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戦後マンガ史に見る水木しげる(2015)

戦後マンガ史に見る水木しげる
Saven Satow
Dec., 13, 2015

「歴史の任務は、人間の冒険に意味を与えることです。神々がそうであったように」。
アンドレ・マルロー『アルテンブルクのクルミの木』

1 遅れてきた新人
 2015年11月30日に亡くなった水木しげるはマンガ史において独特な位置を占めている。1922年、すなわち大正11年に生まれ、43年に召集されてラバウルに送られ、米軍の空襲により左腕を失う。46年に復員、さまざまな職に就いたり、武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)に通ったりし、50年、神戸でアパート「水木荘」を経営、紙芝居の作品を描き始める。57年に上京、翌年、『ロケットマン』で貸本マンガ家としてデビューする。35歳の時である。

 困窮生活に耐えながら、貸本やアングラ誌に作品を発表、65年、『別冊少年マガジン』に「テレビくん」を掲載、講談社児童マンが賞を受賞する。遅れてきた新人は売れっ子マンガ家になっていく。66年、テレビドラマ『悪魔くん』、68年、アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』が放映、主題歌の歌詞を担当する。7年、『総員玉砕せよ!』、88年、『コミック昭和史』を刊行、92年、岩波新書『妖怪画談』がベストセラーになっている。2003年、境港市に「水木しげる記念館」がオープン、10年、妻武良布枝の自伝『ゲゲゲの女房』がNHKで連ドラ化されている。

 水木しげるは紙芝居や貸本マンガ、アングラ誌、商業誌、実写、アニメ、インターネットとサブカルチャーのほとんどの領域を経験している。また、雑誌と映像のメディアミックスの先駆けも担っている。さらに、マンガのキャラクターによる町おこしにも協力している。各部分であれば、他にも実践しているマンガ家もいる。ただ、これだけ広い範囲の歴史の証人となれるマンガ家は他にいない。戦後マンガ誌から見ると、水木しげるの独特な位置づけがよくわかる。

 マンガは線とコマによって構成された言葉と絵による視覚的表現である。感覚感情とクレショフ効果を基本原理とする。視覚によって知覚された形態や線、色彩が経験や知識などの記憶と共に強く感情を喚起する。これが感覚感情である。また、二枚の絵を連続して見ると、それをつなぎ合わせて認知する。これがクレショフ効果である。

 言葉と絵は相互作用している。物語を引っ張るのは言葉であるから、絵より先に創作される。ただ、マンガの存在感は絵であるから、魅力はこちらにある。

 戦前と戦後のマンガの最大の相違点は人物のサイズである。戦前の漫画は登場人物を全身像でのみ表わす。すべてフルサイズ・ショットで、違いはせいぜい背景が大きいルーズもしくは小さいタイトくらいである。一方、戦後マンガはサイズが解放されている。作者は多様なサイズから必要に応じて選択できる。このサイズの解放から始まるイノベーション指向が戦後マンガの多様性をもたらしている。

 サイズの解放について説明しよう。通常のカメラは焦点が一つだけだが、マンガはそれを複数とれる。人間が二人並んでいても、カメラと違い、マンガはどちらにも焦点が合わせられる。絵は、アップになると、焦点が特定対象に絞られてくるので、描かれた要素の必然性が高くなる。

 顔のアップでは、表情を描きこむことが求められる。それは感情表現を多様にする。目は口ほどにものを言うごとく、感情に合わせて黒目と白目が変化する。喜怒哀楽だけでなく、憂鬱や葛藤、躊躇、後悔など複雑な感情も明確に表わすことができる。読者は登場人物に感情移入してマンガを読むようになる。フルサイズ・ショットで引き目鉤鼻の『源氏物語絵巻』の登場人物に気持ちを想像することはあっても、感情移入はできない。

 感情移入ができれば、読後感としてペーソスだけでなく、カタルシスも可能になる。それはマンガにおける悲劇の誕生を意味する。悲劇が描けるのであれば、マンガはさまざまなテーマやジャンルを取りこめる。サイズの解放はマンガに文学や映画に引けを取らない表現の可能性があることを指し示す。

 サイズの解放を導入したのが手塚治虫である。それまでフルサイズ・ショットしか見たことがなかった読者は『新宝島』(1947)に度肝を抜かれる。絵ではなく、多様なサイズの効果によって読者は映画的感覚を感じる。その中からマンガ家志望の少年少女が現われ始める。

 戦後マンガは手塚治虫によるサイズの解放のイノベーションから始まる。彼は、サイズの解放にとどまらず、その後もさまざまな革新を考案していく。手塚治虫とその影響を受けた者たちが戦後マンガの本流を形成する。このイノベーション指向の流れをロマン主義と呼ぶことができよう。

