股が空いてしまった事。
そしてもう一つの理由が大事だった。
「こんな感じ?」
昨日翔子の部屋で見ていたポルトガル戦のクリスチャーノ・ロナウドのキックを思い出したからだった。ポルトガル代表の二点目、名手デ・ヘアの手を弾く強シュートを生み出したのは体重が乗ってインパクトの瞬間軸足を抜くインサイドキックだった。
それをなぜかディフェンダーをかわした瞬間思い出したので、試して見ようと思ったからだ。
伊吹のシュートはグラウンダーで人工芝の上を滑り抜け、見事にゴールキーパーの股を抜けてボールは嬉しそうにゴールネットに飛び込んだ。
「あっ入った」
蹴り足で着地した瞬間伊吹は呆気に取られてしまった。
自分が意図した通りに、ゴールが決められて一番驚いたのは伊吹自身だった。
ちょっと前に翔子に言われた事があった。
「ゴールを決めるまでのフォームを遂行するのが一番正しいシュートになるの」
ゴールを決めたいとか感情を表に出すよりは、相手と駆け引きをして、相手の意図を砕き、最適な選択を重ねていく事がゴールへの一番の近道になる。
フリーになる動き、相手のディフェンスの裏を取る。キーパーの取れない位置にボールを蹴る。全部自分が考えて選択した結果が今のゴールが決まった。
伊吹は今までのシュートとは違う達成感を感じた。それは翔子が言っていた論理を突き詰めたゴールだった。
相手のゴールキーパーもかわしたディフェンダーも膝をついて落ち込んでいたのを見ても相手へのショックが大きい凄いゴールだったという事はわかった。
相手はリードしているのに、まるで負けたような顔をしていた。
「やったー!」
「すごい!伊吹さん!」
ゴールを決めた位置で立ち尽くしている伊吹にチームメイトが寄ってきた。
「あっどうも」
周りの選手に揉みくちゃにされながら伊吹は思い出したようにベンチを向いた。
そこには満面の笑みを浮かべるコーチと喜んで手を上げているチームメイトが居た。
「あれ?」
喜ぶチームメイトの中、一人だけ腕を組んで無表情ながら怒っている翔子の姿があった。
「私何かやらかしました先輩?」
「うん凄いゴールだったよ」
寄って来たチームメイトの先輩の笑顔とは真逆の翔子が怒ってるのを見て伊吹はわけがわからなくなった。
結局残りの時間は伊吹はプレーに精彩を欠いて、チームは三対一で負けてしまった。
学校が終わった後のナイトゲーム。都内の湾岸再開発地域の人工芝コートでの試合が終わった後それぞれ親に迎えに来てもらったり、電車に乗って帰ろうとするのだが、翔子はアパートまで自転車を漕いで帰るつもりだった。
だが、自転車に乗ろうとすると伊吹に引き止められてしまう。
「離して」
「やだ」
翔子が乗る電動アシスト自転車の荷台を伊吹は片手で掴んで離さない。
振り切ろうと翔子がペダルに力を込めても自転車は動かなかった。
「ねえ、何怒ってるの翔子ちゃん?」
「怒ってない」
「ウソ、怒ってる」
「なんで私がイブの事を怒るの?」
「ゴール決めた時からなんか怒ってるじゃん」
「怒ってない」
翔子は語気を強くした。
「じゃあなんで無視すんの?」
伊吹は荷台の上に両足を跨いで腰を降ろす。ジャージ姿とはいえ股を開いて仁王像の様に腕を組んで動くつもりはなかった。
「別にイブには関係ないよ」
翔子は前向いて自転車を漕ごうとする。
「やだ、怒ってる理由教えてくれなきゃ今日はずっとついてる」
伊吹は翔子の腰に手を回して背中に顔を押し付けた。
自分より大きな女の子に抱きつかれながら翔子は自転車を漕ぐことにした。
湾岸地域の埋め立てて出来たばっかりの土地は大きな道路がまっすぐ伸びている場所が多い。
タワーマンションや大きなビルの輝きとは裏腹に道には人影が少なかった。
海の近く入り組んだ水路を跨ぐ橋を渡ろうとすると電動アシストでもペダルが重くなる感じがした。
「いつまで付いてくるの?」
イブは海岸線近くのタワーマンションに住んでいるが、翔子のマンションはもっと遠くにある。
「私ね、今日すごく上手くサッカーできたような気がする」
「知ってる」
「昨日翔子ちゃんの家で見たビデオと翔子ちゃんの説明を思い出しながらやったら凄く上手くゴール決められて凄く楽しかった」
