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自分たちのコミティアとは何か?

明日コミティアで自分が主催した合同誌「自分たちのコミティア」という本を頒布します。

詳細は下記画像になります!

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当初は8月のコミティア133も中止が決まって、いよいよ5月と8月、連続でコミティアが中止になって、あんまり自分から主体的に何か起こそうと、合同誌作ろうとか考えた事が無い自分も流石に何かできないかなあと、すごく悩んだ事を覚えてます。

ちょうど9月にコミティアが開催危機ということで「コミティア継続に向けたクラウドファンディングの実施」が発表されて、その時は成功するかどうか誰も分からずにいたので、コミティアが大変だと思って、そこから何か寄付できないかなあとか、色々な可能性を含めて具体的に色々な人に相談を始めたのが切っ掛けです。

結果的にはコミティアのクラウドファンディングは大成功して、たくさんの支援が集まってコミティアの危機はひとまず回避されて、ホッとしたような「コミティアが大事」と思ってるのが自分だけでは無いという、当たり前の事に気が付いて恥ずかしくなったのも覚えてます。

そのクラウドファンディングで、たくさんの支援を集めようと動かれた「コミティア2020支援アンソロジー」という御本があって、

たくさんのコミティア出身者の作家さんが「続けコミティア」ということでコミティアへの思い、参加したときの思い出話などを語られていて、ああ素晴らしいなと思ったのですが、自分にはコレだけの人を集めて、短期間に出版して、クラウドファンディング期間中に収益を納めるのは無理だなあと、やっぱり出来る人に任せるのは楽で良いなあと思いました。

でも、本当に何もしなくて良いのか?

本当にたくさんの楽しさをくれたコミティアに対して何もしなくて良いのか?

そんなモヤモヤとしたものが自分の中に生まれてくること自体不思議でした。

17年近くコミティアに毎回休まず参加しておいて、何もしない、コミティアの危機に動かないってのは無いだろうと、冷静に他人から見ればそう思うかもしれないですが、僕は「作家」ではなく、ただコミティアに17年しがみついて居ただけの人間なので、何か創作やらそう言う場に溢れるばかりの情熱を注ぎ込んだ人間では無いです。
本当に楽しいから、ただコミティアに出続けたし。楽しいコミティアであった人とも僕がコミティアに出続けることでしか、コミティアであったコミティア友達には会えないと思ってたから、コミティアに参加してただけで、それでコミティアに参加できる条件として言い訳として毎回コピー本を作って参加してただけ何だろうなあと。

漫画描けずに文芸というコミティアの本流の外で、数部のコピー本を頒布する理由ってなんだろうなあと。

そこでふと僕も大好きな漫画金魚屋古書店出納帳で描かれた「コミティアに参加し続ける男の話」という作品がクラウドファンディング支援で 芳崎せいむ先生のTwitterで公開されました​

コミティアに参加し続ける男の話(1/7)
https://twitter.com/yseimu/status/1299158154668732423?s=20

協力を募る為、身近なコミティアを知らない方にもコミティアの事を説明したい時に、こちらの漫画を読んでもらってください。
今の所「プロの登龍門」が注目されがちですが、ほぼこう言う方達に支えられています。

という芳崎先生のコメントを見て、確かにそうだなあと思ってたら友達から「あれ、さわだんの事だと思ったよオレ!」っと若干テンション高めで言われて、ああ確かにあの作品の主人公は自分みたいに肩肘張ること無く呼吸するような自然な感じでコミティアに参加してるなあと。

そういう人が自分以外居るって気が付いたのも、今回コミティアが2回休みの時間があったから冷静になりました、自分がコミティアに出続ける理由を考えて、やっぱり17年それでも拘ってしがみついて出続けたコミティアには、たいした事無いかも知れないけどきっと理由があるんだなあと。

それでやっとみんなと冗談でコミティアでよく「自分たちのコミティアをやれば勝てる」って言ってた事が繋がった気がしました。

本当にコミティアの楽しみ方ってひとそれぞれだと思うのですが、じゃあこんなコミティアの楽しみ方してるのはこんな老害おじさんの自分だけかも?
他の人が感じてる「楽しいコミティア」ってどんなコミティアなんだろう?

