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「無常ということ」2(2013年11月17日)

 さて、前回の小林秀雄「無常ということ」の考察について少し補足したいことがあったので、今回はその続編でいきたいと思います。

 本文の中盤、筆者が川端康成に向けて「しゃべった」という内容、これがまた冒頭の古文に加えてこの評論の難解なところです。

 「生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな。

 「この一種の動物という考えは、かなりぼくの気に入った」として、筆者は「ある考え」に適切な言葉を見つけられたということを記していますが、・・・申し訳ありません、子どもたちにはさっぱりの様子でした。

 ただ、筆者は「生きている人間」に「死んでしまった人間」「死人」を対置させています。それらの語は、「まさに人間の形をしている」「のっぴきならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ」と説明されています。

 そういえば、これ以前に、鷗外と宣長についても筆者は記しています。
 鷗外に関しては、「あの膨大な考証を始めるに至って、彼はおそらくやっと歴史の魂に推参したのである」とあります。宣長の『古事記伝』に関しては、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」ということが「宣長の抱いたいちばん強い思想」であると断じています。

 「多くの歴史家が、一種の動物にとどまるのは、頭を記憶でいっぱいにしているので、心を虚(むな)しくして思い出すことができないからではあるまいか。

 山王権現を訪れた時の筆者を思い出して下さい。
 彼は、『一言芳談抄』の短文が心に浮かんだことについて、「むろん、取るに足らぬある幻想が起こったにすぎまい。そう考えてすますのは便利であるが、どうもそういう便利な考えを信用する気になれないのは、どうしたものだろうか。」と記しています。
 「取るに足らぬある幻想」として、自らの体験を〝簡単な理由〟をつけて片付けることはできるが、それをしたくないというのが筆者の思いなのでしょう(「ぼくは決して美学には行きつかない」と断言するのも、それと同じ理由によると思われます)。

 筆者の個人的な体験を共有するというのは難しいことです。しかし、それこそが、歴史と人間の真相に迫る唯一の方法であることを、一つの暗示としているような気がしてなりません。

 〝簡単な理由〟は、〝もっともな理由〟と置き換えてもいいと思います。現代人は、何事にも頭で考えて理由をつけ、自分の側に物事をひきつけようとしてはいないでしょうか。そのあり方というのは、前回の『一遍聖絵』からの引用、「自然の道理をうしなひて、意楽の魂志をぬきいで、虚無の生死にまどひて、幻花の菩提をもとむ。かくのごとき凡卑のやから」の現代人バージョンだと私は考えています。大いなる存在、我々を超越する何者か、つまり「常なるもの」を見失うがゆえに迷い込む袋小路として、「記憶」は「解釈」と同じカテゴリーで捉えるべき語であるのです。それらは「常なるもの」の前では、まるで役に立たない、それどころか究極的な真実に目隠しをする、現代人の浅はかさの象徴とでもいうべきものではないでしょうか。「一種の動物」とは、その状態の形容ではないかと私は考えています。

 それに対して、「なま女房」の発する「とてもかくても候」とは、「どうでもこうでもよろしゆうございます」といった現代語訳が付されていますが、〝この世はどうにもできるものではない〟という、無常の受容の切なる叫びなのです。

 そして、無常の世の中において、長い時間を経て淘汰されて残るものが、世界と人間の真相であるのです。それは、大いなる存在、我々を超越する何者か、つまり「常なるもの」に属するものであり、私たちが〝生きている〟という気づきの中でのみ、「思い出す」ことが可能なのではないでしょうか(個人的な体験でありながら、その絶対的な一点において普遍性を持ちます)。――しかも、考えて理由をつけることではなく、感じて受け入れることによって起きうる現象に違いないのです。

 「現代人には、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも、無常ということがわかっていない。
 「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。」「解釈だらけの現代人にはいちばん秘められた思想だ。

 何にでも理由をつけて、「常なるもの」によって生かされていることを忘れている現代人。――小林秀雄が思い出したのは、単に、「消えたのではなく現に目の前にある」、「自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっているような時間」だけなのかもしれません。


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