自転車を漕ぎながら翔子は伊吹のゴールシーンを思い出す。
一瞬、スローモーションのような誰もが固唾を呑んで見守った。伊吹の圧倒的な個の力が炸裂したゴールシーンだ。
「ねえ、何かダメだったの? 翔子ちゃん怒ってるって事は周りの子にパス出した方が良かったって事? フリーの子はいなかったと思うけど……」
「あそこでシュート打たないのはフォワード失格」
「だよね!」
「ちょっとお腹掴まないで」
興奮した伊吹がつい強く翔子のお腹を握ってしまった。
「じゃあなんで怒ってるの?」
「イブに怒ってるワケじゃないよ」
「何に?」
「嫉妬してる自分に怒ってたの」
「嫉妬?」
翔子はブレーキを握って自転車を止めた。
道路の横を大きなコンテナを背負ったトラックが通り過ぎる。
「普通さ理屈で相手と駆け引きしてそれに勝ってシュート決めるなんて簡単なことじゃないのに、伊吹はあっさりそれを実現しちゃって、知ってたけど改めて目の前で見せられて、狡いと思った」
翔子は伊吹の方を振り向かずに喋る。
「私は結局頭の中でサッカーを考えてるだけでそれをピッチの上で実現することなんてできないんだって、サッカーは大好きだけどあんなプレーは私には絶対できない」
今でもイブと試合した時のこと覚えてる。何度もチームのみんなと事前に約束事を決めて伊吹にボールが渡らないように徹底的にパスコースを切って、それでもボールが渡ったら翔子がしつこく対応して自由にやらせなかった。
とにかく必死にやって伊吹に点を決めさせる事は防げたように思えた時、翔子の目の前で伊吹は飛んだ。
翔子が飛んでも届かないような高さのボールを胸トラップして、そのまま翔子とボールの間に体を入れて体をスクリーンさせて翔子に何もさせずに浮いたボールを左足で空手のハイキックのように上からボレーで叩くとキーパーは動くこともできずにボールはゴールに叩きこまれた。
今でもあのシュートは翔子の目の前で何度でも蘇る悪夢だった。
何をしてもどうやればあの時の伊吹のシュートを防げたのか今だに翔子には分からない。
それが分からなかったら、サッカーを観て本を調べても結局バケモノのような身体能力を持った選手には何もできないという事を証明してしまう事になる。
自分はいつかプレイヤーを諦めなくてはいけないのは知っていたが、伊吹のプレーを見るたびに何か早く諦めろと言われているようだった。
「だけど伊吹は体が大きくて足が速いだけじゃない。誰よりもボールを蹴るのが上手いし楽しんでサッカーできてるんだから凄いよ。でも私はそれを観てなんだかモヤモヤしちゃった」
またトラックが翔子達の横を通りさる。
その後に何台か車が通り去るが翔子は動かない。
「ごめん、本当は伊吹のゴールをみんなで喜ばなきゃいけないのに、サッカーは集団のスポーツだって言ってた私は結局仲間に入れない根暗なサッカーオタクなんだって、そう思うとなんだか恥ずかしくって……」
翔子は自転車のハンドルを握りながら下を向いた。
その視界に白く長い腕が見えた。背中で荷台に座っている翔子に抱きついている伊吹の腕だった。
「何?」
伊吹は腕に力を込めて、翔子のお腹を締め付けた。
「ちょっとイブ?」
「よいしょっと」
伊吹は翔子の身体を腕で持ち上げるとそのまま抱きかかえて荷台に乗せた。
すぐさまハンドルを握って伊吹は前のサドルに座った。
「ちょっとイブ?」
「翔子ちゃん捕まっててね」
翔子の手をとって伊吹は自分の腰に当てて捕まっているように言った。
「行こう」
「ちょっとイブ……」
「どーん!」
伊吹はすぐにペダルを踏み込んで自転車を漕ぎ始めた。
翔子が漕いでいた時よりも自転車は軽々と前に進んで行く。
「私やっぱり力が有り余ってるのかな?」
金色の髪をなびかせて伊吹は必死に自転車を漕ぐ。
「ちょっと何処に行くの?」
「わかんない、とにかく自転車漕ぎたいの」
「何なのよ」
「だって漕ぎたいんだもん、翔子ちゃんを乗せて二人で」
「ちょっと信号、赤」
交差点に真っすぐ突っ込みそうになって伊吹は慌ててブレーキを握りしめる。
目の前を大きなトラックが何台も通り過ぎた。
「危ないじゃない!」
