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歴史研究とネオ時代小説(2013)

歴史研究とネオ時代小説
Saveun Satow
Nov. 30, 2013

「日本史はつまらない、と言う人に『なぜ?』と尋ねると、『暗記が強要されてイヤになっちゃった』という答えが一番多く、その次が『だって歴史小説の方が面白いもの』。それは……そうなのかな。でも事実は小説より奇なり、という言葉もあるし」。
本郷一人『古文書を読む』

 今秋、従来の時代小説と異なる主人公や設定の作品の刊行が相次いでいる。それらは「ネオ時代小説」と呼ばれ、万城目学の『とっぴんぱらりの風太郎』や和田竜の『村上海賊の娘』、垣根涼介の『光秀の定理』などがそうした例である。しかし、それは時代小説の行き詰まりを示すもので、歴史的意義に乏しい。

 議論の前に時代小説の定義と特徴について言及しておこう。歴史小説は歴史上に実在した人物を主に用い、史料や研究等から推定される史実にほぼ即して、架空の人物や作者の解釈を交えつつ、物語が展開される。「時代小説(Historic Novel)」は、歴史小説と比べて、再現への意志が弱く、史実にもとらわれず、架空性を優先さあせる。

 前近代に等身大の人物はいない。それは近代の理念から派生する自由で、平等、独立した個人である。しかし、遺産相続社会では身分や職能によって細分化され、等身大の人物はいない。近代小説は近代人を扱うために考案されたジャンルであり、前近代社会を舞台にすることはできない。歴史・時代小説はロマンスの様式に立脚する。

 「ロマンス(Romance)」はもう一つの世界を舞台とする。神々の物語である神話とは異なり、近代小説と神話の中間に位置する。ブロンテ姉妹やウォルター・スコットなどが代表的な作家である。作者の描き出す登場人物は現実の人間ではなく、彼(女)の意識的・無意識的願望の分身、すなわちアバターであって、何かを象徴している。性格よりも個性に関心が向けられ、小説家がこの点で因習的であるのに対し、ロマンス作家は大胆である。作品の傾向は内向的・個人的であり、扱い方は主観的で、願望充足がこめられている。時折、情緒的でさえある。登場人物は複数の世界を渡り歩ける選ばれた者であり、しばしば英雄的・超人的であるが、精神的な深みに乏しく、作者の操り人形にすぎないことも少なくない。構成は慣習的で、秩序立てられ、安定している。始まりに終わりが提示され、その目的に向かって話が展開される円環構造をしている。すべての要素はそれを実現するために従属している。作者にとって、曖昧なものや無駄なもの、意に沿わないものは除外され、ただ因果関係が叙述される。

 歴史・時代小説は、何かの象徴である登場人物の性格や立場に焦点が当てられている。読み終わると、登場人物に移入した感情の余韻を感じる。ヒーロー・ヒロインは、歴史的事件・出来事を前に、意思決定したり、利害調整したり、行動したりする。しかも、それがしばしば歴史を変えてしまう。彼らの性格は象徴的であるので、それが読者にとって理解の糸口である。読者は、近代社会を生きている以上、等身大である。しかし、性格や立場は時代を超えて読者にも共通していると感じられる。こうした読み方であるため、読者は固有名詞には詳しいが、当時の制度を始め環境についてはあまり知らない。歴史好きの歴史知らずといったところだ。

 過去を舞台にして、アドベンチャーやファンタジー、ミステリー、ホラー、サスペンスの要素を取り入れる創作は認められる。そうした楽しみは文学には不可欠であり、歓迎されて然るべきだ。しかし、ネオ時代小説の問題は現代の認識や心理を過去に理由や根拠のないままに適用している点だ。登場人物と時代との整合性がない。人物に極端に焦点が当てられ、環境に関する理解が不十分で、その相互作用の認識がおろそかである。

 『光秀の定理』には確率論が伏線として置かれている。しかし、前近代の日本の数学に確率論はない。商業や行政、測量、暦の作成などの実用計算の他では、和算として幾何学が高度に発達したものの、ほぼそこでとどまっている。記号の認識が弱く、自然科学との結びつきがない。自然現象の背後にある法則を数学によって基礎づける試みがないので、確率論の生まれる土壌はない。そもそも、舞台となる戦国時代にそろばんが中国から伝来したと推測されているが、それによる割り算は難しく、江戸時代初期までほんの一握りの人しか理解できていない。

 『村上水軍の娘』が扱っている倭寇は作家にとって魅力的な題材だろう。しかし、この執筆は非常に難しい。文献史料は日本のみならず、中国や欧州にも及ぶからだ。当時、ポルトガルやオランダが東南アジアに進出しており、倭寇に関する欧州語の記録が残されている。また、倭寇対策のため、中国は日本についての詳細な研究を行い、その中には日本語を対象にしたものも含まれている。当時の日本語を知る重要な史料である。

 『とっぴんぱらりの風太郎』は関が原から10年後の忍者の物語である。主人公は学生運動の跡の大学生といったところだ。主人公の認知の根拠は考証によって示されていない。既存の時代小説の認識を手掛かりにし、それをずらした作品でしかない。

 いずれの作品もあらかじめの想定による歴史解釈に基づいている。今の自分たちの認識に過去を近づけて描いている。作家も史料読解や取材を行っているだろう。しかし、彼らは今日の歴史研究の成果を踏まえていない。筒井康隆が『ジャズ大名』を発表した1981年ならいざ知らず、2010年代にこうした作品は時代錯誤である。

