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傷ついた果実たち─寺山修司の抒情詩(11)(2002)

11 傷ついた果実たちのために
 「結婚は二度と考えられない。この私を夫にしようというよう頓馬な女性では、私は満足できないからね」(エイブラハム・リンカーン)。

 私は、光太郎の実生活を否定した芸術史上主義がわるいと言うのではない。たった一人の妻もだましつづけることができずに、百万の鑑賞者をだませる訳はないと言いたいのである。
 実際、光太郎の彫刻も詩も、私の心をとらえることはない。光太郎は、粘土の彫刻の女人像にも、心があるのだということを知らない人間音痴の男だったからである。

 張り切った女の胸にぐさと刃を通して迸り出る其の血を飲みたい

と、書く光太郎と、西日のさす台所で二人分の葱を刻む智恵子、と。
 一体、狂っていたのはどっちだったのであろうか?
(寺山修司「妻・千恵子」)

 高村光太郎と妻智恵子をめぐるこの作品を所収した『さかさま文学史黒髪篇』は女性の側から作家を考察したものである。寺山修司は女性たちに惜しみない共感を寄せている。反面、多くの作家たちをあまりに身勝手であり、その作品にもそれが表われていると断罪する。しかし、寺山修司が立脚しているのはフェミニズムではない。愛であり、思いやりである。『黒髪篇』は日本の作家の手による最も感動的な文学史と言ってよい。すべてを引用したいところだ。

 寺山修司は、『流れ星のノート』において、「傷ついた果実たち」に向けた詩を書ける人について次のように述べている。

  果物屋の店先には、かならず傷のついたリンゴがまじっています
  同じ一房の葡萄の中にも 一粒か二粒の痛んだものがかならずある。
  人生も同じことです
  同じ日に同じ町で生まれても
  すべて順調にいく人と 何をやってもうまくいかない人とがある
  ここにおさめた傷ついた果実たちを
  運が悪かったと言うのは、 当たっていないでしょう
  彼女たちは より深く人生を見つめ
  その裏側にあるものまで見てしまったのです
  そして
  そんな詩を書ける人こそ
  ほんとの友だちになれる人ではなかろうか

 「沈黙は決して傷つかない。沈黙は決して負けない。われわれは皆いつか沈黙に帰り、そこに安らぐであろう。それまでの生きている間、しかしわれわれは勇敢にそれと戦わねばならない」と『沈黙のまわり』で書く谷川俊太郎と違い、寺山修司は「傷ついた果実たち」に向けて詩を書く。と言うのも、その人たちは「より深く人生を見つめ」、「その裏側にあるものまで」見てしまったからである。「ただ、彼らだけが彼ら自身と、彼ら自身に似たものを理解するのだ。ちょうど霊魂が、霊魂だけを理解するように」(ウォルト・ホイットマン)。

  涙の数だけ しあわせがくるって 本当かな
  あたし 涙が でるけど
  しあわせは まだきてないよ
  涙の数だけ しあわせがきたら
  どうしようか 迷うよな
(柳田愛『涙の数だけ』)

 この詩人は知的障がい者である。知的障害者たちが『私たちにも言わせて』という本を発行している。仕事の休みの日曜日に編集会議を重ね、支援者や全日本手をつなぐ育成会の人たちもこの会議には参加しつつも、障がい者自身がさまざまな会合で彼らの発言や原稿の中から選んだ作品を一九九二年に一冊の本にまとめる。このシリーズは年一冊のペースで発行されている。

 一九九六年に出版されたその四冊目『私たちにも言わせて  もっと2 元気のでる本』には、先の詩を含め次のような「傷ついた果実たち」による作品が所収されている。

みなさま。
だい4さつめが できました。
しっかり よんでください。
そして せんでんを してください。
たくさんの ひとに よんでほしいのです。
(阿部八重「はじめに」)

にゅうしょしせつは きげんが ない。
だから こわい。

知的しょうがい者と 言われたくない。
普通に みんなと同じ、平等に みられたい。

私のなかにも さべつは ある。
それにまけないで なんでも 思ったことは
言ったほうが いいと思う。

「施設をでて、暮らしたい時がきたら そうさせてあげる」
そう 約束しました。
おとうさん、おかあさんが、この約束を わすれたとしても
僕は、この約束を 一日だって わすれていません。
僕は、でるために 努力しています。

しゅうしょくに しっぱいして ロッカーに いれられた。

十三年間 おしぼり屋さんで はたらいてきた。
でも どんなに がんばっても
さいてい賃金から あがったことがない。
障害者は 給料が やすくてもいい
という かんがえかたは おかしい。
あたらしくはいった おばさんに しごとを おしえてい るのに。

いい人がいれば 結婚したい。
タイプは 車をもっていて
ちょっと わるめが 好きです。

けっこんについて ゆめも ふあんも ある。
でも「あんたは むりよ」って いわれると かなしくなる。
じぶんでも なやんでいるのに。
かってに きめつけないでよ。

親が年をとり、私はどのように 生きていったらいいか 考える。
友達や 地域の人と なかよくしていこうと思う。

先生に すごく反対されたけど、産みました。
子育ては 大変だけど、来年 保育園に いれようと思う。

 私達は、どこから来たのかなあ。どこでどうして私達が生まれたのだろうか。
こうして生まれたことに、あなたは何を思う。くやしがる、あきらめる、それとも、何も思わない。本当にそれでいいの。
 ほら目をあけて、私達の心をきいてもらおうよ。訴えられない立場を。私達に負い目をかんじさせる世の中を。そしたら、そこに、かすかな光が 見えかくれしてるよ。
 私は、不思議に思う。たとえば、高校生のグレってあるよね。一番グレたいのは、私達かもしれないのに。だれ一人グレてる人はいない。私達が一番できた人間かも。一番生きる意味のある人間かも。
 だまされても、不安があっても、私達が私達であるかぎり、生きなければならない。
 こんなこと言ったら悲しいけど、次の世代の私達のために、がんばろう。何かをやり遂げて、何かを残してあげよう。
 希望のある次の世代へ 託そうではないか。
(石村文子『私達』)

