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仕事における「そもそも」的問いはマネタイズできないから不要なのか

不要ではないと思うんです。論を立てにくいのですが。


「この仕事の意義をよく考えろ」

よく言われる言葉です。

これは一方でとても多義的な言葉だと思います。

多分上の「この仕事の意義をよく考えろ」は、「後工程のことをよく考えて精度の高いアウトプットをしろ」なんだと思います。

これはいわゆる仕事論にカテゴライズできそうです。

一方、文字通り「この仕事の意味はどこにあるのだろう」という問いは深遠です。

業務時間中に浮かんできたらそれは終わりです(笑)。

僕は数字に還元できない、例えば売り上げに還元できない仕事の意味が引っかかり始めると急に仕事が手に付かなくなる実感がありました。

この仕事でいったい誰がどのくらい幸せになるのか、とか。

社会的インパクトが大きい大企業に勤めている人はたまに感じる問いなのではないかと思います。

けど、数年無視しているとそのことに慣れてくる。それを大人になったとかというのでしょう。

僕が勤めていた一社目はまさにそんな感じでした。

こうした問いはもはやメタ・仕事論といえるでしょう。

厄介な「そもそも論」というやつです。

こいつは考えても考えてもマネタイズできる可能性が少ないので厄介です。


興味深いことがあります。

僕は仕事はあまりできるタイプではなかったと思いますが、バリバリ仕事ができる人に「なんで仕事しているんですか」ということを聞いてみると、頑張って現実に効力がある仕事論に落ち着かせようとするので、いつも興味深く聞いていました。

「この仕事は~のDXでユーザーの利便性が高まるから」とか「関わったプロダクトを世の中の人が使っていることに満足感を覚えるから」とか。

では、「その利便性によって新たな不自由が生まれることに対してはどうするのか」、とか「満足感って本当ですか」とか聞きたくなります(ウザがられるので聞かないけど)。

あまり「そもそも論」を考えなくてもいいように、極めて現実的に情報処理できる脳みそができているのか、それともそうしたふざけた曖昧な「そもそも」的問いが出現しても私のやっていることは間違いない!と断罪できるようにわざと考えないようにしているのか、の2通りあると思っていました。

でも、現実に効力を為さない「そもそも論」は無視していいのでしょうかね。

僕は必要だと思ってしまうのですが、これは一種の病気なんでしょう。

多分僕には必要性は純粋な動機に宿るという精神がこびりついているからです。

イデア論とか哲学癖が抜けてないんでしょう。

僕の好きな哲学者の中島義道さんも同じようなテーマを扱っています。

働くことがイヤな人のための本―仕事とは何だろうか 


今は答えが出ないけど、今せっかく時間があるのでこうしたことに1つ1つ答えを持つように考える時間にするべきなんだと思います。

答えの予感はあるのですが。


次回は村上春樹と無職を絡めて話したいと思います。

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