 日本における歴史研究は90年代から新たな展開を見せる。特に、社会史の進展は著しい。まず、バブルによる開発は多くの遺跡・遺物の発掘をもたらし、その分析は通説を塗り替える。加えて、東西冷戦終結に伴う国際的な研究の交流・共有の活発化、およびデジタル技術の高度化により、人口動態や気象、国際関係など新たな視点お研究も進む。こうした成果は従来考えられていた過去と違う姿を顕在化させる。歴史研究は進化し続けており、それに立脚した創作が歴史・時代小説のブレークスルーを可能にする。

 実際、歴史・時代小説よりも研究の方が非専門家にとっても刺激的と評価されたケースも現われている。2010年に森田芳光監督による『武士の家計簿』が好例だろう。これは歴史学者磯田道史の『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』(2003)の映像化である。サブカルチャー化は個別事例を一般化して理解させてしまう危険性があるが、この映画化は「事実は小説より奇なり」と改めて思わせている。主人公や設定を奇抜にして新奇さをてらうよりも、細部に至るまで考証して地道に積み上げられた研究の方が読者には歴史を感じさせてくれるというわけだ。

 作家が原史料に直接触れる機会はおそらく稀である。それは極めて貴重であるから、専門家でさえそんなチャンスはめったにない。実績と信頼のある研究機関に所属する人が所有者と交渉して、調査を実施するのが通例である。史料は信仰の対象の場合もあり、長年に亘って形成された信頼関係の上でようやく実現することも少なくない。こうした事情から、立論の根拠を調査に参加していない専門家が検証するのが難しいケースもある。こうした課題があるとしても、作家は専門家による成果を利用する方がよい。

 今日の歴史研究のアプローチは文・人・物の三つに大別できる。

 文は文献史学である。これは最も伝統的なアプローチである。ただ、かつては公文書や記録などに範囲が限定されていたが、今ではすべての文に拡張されている。史料読解には専門的な知識・技能が不可欠である。この精読の美術が専門家と非専門家を分かつと言っても過言ではない。

 人はオーラル・ヒストリーである。これはフィールドワークやインタビューなどを指す。元々は人類学や社会学といった文献に依拠できない領域の学問で用いられてきた方法である。史料がないものもしくは未公開、その作成過程を対象の研究で使われる。当事者や関係者が存命している近現代史で採用される。

 物は考古学である。デジタル技術の進展に伴い、先史から現代に至るまでをカバーし、現代史学の体系は考古学によって再構成されたと言える。文献史料のない対象を扱うことが可能である。また、文献史料に記されていない、もしくはなじまない対象を検討できる。 文献史料からイメージしにくい対象を吟味できる。文献史料の作成者の視点に規定されない考察が行える。さらに、文献史料の年代特定や真贋判定もできる。考古学の導入によって文献史料の読み方も進化している。

 さらに、史料が一切ない時代や地域もある。これを研究する際に必要となるのが理論である。史料がある対象の研究成果から見いびき出される理論をそこに援用する。それには、その理論の完成度が高く、説得力を持っていることが前提である。そうした適用に整合性が認められるなら、史料に基づかなくても、研究者間で妥当と判断され得る。

 この演繹的方法の最も成功した例がミハエル・バフチンの中世民衆文化論である。中世の民衆文化に関する史料は、今のところ、見つかっていない。バフチンは、ルネサンス初期のフランソワ・ラブレーを手掛かりに、中世の民衆文化を「カーニバル」と描き出す。この説には実証性は全然ないけれども、専門家の間でも評価が高い。

 社会史研究の文学創作への応用例を一つ示そう。江戸時代の女性の心理を作品に導入するなら、古典文学の読解だけでは不十分である。それには文献史料の制約がある。近世は身分や職能によって服飾や髪形の規制がある。流行を含めたそれらの変遷をたどり、女性の社会における位置づけの変化を探る。それに伴い、女性の心理は影響を受ける。この変化からその心理が推察できる。これを参考に古典作品を読むなら、環境と登場人物の整合性が明らかになり、さらなる心理の詳細を読み解くことができる。ただし、心理描写は近代人を取り扱うために考案された方法であり、前近代には適用できない。あくまで心理に触れる程度にとどめるべきである。

 現代的研究を踏まえて歴史・時代小説のブレークスルーには、人物を主役にする前提を見直すことが必要だ。場所や法・制度・習慣、出来事・事件、経済、芸術など環境を真の主役にする。江戸の大名屋敷の経済活動を描いた作品はほとんどない。それは作家に当時の社会をめぐる先入観があるからだ。現代の自明性を相対化するために、歴史を知る。現代人は過去とのコンテクストを必ずしも共有していない。それを扱うためには、環境を知る必要がある。過去を舞台にする際の認識を文学も改める時に来ている。現代的感覚による歴史・時代小説の創作など自惚れにすぎない。
〈了〉
参照文献
磯田道史、『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』、新潮新書、2003年
垣根涼介、『光秀の定理』、角川書店、2013年
五味文彦他、『日本の中世』、放送大学教育振興会、2007年
万城目学、『とっぴんぱらりの風太郎』、文芸春秋、2013年
和田竜、『村上水軍の娘』、新潮社、2013年

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