 昭和20年代のマンガにおいて活躍したのは手塚治虫だけではない。当時の手塚治虫はマンガ家の一人にすぎない。他を無視することは、もちろん、適切ではない。しかし、手塚治虫のサイズの解放に始まるイノベーション指向が戦後マンガの発展の主流であることは確かである。

 戦後マンガは多種多様である。こうした錯綜した対象には、解釈を共通理解にすることが困難であるから、歴史的アプローチが有効な方法である。伝統の流れから認識することである。それが一つではなく、複数あることは言うまでもない。

 戦前の漫画の技法を知りたければ、長谷川町子の『サザエさん』を見ればよい。使われているのはフルサイズ・ショットだけである。違いは立っている姿勢か座っているかくらいだ。また、顔の造作は引き目鉤鼻である。そのため、内面描写が貧弱であり、読者が登場人物に感情移入することができない。

 現在でも戦前からの規範を受け継ぐマンガも描かれている。新聞や雑誌に掲載される四コマ・マンガがその代表である。拡張や保管などのイノベーションには消極的であり。マンガの基本的形式の規範を遵守し、その範囲内で独自性を示す。こうした系統を古典主義と呼ぶことができよう

 言うまでもなく、ロマン主義と古典主義を完全に分離することはできない。ロマン主義は古典主義の規範を認識したうえで、それに確信を加えるからだ。戦後も長く活躍した明治生まれの漫画家杉浦茂は伝統的規範を踏襲しつつも、不定形の線を用い、世界を流動化している。マンガは線で対象を描く。杉浦茂はその線を変化させて別の大正へと変改する。これはまさにマンガならではの表現である。古典的伝統を守りながら、線を開放する。新古典主義としか呼びようがない。

 石ノ森章太郎や藤子不二雄などのトキワ荘世代はロマン主義の象徴である。いずれも手塚マンガに影響され、雑誌が公募する新人賞に投稿し、相互にその名前と才能を知っている。戦後マンガのリクルート・システムの第一世代で、将来を決意して上京、手塚治虫の住むトキワ荘に集まっている。

 彼らは手塚治虫というマンガの神様を信仰する使途であり、トキワ荘は共同体である。お互いにライバル心を燃やしながらも、コミュニケーションによって知識や社会性が深まっていく。東京出身のつのだじろうが連日トキワ荘に通ったのもこうした資源を入手するためである。

 トキワ荘世代ほど濃密なマンガ家ネットワークはない。さいとう・たかをら劇画家が劇画工房という共同体を結成するが、失敗している。そこには超越者という共通基盤がなかったため、自分こそが一番だ衝突したからである。トキワ荘世代の美しき関係は時代的・社会的背景よりも、神の存在が大きく働いている。

 マンガはペンと筆によって描かれる。道具を使いこなせるようになるには時間がかかる。繰り返しを通じてその手続きの知識を身体化させなければならない。また、物語や場面設定、人物造形には豊富な知識と社会性が必要である。

 その一方で、筋肉の柔軟性や目の機能など肉体は年齢と共に衰える。また、マンガ家と主な読者層との間に年齢の開きがあると、世代間ギャップを生じ、両者の間の感覚がずれてしまう。

 マンガ家は10代後半から20代前半にデビューするケースが多い。知識や社会性の蓄えは貧弱である。枯渇してしまうと、自分の感性に依存して創作するようになる。それは自らにとらわれたり、まとまりのなかったりする作品に終わる。

 この事態を避けるために、苦肉の策をとる。一つは突飛な設定や人物を用いることである。過去の人間がタイムスリップして現代に登場するなどが典型例だ。作者が読者と理解の共通基盤を得るには、驚きに頼るのが手っ取り早い。

 もう一つは世界を縮小することである。狭い世界を舞台にして、針小棒大な描写を繰り返す。こうしたアイロニーは笑いを誘い出して、作者が読者と共通基盤を築く手法だ。また、読者設定を狭くし、マニア向けにすることもこの方向性の一種である。作者にとって読者が見えるので、その彼らの効用のツボにはまるように細部にこだわって描く。いずれもほんの些細な違いこそが重要だという姿勢だが、この極小化はマンガを小さくしていくだけである。

 テレビドラマ化された藤子不二雄Aの『まんが道』を始め、当時の関係者による回想が数多く発公表されている。トキワ荘世代の間には競争と協同が働いている。ライバルとしてお互いに切磋琢磨する。と同時に、コミュニケーションを通じて自身を相対化し、幅広い知識を得たり、社会性を向上させたりしている。彼らはマンガ家として共進化している。それはイノベーション指向のロマン主義の発展過程をよく端的に物語る。