 何度試みても、彼らの本を直視することができない。と言うのも、この本を開くと、その引力があまりに強すぎて、眼の涙を満潮にしてしまうからである。

 「美しい女とは、美しい女になろうとする女のことである」(寺山修司『少年時代の私には眠り姫がなぜ美しいのか謎であった』)。寺山修司は、『血と麦』のころでさえ、「様式」を素朴に信じすぎていたと『空には本』を自己批判し、「私個人が不在であることによって大きな『私』が感じられるというのではなしに、私の体験があって尚私を越えるもの、個人体験を越える一つの力が望ましい」と告げている。

 「『私は私の上に、私自身があるよりももっと高い、もっと人間的なものを見る。それに到達するように、みんな私を助けてくれ、私の方も同じものを認識し同じものに悩むあらゆる人を助けて上げたい。認識においても愛においても、直観においても能力においても自己を完全で無限だと感じ、事物の審判者であり、その価値測定者としての自己の全体を挙げて自然に固着し、自然のうちに存在するような人間がついに再び現われ出るために』。誰かをこのようなもの怖じせぬ自己認識の状態に置くことは困難である。なぜなら愛を教えることは不可能だからだ。けだし、愛においてのみ、魂は自己自身に対する明晰な、自己を分析し蔑視する眼差しを獲得するのみならず、自己を越え出て直観し、どこかにまだ隠されているより高い自己を全力を挙げて求めんとする熱望をも獲得するのである」(フリードリヒ・ニーチェ『反時代的考察』』)。

 ヒップホップにしても、「傷ついた果実たち」から生まれている。ヒップホップにはラップ文化の周辺も含まれる。ヒップポップ(Hip-hop)は、一九七〇年代後半から八〇年代初頭のニューヨークのサウス・ブロンクスのアフロ・アメリカンたちの間で生まれた文化の総称である。ラップやブレーク・ダンス、フード付きのスウェット・パーカーやキャップ、スニーカーといったファッション、地下鉄車両や壁にスプレーを使って巨大な絵を描くグラフィティなどを指す。

 一九六〇年代の公民権運動以降、アフロ・アメリカンの中産階級化が進むと同時に、サウス・ブロンクスのような都市中心部の生活環境は、むしろ、悪化している。若年層の失業率が高く、ストリート・ギャングの抗争やドラッグの密売、生活保護を受けるシングル・マザーの増加といった状況に対し、アフリカ・バンバータは、七五年にブロンクスに「ズールー・ネーション(Zulu Nation)」という組織を結成する。この更正した元ストリート・ギャングは、ドラッグや抗争の代わりにラップやダンスを若者たちに推奨している。ヒップホップは教育の機能を果たしている。彼はドラム・マシーンを使ったエレクトロ・ビートを導入し、八四年にジェームス・ブラウンと『Unity』で共演して、ラップとファンクを融合した新たなヒップホップ音楽を提示している。

 ヒップホップの誕生には、ジャズやロックの形成にラテン・アメリカ文化が関わっているように、一九三〇年代からサウス・ブロンクスに多く住むカリブ海出身者の影響が大きい。最初のヒップホップDJと見られているクール・ハークはダンス・パーティーのDJを始めた際、ジャマイカのDJを真似てレコードをかけながら、ファンに語りかけている。また、このジャマイカンは、二台のターンテーブルと二枚の同じレコードを用いて、「ブレーク・ビーツ」と呼ばれる演奏部分だけをつないで、客を踊らせる手法も考案している。他にも、グランドマスター・フラッシュもバルバドス出身の父親のカリブ海音楽のコレクションを聞いて育ち、グランドマスター・フラッシュ&フューリアス・ファイブが一九八二年に発表した『ザ・メッセージ』はブロンクスの劣悪な状況をラップで語り、ラップ・ファン以外から注目された最初の大ヒットである。

 ブレークの頭文字をとって「B・ボーイ」や「B・ガール」と呼ばれるファンの若者の間から、今ではWWEの看板レスラーのブッカー・T(ブッカー・TとMG5のブッカー・T・ジョーンズとは別人)でお馴染みだが、逆立ちして頭で回転するようなブレーク・ダンスが生まれる。ダンスの激しい動きに対応できるゆったりした衣服がヒップホップ・ファッションとなる。

 また、ストリート・ギャングの縄張りのマーキングから始まった落書きにはアート化し、キース・ヘリングもとり入れるまでに至る。『ワイルド・スタイル(Wild Style)』(一九八二)や『ボーイズン・ザ・フッド(Boyz’n the Hood)』(一九九一)、『8Mile(8 Mile)』(二〇〇二)を代表に、ヒップホップ・カルチャーを描いた映画も次々に公開されている。NBAにラップはよく似合う。このヒップホップ現象は、先に述べた通り、「ミュージック(Music)」の本質を顕在化させている。Musicの語源である古典ギリシア語の’η μουσικηは今日の音楽だけでなく、舞踏や詩、演劇、天文学などを含む広い概念である。「天文学とは 恋愛論の もうひとつの呼び名なのです」(寺山修司『愛の天文学』)。

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