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その、刻

何度掃除してもあれだけ汚れていたシンクが、裸電球の光を斑に跳ね返している。奥の和室の畳は張り替えられ、明け放れた押し入れには先月の新聞紙が敷いてある。業者が入ったのは間違いなかった。部屋の匂いは消毒のそれだった。

不在なのは、鍵が掛かっていない時点で感じていた。しかしまさか、部屋の中がモヌケの殻だとまでは想定していなかった。響いた自分の声がまだ耳の奥に残っているようで、唾を飲み込み窓を開け外を眺めた。

眼下に、雑草の茂った、庭とはいえない、塀と建物の隙間がある。錆びた自転車が放置されていた。こうやって外を眺めるのは初めてだった。それだけにこれまでの彼との記憶が、曖昧だったそれが確実なものとなって私の身体のどこかに蓄積された。

かつては、はっきりとその顔を思い出すことはできなかった。かろうじて白黒の、ざらついたそれが眼前に浮かぶだけだった。しかし私はそれを思い出す必要などなかったし、その直後に彼の腕の中で眠っていればよいだけのことだった。今は明確に彼の顔から腕や脚、背中に至るまでその輪郭を甦らせることができる。それらにはしっかりと色がついていた。私は、もう、彼が戻ってこないことを悟った。

部屋に風呂はなかった。私は必ず風呂に入ってからこの部屋を訪れていた。人目を忍ぶ必要はなかった。駅から離れた、川沿いの、未だに古い木造家屋が密集する古い住宅街だった。平日の昼間、そんなところを歩いている人はほとんどいなかったし、たとえいたとしても、もはや構わなくなっていた。
どこをどうやったらそのような区画になるのか、朽ちた木造家屋が歪に並び、人一人が通ることのできる細い路地を這入ったところにアパートは建っていた。部屋の窓側は細い通りに面していたが、そこを通った記憶はなかった。

川向こうの、隣町の、似たような場所で私は生まれ育った。下町はどこも同じだった。変わり映えのない家々が並んでいるだけで、同じ景色が続いていた。しかしそのどの場所であっても私はそこに馴染むことはない。私はどこにも馴染まなかった。どこに行っても常に私は「他人」だった。しかしだからといって、どこか他の土地に私の馴染む場所があるとは思えなかった。私は自分自身からも他人だった。自分を他人と見做すことで、私はどこにも居ないし、そしてどこにで居ることができた。私は誰でもないが、しかし一方で誰にでもなることができた。そう思えるようになったのはこの生活のおかげかもしれないが、もちろんこんな生活を望んでいたわけではなかった。望ましい生活があったわけではない。ただこうではない何か、これとは違う何かがあるのではないかという期待は常にあった。そしてそれが実際に訪れたと思っていた。

畳に寝転び、天井を見上げた。肉体に蓄積した記憶を辿ったが、もはやそれが現実の出来事だったと実感することはできなかった。かつてはこの場所で、ここで、私は彼の腕に包まれ朝を迎え、尖った朝陽に照らされた彼の顔を眩しく見つめていた。

まさに、この場所だった。

あああ、と発した声が自分のそれだと思えず、実際に声を出したのだろうかと、もう一度、声を張り上げた。キンと鳴った部屋の空気がいつまでも震えていた。濡れた髪が冷えた。最初からこうなることはわかっていた。涙が頬を伝った。余りに熱いそれに、皮膚が焼けると手で拭った。

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