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『一遍聖絵 』―名場面ハイライト6「生命の喜び」―(2013年10月6日)

 ミニプリント6の絵は、一遍と言えばこれ!――踊り念仏です。


 しかし、絵を見て〝あれ?〟と思った方も多いのではないでしょうか。日本史の教科書などで見る踊り念仏の絵は、舞台のような所で人がもっと密集して踊っているものが多いと思われます。
 皆さんが目にする機会の多いそれらの踊り念仏は、踊り念仏に一つのスタイルができてきてからのものとでも言うべきでしょうか、ミニプリントのものとは規模も、ひょっとすると役割も違うのかと考えています(踊り念仏については謎も多く、まだまだ研究が必要です)。


同国小田切の里、或(ある)武士の屋形にて、聖をどりはじめ給けるに、道俗おほくあつまりて結縁あまねかりければ、次第に相続して一期の行儀と成れり。

 前置きが長くなりましたが、ミニプリントの踊り念仏は、信濃国(現在の長野県)小田切の里で、初めて踊り念仏が行われた様子が描かれています。そうです、一遍の踊り念仏の原点なのです。
 輪になって踊っている人たちの表情が見えますか。実に楽しそうな表情です。一遍が鉢か何かを叩くリズミカルな音と、人々の歓声が聞こえてきそうです。

 この後、「延暦寺東塔桜本の兵部竪者重豪(ひょうぶじゅうしゃちょうごう)」が、江州(現在の滋賀県)守山に滞在していた一遍の下にやって来て、「おどりて念仏申さるる事けしからず」と、踊り念仏を非難します。その際、両者は歌をやりとりします。

 「ともはねよかくてもをどれこころこま みだのみのりときくぞうれしき

 ――心の中の馬が思う存分に跳ね、踊るままにまかせなさい。仏の教えを聞いて嬉しくないわけがないのだから。――

 この一遍の歌の直後、「此人(=重豪)は発心して念仏の行者」となったと、『一遍聖絵』は記しています。

 念仏とは、必ず阿弥陀仏が我々を救済するという真実に裏付けられた、生命と世界の全肯定・全受容だということについては、以前にも触れました。


 小田切の里での踊り念仏は、皆で念仏を唱えているうちに、一遍かあるいは誰かが自然と身体を動かし始めたのかもしれません。原初的で、実に素朴な喜びの表現がその始まりではなかったのかと私は想像しています。

 『一遍聖絵』とは別系統の一遍の伝記に『遊行上人縁起絵』があります。
 臨終の近づく一遍を前にして、「長老たち」が〝念仏だけが唯一の往生の方法というのはわかったのですが、やはり最後に何か教えを頂けないのか〟といったことを一遍に申し出ます。一遍は、彼らを〝言葉だけで何もわかっていない〟と非難し、他阿弥陀仏・真教にこう問いかけます(他阿弥陀仏・真教は、苦しい修行の連続であった九州の地で、一遍が初めて得た弟子でしたね)。


 「他阿弥陀仏 南無阿弥陀仏はうれしきか

――他阿弥陀仏は何と答えたでしょうか。

 「やがて他阿弥陀仏落涙し給 上人も同じく涙をながし給けるにこそ
 彼は黙って涙を流し、師である一遍も同じように涙を流したというのです。

 「南無阿弥陀仏」が阿弥陀仏の大いなる慈悲によって我々に与えられているものであること、言葉では伝わらない絶対の救済の喜びを、この師弟は共有したのです。

 気づけば涙が落ちていたというのは、跳ね踊るよりもはるかに強くて自然な、喜びの表現なのではないでしょうか。一遍は、自分の死後に後を追って死ぬものが出ることを予言し、「うけがたき仏道の人身をむなしくすてむこと、あさましきことなり」と述べ、やはり「落涙し」ています。

 自分が何者かに生かされているということにはっと気づいたとき、その不思議を受け入れ、信じるという、大いなる存在に全てをゆだねることが可能になるのでしょう。そこには、「長老たち」に象徴される「智」の傲慢さ、愚かさが入り込む隙はないのです。

 『一遍聖絵』本文からの引用は、聖戒編・大橋俊雄校注『一遍聖絵』(岩波文庫/2000年7月)による。


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