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それは本当にあった話ですか(2013年5月3日)

 これまで、文法寄りの話ばかりしてきたので、ここで、古文の内容の面で私たちを悩ます子どもたちの質問について考えてみたいと思います。

 古文を読むと、神仏による奇跡が起きたり、人間でないものが出てきたり、超能力やオカルトか怪しい宗教の世界かみたいな話がこれでもかと出てきます。すると子どもたちは必ずこういう質問をしませんか。
 ――「それは本当にあった話ですか」。

 一つの考え方として、ユング心理学的な解釈があります。つまり、夢や無意識のシンボルとして不思議な生き物や現象を置き換えて考えることは可能ではないかというものです。人間の感情や自然現象を人格化したり、日常生活上の身近なもので置き換えたりして解釈するとらえ方です。
 「安珍清姫」で有名な紀州道成寺の伝説などは、まさに、女性の激しく恋する思いが大蛇にも比され、実のところは女性のその思いが男性を悩ませて死に追いやったか、女性が自殺して男性も憔悴して死に至ったのか…など、いくらでも話自体をシンボル的に置き換えて読み解くことはできるのかもしれません。

安珍清姫…紀州道成寺の伝説中の男女の主人公の名。熊野詣での若僧安珍に清姫が恋慕、帰途の約束を裏切られたことから大蛇となって後を追い、道成寺の釣鐘に隠れていた安珍を鐘もろとも焼き殺したという。「法華験記」「今昔物語集」などに原形が見えるが、安珍・清姫の名が定着するのは近世以降。能・浄瑠璃・歌舞伎舞踊などに脚色(広辞苑)。


 道成寺のHPが、ヴィジュアルにも大変すぐれていて参考になるので、以下にURLを示します。


 私は大学時代に教育心理学の教授や友人からユング心理学の存在について教えられ、河合隼雄氏の著作を読みまくり、古文の不思議な話はこれで説明がつくなどと高をくくっていました。
 しかし年月を経て、人生折り返し地点かなと思う今日この頃、考えが変わってきました。人生や世界は全然合理的なものではないな、と。

 事実、古文を読むことにも自信を持つようになり、ユング心理学といった後押しがあるために、どんな古文でもどんと来いと、数年前くらいまで私は思い上がっていました。
 しかし、研究のために説話を丁寧に読むようになり、これは違うという思いを強くするようになったのです。文法を見極め、辞書を使いこなして語彙もこれでほぼ間違いないだろうと確定し、文章をしっかり現代語訳できたという確信を得れば得るほど、どうしてもわからないことが増えてきたのです。

 ――人々の信心に神仏が応じて奇跡が起きるって、いったいどういうメカニズムなんだ??? 信じるって何だ??? 神様と仏様って何だ???

 私はここで初めて、真の意味での古文の難問にぶち当たったのかもしれません。そして至った結論は、これだけ論理性を尽くして読んでもわからないところは、私の思いつかないような世界が存在したに違いないという実感に他ならなかったのです。

 「沙石集」に勘解由(かでの)小路の地蔵の霊験譚があります。
 地蔵を心から信仰する「若き女房」と仲良くなりたいと思った「若き法師」が、その女房の寝入りばなに「帰る時に最初に出会った人を頼りなさい」と耳打ちします。もちろん、女房は地蔵のお告げだと信じてその人を探そうとするところに、自分が登場しようと思ったのですね。しかし僧は女房と行き違い、女房はというと、やはり地蔵を頼って奥方を得たいと思っていた男やもめの「武士入道」に出会います。どぎまぎしながら召使を使って女房は明け方聞いた〝お告げ〟を打ち明け、二人は結ばれます。一方の悪だくみをした若い僧は〝嘘のお告げを信じるなんて~!〟と半狂乱…というお話です。

沙石集(しゃせきしゅう)…(サセキシュウとも)仏教説話集。10巻。無住道暁著。1279~83年(弘安2~9)成り、加筆も行われた。仮名まじり文で通俗的に書かれ、説教の種本に利用される(広辞苑)。勘解由(かでの)小路の地蔵の霊験譚は巻二に所収。


 この説話に入試の過去問で触れた生徒が、内容の展開はほぼ正しく取れながら、最後の設問であるこの説話の主題を答える問題にはまるで歯が立ちませんでした。悪だくみをした「若き法師」の嘘にばかり目がいき、「純粋に信じる者の思いが神仏に通じる」というところに至れなかったのです。

 「沙石集」は、鎌倉末期の混乱期に、人々が「正直」で「素直」であることの徳を説いたのだという単純な事実に私は研究の過程で気づくことができました。「沙石集」に限らず、「神仏」という現代人には及びのつかないような超越した何かへとつながることができるという主題は、おそらく説話類が編纂された目的の一つだったはずなのです。こう考えなければ、古文を論理でのみ読解する際に必ず生じる行き詰まりを突破できないであろうというのは、私の古文に対する姿勢の大きな転換点となっています。

 実のところ「正直」「素直」というのは、私の最近の研究における大きなテーマの一つなのですが、なかなか理解を得られません。テクノロジーとマネーの毒に侵された現代日本に復活させる思想だと信じてやみませんが、この話は別の機会に譲りたいと思います。

 何年たっても、古文で不思議な話が出れば生徒はにやっとしながら質問してきます。
 「それは本当にあった話ですか」

 私は真顔で答えます――「本当にあった話です」。
 たいていの生徒は一瞬ぎょっとします。そのあと私はこう付け加えます。

 科学技術と経済が万能の価値観の現代で私たちは生きています。だからといって、私たちがその価値観で古文を読むのはどうかと思うのです。古文の世界の中にはきっと現代とは異なる価値観があって、その価値観に基づいた研ぎ澄まされた感覚や身体が昔の人にはあったに違いないと私は信じています。だから、きっとこれは本当にあった話だと私は思います。

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