 水木しげるの35歳でのデビューは、他のマンガ家と比べて、遅い。けれども、彼にはこれだけの時間が必要である。戦争で死ぬかもしれないという不安の中、生きるとは何かについて考えた彼は、復員後、生活のためにいくつかの職に就いたり各地を回ったりしながら、画家を目指して武蔵野美術学校に通っている。
 絵で食べていくのは厳しいと学校も中退している。また、スピーディーに大量の作品を描いた紙芝居作家としての経験は、直接的な幼いお客の反応を受けとめつつ、画力と構想力の訓練になっている。マンガ家のネットワークも広くない水木しげるには、創作に必要とされる知識や社会性を獲得するためには、それだけの年月が要求されている。

2 マジックリアリズム
 戦後マンガの伝統は古典主義とロマン主義だけではない。写実主義もある。1950年代の娯楽の王様は映画である。そのアクションに魅了される若いマンガ家が出現する。黒澤明が決まりきった様式を打ち破り、リアルなアクションを次々に映画に導入している。また、石原裕次郎を始め戦後派の俳優が登場し、ワイルドでスピーディー、エネルギッシュなアクションで大暴れする。マンガも負けてはいられない。

 映画の迫力あるアクションをマンガにも取り入れるには、リアルな絵が不可欠だ。写実性を追求するマンガが登場する。それが劇画である。少年少女向け雑誌に掲載されるマンガの絵とは異質で、子どもとの違いを意識する読者の目に魅力的に映る。社会の中に身を置くことを自覚する読者にとって、そのリアルな絵の世界は現実の再現であって、絵空事ではない。劇画は少年少女向けの雑誌ではなく、貸本やアングラ雑誌などに活動の場を求める。それは読者層の年齢の幅を上に引き上げる。

 大半の劇画のストーリーは通俗的・類型的で、B級映画の域を出ない。ただ、描きこまれる量が多いから、写実的な絵は画面を重くする。絵の重さに比して内容が軽いために、劇画は娯楽として成立する。

 また、劇画の写実主義の描写は即物的である。どんなに登場人物が血まみれであろうと、読者は痛みを感じない。リアルな絵で現実を再現していても、即物的であるから、読者が人物の傷に痛みを察して同じように感じ取ることがない。

 ロマン主義のマンガも、60年代半ば、慣れと飽きにさらされる。団塊の世代はマンガ産業の発展と共に成長している。怒れる若者になった彼らは戦後マンガの傍流の写実主義に惹かれていく。マンガにもヌーベル・ヴァーグが必要だ。写実主義がマンガも一般商業誌に登場し始める。

 水木しげるはこの劇画隆盛の時代に表舞台に登場する。マンガは子どもだけのものではない。大学生もマンガを読み、それを題材に学術論文を書く。大正人の彼が売れ始める反面、子どものためのマンガを信条にした明治人の杉浦茂の人気が低迷していく。

 美術学校に通っていた水木しげるは高い画力を有し、写実主義的傾向を持っている。けれども、水木しげるを写実主義に分類することは短絡的である。ロマン主義にしろ、写実主義にしろ、登場人物が個性的に描かれ、人間世界の確かさが前提になっている。ところが、水木しげるはそれを批判する。通常の認識では、人間はリアルであり、妖怪がイマジナリーである。

 一方、水木しげるのマンガにおいては、人間が類型的で没個性的であるのに対して、妖怪は多様で個性的である。人間がイマジナリーで、妖怪がリアルと通常と逆転している。世界は確かではなく、スカスカだというわけだ。自らの原点の一つとして、水木しげるは、幼い頃にのんのんばあから聞いた超自然的な昔話を挙げている。それも考慮すると、彼はマジックリアリズムと呼ぶべきだろう。

 70年代、公害をはじめとする高度経済成長の矛盾が露呈、近代化や進歩への会議が生じる。オカルトがブームとなり、その時代潮流も水木マンガの人気を後押ししている。

 水木マンガは、妖怪の他、戦争が中心的テーマである。それは彼の戦争体験を元にしている。ノンフィクションには写実主義的アプローチが必要である。実在の人物を扱う場合、容姿が再現されていなければ、作品のリアリティが損なわれる。世界の不確かさというマジックリアリズムをとりながらも、呪術性よりも写実性に重心を置いている。

 写実主義が少年誌を席巻していくにつれ、従来の主要読者だった子どもたちが離れていく。「少年」とあっても、実際には雑誌は青年向けである。マンガを文学や映画に負けない芸術に育てようという意識は先鋭的作品に意義を見出す。それは頂点だけを評価し、すそ野を切り捨てる評価である。通だけを相手にする作品は読者を狭める。多様性がなくなると、土壌が痩せ細り、マンガは草の根を失ってしまう。