「ごめんなさい……」
伊吹は振り向くと泣きそうな顔になっていた。
「やっぱり私、体力バカだからもうどうしたら分からない事ばっかりなんだけどね翔子ちゃんの言葉はすごく分かりやすくて大好きなの。絶対ウチのコーチよりサッカーの説明うまいもん」
「あの人と比べればそうかもね」
翔子達のクラブのコーチが海外サッカーもJリーグも対して観てないし、何処か女子を馬鹿にしてる感じがする。お給料もらってサッカーを教えている人だって色々な人がいて、それこそサッカーが好きだとは限らない。
「だから私はもっともっと翔子ちゃんとサッカーしたいし、サッカー見たいの! だから……見捨てないで……ください」
「イブ……」
「何?」
「信号青になった」
「あっ」
伊吹はペダルに力を込めてまた進み始めた。
四車線の道路の横断歩道を渡りながら沈黙が続く。
「そこを右に曲がって真っすぐ行けばウチまでまっすぐに行けるけど?」
「えっ?」
「今日も来る?」
「行っていいの?」
「私がサッカー観てる横で文句言わなきゃいいけど……」
「言わない、絶対言わない!」
どうせすぐに飽きると分かっていたが翔子はそれ以上言わなかった。
「それじゃあお腹も空いたしコンビニよってなんか買って食べながら試合見よう」
「食べながらじゃ集中できない……」
「じゃあどっかラーメン屋さんとか行く?」
「アスリートがラーメンって無い」
「私よく食べに行くけど?」
「食べ物は油とか糖質をちゃんと考えなさい!」
「やめてお腹掴まないでくすぐったい!」
自転車は転びそうになったが何とか持ちこたえる。
「危なかった転けるところだった……」
「ありがとう」
翔子は伊吹の背中に顔を預けた。
「ゴメンちゃんと自転車漕ぐね」
翔子は自転車の事を言ったわけではなかった。
「ねえ翔子ちゃん私と身体交換してって言ったら交換してくれる?」
「どうして?」
「私も身体が小さかったらなあもっと可愛い服が着れたり歩いてもジロジロ珍しそうに観られなくて済むのかなあって思ったから……」
「イブの身体だったらデェフェンダーとハイボール競り合うの楽しそうね……」
「私の身体サッカー専用?」
二人とも小さく笑いあった。
その後で翔子はふと自分の手を見つめた。
「でも私がサッカー好きになったのはこの身体だったから」
サッカーするには弱い身体かもしれない。勿論今から鍛えれば多少は良くなるだろうけど、伊吹みたいに躍動する身体になるとは思えない。
でも、足りなかったからこそ補おうと知識を増やしていった事でサッカーの奥深さと楽しさを知れた。
翔子はそう思うことにした。
「翔子ちゃんの身体は凄いよ!」
両手拳を握って伊吹は力説した。
「だって翔子ちゃんの体は柔らかくてすごく気持ちいいよ。ずっと抱きついていたくなるもん」
「イブ、あんた私のことヌイグルミかなんかだと思ってたの?」
「えっいや、違うよそういう事じゃなくて、不純な気持ち無しで純粋に抱き心地がいいなあって……」
「最悪」
翔子は伊吹の身体から手を離した。
「ドン引かないでー」
「今度後ろから抱きついたら本当に絶交だからね」
「じゃあ攻守交代で私がデフェンダーで翔子ちゃんがボールホルダーだね」
「諦めないの?」
「諦めないのが良いサッカー選手の条件なんでしょ?」
「誰がそんな事言ったの?」
「翔子ちゃん」
翔子はふと伊吹の背中を見て、いつかこの背中に多くの人の期待を乗せてサッカーのフィールドに伊吹が立つことになるような気がした。
濃紺の青いユニフォームに金色の髪がなびく姿を想像しながらそっと翔子は手を置いた。
「ねえ翔子ちゃん私から抱きつかなければいいよね?」
「なに?」
「しっかり捕まっててね」
伊吹はすぐに全力で立ち漕ぎを初めてた。
「ちょっと危ない」
「ほら両手でしっかり掴んでて」
伊吹の最大出力で暴走した自転車はその後うまく止まる事ができずに、盛大にズッコケた。
それ以来翔子は伊吹に自転車のハンドルを渡す事なく、自分の背中にくっ付く事を許すことにした。
END
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