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「無常ということ」(2013年11月10日)

 先のセンター試験で小林秀雄が出題されて以来、子どもたちの間でもいろいろな意味で〝小林秀雄ヤバイ〟みたいなひそかな盛り上がりを見せています。

 小林秀雄は、私が大学受験の時に入試出題の評論家ナンバーワンで、とにかく難解だったのを覚えています。でも、〝小林秀雄はよくわからない〟というのがしゃくなので、とにかく文庫を買って読むという、この見栄っ張りな感じが当時の高校生らしいかなと思います。

 しかし果たして、小林秀雄は本当に高校生でわかるのかというのが、あらためて秀雄を読んでみて抱いた感想です。もちろん、文章の展開を追うというのは、センター試験にも出題された通り(とはいえ、今年度は国語の平均点が過去最低だったのでしたね…)可能だと思います。しかし、秀雄の難解さは、読解の技術的な部分ではなく(秀雄の文章が悪文であるという人も多いのは確かですが)、もっと本質的なものではないのでしょうか。

 「無常ということ」は、「ある人いはく、比延(ひえ)の御社(おんやしろ)に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の」という、『一言芳談抄(いちごんほうだんしょう)』の引用から始まっています。まず、この冒頭からして、普通の高校生ならノックアウトではないでしょうか(高校生当時の私も、そうだったと思います)。

上手に思い出すことは非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴(あめ)のように延びた時間という蒼(あお)ざめた思想(ぼくにはそれは現代における最大の妄想と思われる)から逃れる唯一ほんとうに有効なやり方のように思える。

 「飴のように延びた」という、この「飴」も、おそらく高校生にはわからないのではないでしょうか。水あめや粒でない浅田飴(笑)を、今の高校生は知っているのでしょうか(都会で、即席で薄っぺらな事物に囲まれ満足してしまっている高校生ならば、まず無理ではないかと…)。

 この評論は、冒頭の『一言芳談抄』中の、「とてもかくても候(さうら)ふ、なうなう」と、「夜うち更け、人しづまりてのち」に「十禅師(じふぜんじ)」の前で歌った「なま女房」がその訳を人に問われ、「生死(しゃうじ)無常の有り様を思ふに、この世のことはとてもかくても候ふ。なう後世(ごせ)をたすけたまへ」と答えたのがどういうことなのかわかるかというのが、全てなのだと考えます。

 『一遍聖絵』の中で、病を受けた一遍が京都の桂の地で書いたものに次のようにあります。

 「自然の道理をうしなひて、意楽の魂志をぬきいで、虚無の生死にまどひて、幻花の菩提をもとむ。かくのごとき凡卑のやから、厭離穢土欣求浄土(えんりえどごんぐじょうど)のこころざしふかくして、いきたえいのちをはらむよろこび、聖衆の来迎を期して、弥陀の名号をとなへ、臨終命断のきざみ無生法忍にはかなふべきなり。」

 「なま女房」の発する「なう」「なうなう」という語は、辞書を引くと、「人に呼びかけるときに発す語」だとあります。「もし」とか「もしもし」とかいう意味合いです。私には、「なま女房」が大いなるもの、神や仏に切なる思いをもって「ああ」と心の限りに呼びかけている姿が思い描かれます。
 『一遍聖絵』の引用は、まちがいだらけの人生を送る「凡卑のやから」が、死が目前に迫るその時に〝それでも救われたい!〟という切なる思いをもって「南無阿弥陀仏(=「弥陀の名号」)」を唱えれば、その瞬間にすべての真実とつながる(=「無生法忍にはかなふべきなり」)ことが述べられています。

 『一言芳談抄』も『一遍聖絵』も、中世の念仏信仰の文献ですが、つまり「鎌倉時代のどこかのなま女房」ですら、この時代には大いなる存在、我々を超越する何者か、秀雄の言う「常なるもの」がわかっていたということなのでしょう。そして「無常ということ」とは、〝常で無い状態〟、やはり秀雄の言う、「人間の置かれる一種の動物的状態」だと言うのです。

 秀雄は、「心を虚(むな)しくして思い出す」ことができた瞬間を、「先日、比叡山(ひえいざん)に行き、山王権現(さんのうごんげん)辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見るようなふうに心に浮かび、文の節々が、まるで古びた絵の細頸(さいけい)な描線をたどるように心にしみわたった。」と、描写しているのではないでしょうか。

 大いなる存在、我々を超越する何者か、「常なるもの」を自らの中に据えることができる時のみ、私たちは限定された時間や場所から離脱して、人生や世界の真実、絶対的な普遍性へと導かれること、それだけが「過去から未来に向かって飴(あめ)のように延びた時間という蒼(あお)ざめた思想」から逃れる術であると、秀雄は自らの肉体のとらえた現象を、我々にも伝えんと再現して見せているのです。

 「秀雄の難解さは、読解の技術的な部分ではなく、もっと本質的なもの」と述べた意味が、読者の皆さんにも伝わったでしょうか。

 小林秀雄が再び注目されることには、私も期待を持って見ています。しかし、本当に秀雄の思想を読めるのかという点については、自戒も込めて常に疑問を抱いています。


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