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おすすめの古典――『徒然草』②(2018年4月1日)

 先に私はメルマガを発行していたことをお知らせしました(2018年1月5日「メルマガに関するお詫びと真実」)が、廃刊にともないその内容がまったく閲覧できなくなりました。よって、廃刊にしたメルマガの中で、もう一度みなさんにも読んでほしいと思う情報を本ブログにて再録したいと思います。

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 前回はちらっと、「第百五十二段~第百五十四段に登場する日野資朝がヤバい!」という紹介をしたのですが、「ヤバさ」だけにとどまらない当時の思想について考察してみたいと思います。

 日野資朝だけではなく、この後に南北朝時代を席巻する婆裟羅大名と呼ばれる人々も、おそろしく現実的・合理的な考え方をするということが、当時にしては脅威ですらあったのではないかと私は考えます。
 第百五十二段は、年老いた「西大寺静然(さいだいじのじやうねん)上人」を見た「西園寺内大臣(さいをんじのないだいじん)殿」が、徳のある尊い姿だと言っているのを見た資朝が〝年取ってるだけでしょ〟と暴言を吐いた揚句、後日、みじめなほど年老いた「むく犬」を連れて来て〝こいつも尊く見えるでしょ〟と一言――という逸話です。

 〝資朝、お前ヤンキー〟か、って感じですが、私はある意味似ていると思います(婆裟羅大名の話をすると必ず、教室のあちこちから「ヤンキー?」と言う声が聞かれます)。婆裟羅もヤンキーも異装で権威軽視ですから…。
 ただ、兼好がこの逸話を『徒然草』に採用した意味はそのようなことでは片づけられないと考えています。第五十二段が資朝三部作(?)の冒頭にある意味、三段が連続している意味の全てを見ていく必要があると思われます。
 私の考察の結果というのは(後の二段のことは次回以降に触れますが)以下の通りです。
伝統(人々が何かを継承してきた事実)のみならず目に見えないものにも敬意を払う、重きを置くといった従来の価値観と、人間の智の可能性を拡大させて現実的・合理的な考えを頼りにする価値観、その二つの価値観の存在です。そして兼好は、忍び寄る後者の価値観の台頭のようなものを見たのではないかと思うのです。
 これはブログでも先に触れた、神や仏といった超越的なものを純粋に信じることができるかといった古代人を支えた思想の、その崩壊の兆しでもあったのではないかと思うのです。

 ――次では、百五十三段の分析いきます!


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