そういう振り返って色々考えたんですけど、それならばそれをテーマに本を作って原稿を集めてみたら面白かも、ほんとうにコミティアじゃなければ話すことも、知り合うこともなかった「コミティア友達」に声を掛けて、本を作ろう。

まず本という形にしようと思ったところが、コミティアに出てる自分の本当の理由

「他人に自分の作った本を見て貰う」

をもう一度実戦しようと思ったのが「自分たちのコミティア」の本当の発行理由かも知れません。

自分一人でコピー本をだすんじゃなくて、コミティア出たいけど色々な理由で出れない人達と最初で最後の気持ちで、たくさんの「自分たちのコミティア」を集めたら面白いんじゃ無いか? それが自分たちのコミティアを作ってた時の正直な気持ちになります。

もちろん収益でコミティアを支援もしたい、中止でもしかしてみんなコミティアから離れてしまうから、コミティアになかなか出られない人を合同誌の形で作れば集客や盛り上がりに繋がるかなあという目論見があったのですが、今考えると素人考えでしっかりとした目的と着地点が見えてなかったなあと、昨日できあがった素晴らしい本作「自分たちのコミティア」を見て凄く反省しました。

このメンバー集めたのだから、長期的にも色々と出来たのかなあと今になっては無謀だったのかなあと、何かの「焦り」と共に作った本ですが、本当に今も状況が刻一刻と変化して、2週間前までコミティアできてよかった~っという空気も、またコロナが蔓延するのではと皆が身構える状態になってしまいました。

コミティアを盛り上げようと作った本も、コミティアに沢山人が来たら迷惑が掛かるという、矛盾に陥るケースなんてちょっと前まで想像してなかったのは、自分の想像力の欠如でこれも恥ずかしいのですが、正直一気に空気が変わってしまったので「ああ、これからはこういう事を繰り返して行くんだろうなあ」っと、ふと無邪気に楽しんでいたコミティアが遠くなったなあとも思いました。

でもたくさんの人のご協力で奇跡的に完成した「自分たちのコミティア」という本を捲ってると、そういう難しい問題はさておいても、色々な個性がたまたま集まった人達が自分たちの個性を尊重しながらチームとなって一つの目標に向かってプレイ(遊ぶ)というのは僕が大好きなサッカーに凄く似てるなあと「まとまりがないけどまとまってる」良い本だなあと、自画自賛したい良い本になりました。

なのでこの本は本当に主催者さわだの「自分たちのコミティア」をしたいというワガママに沢山の人が「載って」くれた、とっても独りよがりで、でもコミティアが大好き人と繋がりたいという気持ちでパスを繋いで、読者に向けてそんな気持ちを込めたパスです。

作った目的がブレてるのかなあと一晩考えてみて、まとめてみたんですけどなんかブレブレで誠に自分らしいプレーモデルなき個人の思い込みで実施される近代フットボールの対極「自分たちのサッカーをすれば勝てる」というスローガンみたいな内容そのままに「自分たちのコミティアをすれば勝てる」と寝言みたいに繰り返して来た自分らしい本になりました。

これを読んで「よし読もう!」と思う人はいないとおもうのですが、自分の備忘録的に「自分たちのコミティア」が生まれた経緯をここに書いておきます。

当日コミティア会場で会える人、会えない人、たくさんの人にコミティアの楽しさがこの「自分たちのコミティア」で伝わったら良いなあと願います。

追記:文章を読んでて次の具体的などうやったらコミティアに貢献できるかまだ模索中です。と言う部分が抜けていたなあと、頒布させていただいてるのですから、きっと出来ることがあるので決まり次第改めましてはご報告させていただきます。

さわだ

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