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田村正和、あるいは「素」の俳優(2021)

田村正和、あるいは「素」の俳優
Saven Satow
May, 23, 2021

「俳優という花の根っこの部分や、ほかの俳優たちがどれだけ鍛錬してその場にいるのかを見極められなかった。だからこの程度の俳優にしかなれなかった」。
田村正和

1 テレビ俳優
 映像媒体で活動する俳優の中に、映画においては冴えないけれども、テレビで人気を博すタイプがいる。彼らは、一般に、「テレビ俳優」と呼ばれる。アメリカで言うと、『TVキャスター マーフィー・ブラウン』のキャンディス・バーゲンや『24』のキーファー・サザーランドがそれに当たる。2021年4月3日に77歳で亡くなった田村正和も日本の代表的なテレビ俳優である。

 田村正和本人もテレビ俳優であることを自覚し、映画出演は限定的である。あれほどテレビドラマで成功したにもかかわらず、若い頃の出演でパッとしなかったこともあって、彼は映画を避けている。確かに、田村正和は映画向きではない。その理由は、彼を仲代達矢と比較すれば、明らかになる。

 田村正和も仲代達矢もハンサムな優男で、個性的、品と色気がある。ちなみに、色気のある男性は年上の女性からモテるもので、二人共に妻は姉さん女房だ。しかし、田村正和がテレビ俳優であるのに対し、仲代達矢は日本を代表する映画俳優の一人である。

 両者はタイプが似ており、共にニヒルな剣の使い手を演じている。田村正和が『眠狂四郎』シリーズの眠狂四郎、仲代達矢は『大菩薩峠』の机竜之助に扮している。眠狂四郎には机竜之助の影響が認められ、同系統の剣士である。けれども、机竜之助に比べて、眠狂四郎は線が細い。これが二人の役者の違いをよく物語っている。

 仲代達矢が机竜之助を演じた岡本喜八監督『大菩薩峠』(1966)で最も有名なのがラストシーンである。亡霊に惑わされた竜之助が94人を連続で斬りまくる。この時の仲代の演技は鬼気迫る迫力で、ゆらゆらとしていた青白い炎が一気に激しく燃え上がり、辺りを焼き尽くすような印象を受ける。

 一方、眠狂四郎に、このアナーキーなエネルギーはない。その件は様式美で、青白い炎が一瞬強くなったかと思うと、すぐに元に戻る。1972年に始まるテレビ時代劇『眠狂四郎』において田村正和は主役をダンディーに演じている。

 黒澤明監督は、『用心棒』の演技指導の際、「イヌやオオカミ」の三船敏郎に対して、仲代達矢に「ヘビ」のイメージを要求している。それに倣うなら、田村正和のニヒルな剣士は「トカゲ」や「サソリ」だろう。

 しかし、テレビドラマに「オオカミ」や「へび」の演技は要らない。明るい部屋の中で、映画館のスクリーンに比べてはるかに小さい画面をながら視聴するのがテレビドラマの楽しみ方である。なんとなく見ている視聴者の前に、鬼の形相をし、無言の武士が100人近くをぶった斬るシーンが現われたら、刺激が強すぎる。テレビドラマは日常の生活空間で見るもので、非日常的空間のシアターで上映される映画と前提が異なっている。俳優に求められるものも、当然、違う。

 テレビの俳優には常性からかけ離れた線の太さや鋭さ、迫力、重厚さなどを必要としない。輪郭がぼやけ、はっきりしない方が望ましい。

 田村正和は二枚目であるが、背は高くなく、体格が華奢で、猫背気味である。また、都会的で、生活感に乏しく、育ちの良さを感じさせ、かわいい笑顔を見せるけれども、明るさや華やかさに欠け、神経質そうで苛々し、発する声は鼻にかかる。

 テレビドラマの主演俳優には、視聴率獲得のため、好感度が求められ、悪役であっても、どこか善人らしさが要る。田村正和には、須川栄三監督『野獣死すべし』(1959)の伊達邦彦役で見せた仲代達矢の冷徹な悪人の演技は難しい。危ない魅力で女性を魅惑し、心がなく、シャープな頭の回転と強烈な意志の強さを演じることなど期待できない。しかし、だからこそ、田村正和はテレビ俳優として成功する。

2 オーバー・フォーティー
 田村正和が演技幅を広げ、テレビ俳優としての人気を不動のものにしたのは、1983年の『夏に恋する女たち』からである。彼は、この時、40歳だ。オーバー・フォーティーからのスターと言えば、ハンフリー・ボガートが知られているが、主役級では珍しいケースだ。

 不惑を迎えてからのブレークの一因に、時代の変化があるだろう。テレビドラマは時代の気分に敏感に反応する。70年代は高度経済成長と学生運動の時代が終わり、不安と内向の雰囲気が社会を覆っている。そんな時代のテレビ俳優は庶民的だったり、野性味があったり、刹那的だったりする。それは萩原健一を思い起こせばよい。

