見出し画像

中村光夫、あるいはわが青春に悔なし(4)(2005)

6 近代の超克と近代への疑惑
 1942年7月、『文学界』は「近代の超克」というシンポジウムを開催します。京都学派・日本浪漫派・文学界グループの三派が参加し、西洋の近代をいかにして超えるかを論じています。そのメンバーは小林秀雄、河上徹太郎、中村光夫、林房雄、亀井勝一郎、三好達治、西谷啓治、鈴木成高、菊池正士、下村寅太郎、吉満義彦、諸井三郎、津村秀夫ら13人です。

 顔ぶれからわかるように、政治的・哲学的・文学的議論に終始し、経済的な認識は欠落しています。司会の河上徹太郎は、1933年に国際連盟で、ポール・ヴァレリーを議長として西欧の知識人が集まり、第一次世界大戦後の秩序、すなわちヴェルサイユ体制の維持の思想的意義を提案した「知的協力委員会」に倣っていると言っています。しかし、「近代の超克」は日米開戦への「知的協力」の試みです。

 もっとも、「近代の超克」のターゲットは近代自体ではありません。大正デモクラシーです。このリベラリズムは日本における本格的な近代思想でしたが、政治的・経済的・軍事的・社会的変化の中で、知識人の間に、その克服の気運が生まれます。それは泥沼化した日中戦争を正当化し、軍拡を支える思想が必要となっていた時期です。近衛文麿は左右両派から幅広く知識人を集め、「昭和研究会」を設立し、東亜新秩序のイデオロギーを作成させようとします。そのメンバーには三木清がいます。近代の超克はこの延長線上にあります。ですから、大正デモクラシー=近代=リベラリズムという短絡的な図式の超克を京都学派・日本浪漫派・文学界グループの知識人たちは独創性と信じています。

 このような粗雑で、浅はかな理論が国際的に通じるはずもなく、また、実際の政策にも反映されることはありません。彼らは、それ以後、「ねばならない」と唱え続けていくのです。丸山眞男など「新大正デモクラシー」とも呼ぶべき大正デモクラシーの再考・復権が、戦後、政治思想の主流にとって代わり、その克服は依然として「近代の超克」の域を出ていません。中村光夫はこの「近代の超克」の総括として、1942年10月、彼による『反時代的考察』とも言うべき「『近代』への疑惑」という論文を『文学界』に書きます。

 中村光夫は、「『近代』への疑惑」において、近代化がもたらしたものついて次のように言及します。

 むろん当時の我国にとつて西洋自体がひとつの巨大な新発見であつたとすれば、そこに新たな知識の糧を求めることに何等不健全な事情があつたわけはない。しかし問題はここに移入された知識の質である。話を簡単にするために極端な云ひ方をすれば、僕等は西洋の文学や思想を、あたかも汽船や電信機と同様に、ただ僕等にだけ目新しい出来合ひの品物のやうに受け取つて来たのではないか。文学の上でも当時の作家が外国文学の作品からは強い影響を受けながら、それを書いた西欧の作家の生きた姿を本当に究めた人がほとんどゐないやうに、思想の上でも当時の学者が西洋から受入れた新思想とは単に西欧の哲学者の学説や体系についての知識にすぎなかつたのではなからうか。そして外国の作品を要領よく模倣した者が新文学の選手と見られたやうに、西洋哲学の巧みな解説者が哲学者乃至は思想家として通用した。いはば文学の領域では外国の作品がすぐ役立つお手本として読まれたやうに、思想の領域でも思想についての知識が思想の代用品として行はれた。

 中村光夫は近代を超克するという視座自身に嫌疑を向けます。「近代の超克」という問題提起が西欧のものであり、西欧を批判するのに西欧の概念を借用していること自体倒錯にすぎません。日本の近代は輸入物であり、外発的である点で、西欧の近代とは決定的に異なっています。近代の超克について語る前に、日本の「近代」に対する認識の歪みについて省みるべきです。

 中村光夫の日本の近代化に対する批判は夏目漱石と似て非なるものです。「注意すべきなのは漱石の『近代への疑惑』が、明治といういわば日本近代の”青春期”の内側の苦しみであるのに対し、中村光夫のそれはむしろ近代日本という”青春期”そのものでの疑惑にほかならなかったという点であろう。(略)もともと中村光男は、大なり小なり”第二の青春”を生きようとした『近代文学』系の批評家とは違って、むしろ『青春』への根底的な『疑惑』を強力な批評上の武器にした批評家である」(竹田青嗣『日本近代文学という発想』)。

 荒正人や本多秋五、小田切秀雄などの『近代文学』の批評家はプロレタリア文学運動の崩壊を体験したため、その青春の反省から「政治と文学」における政治の優位から文学を解き放とうとしていましたが、それは反抗から諦観へと至る成長の過程であり、時としてよく見られる通俗化にすぎません。青春をゆらぎとして捉えられず、そこには青春そのものに対する「疑惑」がないのです。

 中村光夫が批判しているのは近代ではなく、日本人の近代に対する倒錯した意識です。この鬱屈した意識が日本の近代化を推進させ、その超克を唱えさせているのです。

 さらに、中村光夫は日本の西洋に対する意識について次のように続けます。

 当時の社会を支配した西洋崇拝といふよりはむしろ西洋恐怖の風潮のお蔭で、そこに輸入された外国の文学または思想は単なる生硬の形ですら社会から過大な流通価値を与へられたため、却つて我国の土壌に根を下す余裕を与へられなかつた。或る思想が輸入され、一渡り流行して消化される暇もなく忘れられて行くと、これと代つて別の思想が更にまた「新知識」として輸入された。そしてこの思想もまた単に目新しい知識である間だけ歓迎され、やがて忘れられるのは前の思想と同じであつた。
 その結果、文学は絶えず新式の機械でも輸入するやうに、海外の新意匠を求めて転々し、哲学は自分の思想を持たぬ多くの「哲学者」を生んだだけであつた。

 「西洋恐怖の風潮」から、「或る思想が輸入され、一渡り流行して消化される暇もなく忘れられて行くと、これと代つて別の思想が更にまた『新知識』として輸入」される光景が続いています。中村光夫は西洋の流行にばかり気を取られている文学者を批判しています。けれども、西洋からの文化の流入自体には否定的ではありません。彼は、「かうした外国文明の急速な吸収は明治以来の我国の生存上の必要事であつた」と認めているのです。

 中村光夫は、と同時に、西洋偏重への反動的な姿勢にも次のように断じています。

 最近数年来、国民の文化的自覚を促す声もまた盛であるが、長年にわたる外来文化の圧迫によつて無意識のうちに醸成されて来た精神の畸形は、単なるジャーナリズムの風潮の交替などによつては決して癒されぬほど根深いのではなからうか。むしろ反対に時勢の表面的な動きに「気ぜわしく」適合することにのみ汲々として、自分でものを考へる習慣を失つた精神の持主は次第にその数を増す傾きさへあるのではなからうか。(略)
 ここに僕等の実際に生きている「近代」の悲しい正体があるとすれば、この精神の危機を僕等のまづ闘ふべき身内の敵として判つきりと意識することに、その超克の着実な第一歩があらう。

 中村光夫は近代に対する日本人の倒錯した意識を直視しなければならないと訴えています。西洋偏重もその反動にすぎない国粋主義にも否定的です。両者に共通しているのは西洋への歪んだ意識です。青春を否定すればするほど、それを再現してしまうように、近代を叩きながら、逆に、彼らがイメージする近代に囚われています。近代は「決定と不確定の間」にゆらいでいるものなのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?