コミュニケーションも技術。教えることも学ぶことも可能なはず。

技術って言うと、仕事とか趣味とかの技術を思い浮かべがちだと思います。でも、普段の何気ない日常の会話も一つの技術として、改めて考えた方がよいと思うのです。

友達付き合いにおけるいじめ、仕事などにおけるパワハラ、男女間のコミュニケーションにおけるセクハラ、子育てにおける虐待、などなど、これらって、ほとんど技術の問題ではないでしょうか。

伝える技術、受け取る技術、読み取る技術、やってはいけない言動を回避する技術、そして、それら技術を駆使した上で怒りや苛立ちで満たされた場合に、そんな気持ちを自分で抑え解消する技術、です。
つまり、先ほど取り上げた諸問題は『技術の不足』ということで大きくはまとめられるでしょう。

伝える技術が足りないから、誤解され意気消沈したり、伝わらず苛立ち、怒る、短絡的に怒鳴る、暴力に訴える、仲良くなりたいためにからかってしまう。受け取る技術が足りないから、知らない言葉を適当に補って受け取り誤解する。読み取る技術が足りないから、言語化されていないことを全く分からなかったり、深読みし過ぎて誤解する。

逆に、技術ですから、体系化してまとめることも、教えることも可能だと思うのです。


これを小学校で教えることで諸問題が小さくはなると思うのですが、今はどうなのでしょう。ネットの使い方については学んでいるようですが、今もいじめが減る気配はありませんし・・・。

学んでこなかった古い世代が主導して学ばせるようとしなければいけないというのがまた困難であるとは思いますけど・・・。

というか、そのための国語の授業だったのでしょうか。自分の過去を思うと、文章の読み方書き方が印象に残り、人との交流に備えるという意味では大分不足していましたね。

自分が大人になってから気付いたのは、例えば、相手の顔を見ているようで表情を読み取ることはしていなかったことです。伝える言葉ばかりに意識が行ってしまい、相対している人間の様子は見ていない。ですから、相手が興味をなくして聞いていない時も延々としゃべり続けてしまっていました。
ここで改めて興味を引くよう間を置いたり、たとえ話を工夫したり、伝わるよう端折って簡単にしたり、諦めて次のチャンスに伝えようととりあえず切り上げたり、いろいろと選択肢が心の中にあれば、余程の事態でない限り、誤解されたり、パワハラを利用したりするような方向にはならないはずです。この選択肢を持つというのが『技術を持つ』ということです。

ある程度、技術として全国一律に学ぶようになれば、誤解も今よりは減るでしょう。発達障害を持っていたり、外国をルーツに持つような、共感することが少ない間柄の人の場合でも、コミュニケーションが円滑になるはずです。

余談ですが、
よく、神社仏閣へのお参りに気持ちが大事と言われるようになりました。でも、よく見てください、神職やお坊さんたちを。皆さん、非常に丁寧に手順を踏んで信者の代わりにお祈りなどをしていますよね。元は空想の産物かもしれない神様仏様でさえ、伝えたいならば、手順や道具、お決まりの言葉・動作、そういう技術を使用することが正しいのです。神様だって、手を叩いて呼ばなければ聞いてくれていないこともあるのです。

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