 一方、不況から脱した80年代は高度消費社会を迎え、新中間層の価値観が都市のみならず、地方にも広がっていく。そうした時代のテレビドラマが田村正和を求めたと言える。 

 田村正和の80年代現代劇における役は主に夫や父である。もちろん、そこにラブロマンスが加味されている。神経質でイライラするものの、都会的でハンサム、清潔感があり、ソフト、声も大きくなく、論理性を欠いてこだわりはあるが、なんだかんだ言っても、人の話を聞き入れて折れ、かわいげがある。作品によって違いがあるけれども、田村正和の演じる人物にはこうした印象がある。彼は加齢臭が漂い、説教壁がり、聞く耳を持たない家父長主義者ではない。それは、女性の視聴者にとって、現実味を帯びた理想である。

 個性のあるテレビ俳優の中には、木村拓哉のように、好き嫌いが分かれるタイプもいる。ところが、物まねされるように、髪型や話し方、しぐさなど多くの点で田村正和は個性的であるけれども、視聴者に抵抗感をもたらさない。それはしばしばコミカルな夫や父を演じているからである。彼は笑わせようと振る舞っているわけではない。力みのない愛嬌がそうさせている。

 田村正和は力を抜いた演技ができる。俳優として最も優れているのはこの点である。それは舞台俳優の自然体とは違う。自分の「素(す)」の部分を生かす演技である。

 80年代以前、田村正和は力みのある演技をしている。エッジの利いた役者を目指していたようにも見える。しかし、田村正和はロバート・デ・ニーロよりリチャード・ギアに近いタイプで、当時の演技には空回りの印象がある。

 『夏に恋する女たち』は女優が中心の群像劇である。男優は女優を生かし、お互いの関係を認知して演戯する必要がある。バランスが重要で、自己顕示的行動は慎まなければならない。田村正和はここで力の抜いた演技を見せ始める。ただ、その際、彼は自身のない演技力ではなく、自身の「素」の部分を出すことで力みをなくしている。

 以後の田村正和を見ていると、彼が自らのパブリックイメージを大切にし、孤独を好んでいる。それはテレビ俳優よりも高倉健のような映画俳優の姿勢である。だが、パブリックイメージとプライベートが違うので、彼は私生活などを公開しないのではない。高倉健が高倉健を演じているという意味で、田村正和原村正和を演じていない。「素」の部分で演技をしているから、プライベートが崩れるとパブリックイメージを損ねてしまうためだ。

 田村正和のパブリックイメージは「素」から生じている。しかし、それはパブリックイメージのためにプライベート生活を作ることではない。「素」を認識することがパブリックイメージにつながっているといことだ。それが彼の「自分のイメージを全然気にしない」というレトリックの意味でもある。

 「素」を出して演じる俳優は力みがない。その典型が田村正和と共演しこともある所ジョージである。ただし、違いもある。所ジョージは「素」をそのまま演技にしている。一方、田村正和は、「素」をつくって、そこからにじみ出てくるイメージに則って演技をする。「素」の世界は閉じられていなければならないので、彼は孤独を必要とする。それが彼の演技に役によって「寂び」の雰囲気を漂わせる。

 「素」の演技によって田村正和は時代が変わっても代替不可能な俳優たり得ている。その存在によって作品自体の気分冴え左右する。好例が1994年から始まった『古畑任三郎』シリーズである。この成功は田村正和なしにあり得ない。謎解きは『名探偵コナン』程度、で『刑事コロンボ』と比較にならないほどセコい出来で、内容自体はお粗末だ。けれども、田村正和がそれを小洒落た雰囲気のドラマに変えている。この作品は内容ではなく、田村正和によりその気分を楽しむものになっている。

 『古畑任三郎』で田村正和がオシャレなシルエットセリーヌの自転車に乗ってくるシーンがある。おそらく彼は「素」でもそうなのだろうと思わせる。こうしたちょっとした仕草に「素」の部分が現われて、視聴者は「田村正和」を感じる。これが彼の演技である。

 田村正和は若くして映画デビューを果たしたものの、鳴かず飛ばずで、40歳を過ぎてからテレビ俳優として本格的に花を咲かせる。その際、彼は「素」の部分を生かす演技で、他の誰とも違う雰囲気を表わしている。「素」を作り出すことが演技となることを示した俳優は田村正和以外にいない。田村正和は誰よりも田村正和を知っている。

 生まれ変わっても俳優になるかという質問には、決まって「やりたくない気持ち」と答えてきたそうですが、インタビューではこうも語りました。「シャクだからもう1回この仕事を志して、しっかり教えてくれる人がいて、それを受け止める自分がいて、そういう状態でもう1度俳優をやりたいという気持ちもあるんだよね。今回の人生は満足しないまま終わるけど、残された時間を、フェードアウトするまでベストを尽くして頑張ってみようって」。
 ここまで話して、「あ、なんか寂しい感じで終わっちゃいました」と古畑任三郎のように笑い、「前向きなんですよ。来世でもっと頑張ります、って話なんだから」。
(梅田恵子『自己評価は「この程度の俳優」田村正和さん、ハートも二枚目だった』)

〈了〉
参照文献
梅田恵子、「自己評価は『この程度の俳優』田村正和さん、ハートも二枚目だった¥、『日刊スポーツ』、2021年5月19日 10時00分配信
https://www.nikkansports.com/entertainment/column/umeda/news/202105190000024.html


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