 こうしたエリート主義に対して、藤子不二雄は新古典主義ともいうべき路線をとり、草の根を育てるマンガを次々に発表していく。それは子どもたちが楽しめるマンガである。この最高峰が『ドラえもん』である。それはマンガの土壌を豊かにしている。

 水木しげるのマンガは子ども向けではない。少年マンガ誌に進出した際、媒体に合わせて絵柄や内容を変更している。しかし、小学生が楽しめるものにはなっていない。ところが、それを原作とした映像作品は新古典主義的に再構成されている。実写やアニメは子ども向けである。マンガを読まないまま、テレビで水木ファンになる子どもが大勢現われる。このマジックリアリストはマンガ文化の土壌を育てる役割も果たしている。

 70年代、少年マンガではロマン主義と写実主義が融合している。両者の方法論は作家や作品の必要に応じて採用される。手塚治虫も、写実主義を取り入れ、医師としての経歴を持つ彼ならではの『ブラック・ジャック』を発表している。

 写実主義は見た目の外見を現実のように再現する。しかし、それは目に見えぬ内面を扱うことができない。写実主義は、ゴルゴ13が無口で何を思っているかわからないように、心理描写を軽視した行動主義である。この心理描写を発展させたのが少女マンガである。目に見えぬ心を表わすには、ロマン主義的なイノベーションの方法論を推し進めるのが効果的だ。ロマン主義は少女マンガにおいて心理主義と再定義される。

 少女マンガはさまざまなイノベーションを実践する。その代表が複雑なコマの配置である。クレショフ効果は前の画像が次の印象を左右すると示す。コマを多重に配置すれば、読者はそこから複雑な心理を感じ取る。少女マンガは心理描写を極限に至るまで革新していく。

 80年代、マンガ雑誌は想定読者を再検討し、セグメント化が進む。少年誌は少年に回帰し、その上の年齢層にはヤング誌が創刊される。けれども、少年・少女・青年などの区分にとらわれず、自由に読む読者も増加する。古典主義・ロマン主義・写実主義は優劣の関係になく、相互浸透・依存が進展する。マンガは戦後文化の重要な一つと社会的に認知される

 この時期、水木マンガは人気が低迷する。一世風靡した作品にはそれだけ慣れと飽きが大きい。また、オカルト・ブームも下火になっている。さらに、好景気のため世界の確かさが信じられ、水木マンガの前提と合わなくなったことも理由だろう。水木しげるは、アイデンティティを確かめるように、自らの原点である妖怪と戦争に向かう。

 平成を迎え、手塚治虫を始め戦後を担ったマンガ家が次々と鬼籍に入っていく。しかし、彼らが生み出したキャラクターは健在で、後継者によって新たな物語が作成され、ファンを増やし打続けている。雑誌連載の終わった水木しげるの鬼太郎も繰り返しアニメ化される。マンガは社会に大衆文化として定着したため、作者を離れて生きている。

 さらに、マンガは町おこしにも活用される。戦後マンガは都市化と富に発展している。地方の若者が上京して成功を目指す。これが戦後マンガ家のサクセス・ストーリーの定型である。竹下昇内閣以降、地域コミュニティの活性化が政治課題の一つである。高齢化や人口減に苦しむ地方ならびに帰属意識が衰弱化する都市の住民自ら取り組む。そのため、各地でアイデンティティの確認が行われる。新たなそれとして地域に縁のあるマンガに注目する動きが現われる。水木しげるに関しては東京都調布市や鳥取県境港市がアイデンティティに見出している、

 水木しげるは、強い個性もあって、早くから、生きた伝説と見なされている。その実情はあまり知られていなかったが、2010年にそれが明らかにされる。水木しげるの妻武良布枝の自伝『ゲゲゲの女房』はベストセラーになり、NHKの連続テレビ小説でドラマ化される。従来とは違うヒロインのこの番組は高視聴率を記録、打ち切り寸前の連ドラは復活する。これまでの流れを参考にすると、今後、マンガ家のパートナーの自伝が話題になるかもしれない。

 2000年に杉浦茂、13年にやなせたかしと彼より年上が亡くなる。『ゲゲゲの女房』の人気もあり、最年長マンガ家の水木しげるへの注目は最近も衰えていない。史上最年長記録となる92歳でマンガ連載を始めたり、ネットを通じて大食漢の画像を公表したりするなど100歳まで生きるのではないかと人々に思わせている。

 今、そこを妖怪が通っている。見えないけれども、いる。それが水木しげるである。
〈了〉
参照文献
夏目房之介、『マンガはなぜ面白いのか』、NHKライブラリー、1997年
武良布枝、『ゲゲゲの女房』、実業之日本社文庫、2011年

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