Lost Samurai─新渡戸稲造の『武士道』(7)(1993)
10 地方学と民俗学
架空の連続性を構築し、父殺しによるアイデンティティーの獲得が新渡戸の執筆における真の意図である。新渡戸は、ロバート・カーライルの『衣装哲学』の中の「悲哀の中の慰め」によって解決の方向を見出だしている。カーライルはクェーカーの神秘主義やロマン主義的なヒューマニズムから心の安定を得て、内在する光への黙想の立場が宇宙の生命との一体を説く東洋思想に通じると考え、そこに東西文明の交流の方法を考察している。新渡戸はカーライルのロマン主義的な部分への親近感を覚えている。同じくカーライルを読んでいた内村鑑三(1861~1930)が英語で『余は如何にして基督信徒になりし乎』(1895)を完全な告白の形式で叙述しているのに対して、『武士道』は、カーライルの『衣装哲学』のように、告白とアナトミーを融合させた叙述形式が用いられている。
ノースロップ・フライの『批評の解剖』(1957)によると、告白は知的・理論的な領域を「内向的」な関心によって扱うけれども、アナトミーは知的・理論的な領域を「外向的」にとり扱う散文形式と定義できる。内村にとっては、ロマン主義以上に、その叙述形式も単型であるように、キリスト教の唯一神教的な側面が重要である。内村は多神教による苦悩が一神教の受容によって救済されたと言い、非連続性によるアイデンティティーの確保を認めている。新渡戸は、そうした思想との接触から、内村と逆に、日清戦争の勝利に乗じて、連続性によってアイデンティティーの要求を満たす。「すべての過ぎ去るものに意味はない」(『衣装哲学』)。
そうした連続性とアイデンティティーの探求は『武士道』だけに限らない。新渡戸は、アメリカで療養中の一八九八年に、『農業本論』を発表している。『農業本論』で「地方学(じかたがく)(ruriology )」を提唱しているが、この「地方学」は柳田国男(1875~1962)の民俗学に多大な影響を与えている。新渡戸の最大の功績の一つは柳田国男の民俗学誕生に寄与したことである。
「地方学」は柳田国男の農政学から民俗学への転換の過程において重要な役割を果たしている。新渡戸は、当時の農本主義者である横井時敬とは違って、農業や農民を美化して捉えない。岡谷公二の『柳田国男の青春』によると、新渡戸稲造は「農業が人心に好影響を与え、道徳を向上させ、愛国心を高め、自立心を涵養するとは考えない。農民者に犯罪が少ないのは、『是れ敢て農業が直接に人を全量なら湿るゆえに在らず、寧ろ其境遇の然らしむるによる』のであり、彼は、農民の多くが粗野で、猜疑心が深く、淫猥の風に慣れていることをはっきりと認めていた。また彼は、『農は愛国心を養うのは義務なりとは、余の切に願う所』と書き、農民の自立自由とは、政治的・社会的自由でなく、禽獣の自由だと断言する。彼はこのような現実認識に立ちつつ、しかも農業と農民とに周到な理解を示し、農業が『国富の基』であるゆえんを縷々と説く」。
新渡戸によれば、村を調査する際、村の旧墳、家屋、大字小字といった地名、飼牛交換、虫送り行事、講中組織のような村の風俗に注意しなければならない。村人の間で長く受け継がれてきたものは、非合理的・恣意的に見えても、必ず歴史的に必然的な存在理由がある。新渡戸は、日本の村々はさほど大きな差異が認められないほどみな似ており、一村一郷を詳細に分析すれば、全国の村々全体の様相を把握でき、国家社会の課題さえも解明することが可能であるとして、村落の「顕微鏡的観察」に基づく学問や方法論の必要性と重要性を説いている。
その新渡戸の「地方学」の発展した学問が柳田国男の「民俗学」である。「郷土を研究しようとしたので無く、郷土で或るものを研究しようとして居たのである。その『或るもの』とは何であるかと言えば、日本人の生活、殊にこの民族の一因としての過去の経歴であった。それを各自の郷土に於て、もしくは郷土人の意識感覚を透して、新たに学び識ろうとするのが我々どもの計画であった」(柳田国男『国史と民俗学』)。新渡戸の「地方学」の対象としている村は明治政府の町村合併政策によって新たに制定された行政村ではなく、幕藩体制における村落である。「地方学」も、『武士道』の方法論と同様、連続的なアイデンティティーを求める内省的な学問である。「意識というものは核を求めたがる性質もあるが、国家と民族とか、共同体はいまさら核になるだけの求心性を持たぬ。そこで自己を核として求めるのだが、その自己が他社といりまじって拡散する.精神分析が、アイデンティティーなどと言って、自分さがしにこだわるのは、いくらか無理のような気がする」(森毅『自己という幻想』)。
すでに言及したような歴史に関する知識を持つ読者には新渡戸の『武士道』は読むに耐えない。直観に満ち、実証性も乏しいこの著作がもたらした怪しげな言説は害悪でさえある。内容について論じる際には、その不適切さを糾弾することが求められる。「武士道」以降現在に至るまで直観に基づく「文化論」が横行している。疑似科学の一種であり、ペテンとして斥けねばならない。
もちろん、新渡戸を全否定すべきではない。新渡戸は『武士道』の作者ではなく、地方学、すなわち民俗学の創始者として評価しなければならない。
If you wanna see a Nackedei, you fly to Thailand.
Madame Butterfly makes you high, für Kilo oder zwei, oh.
Herr Meier fährt im Urlaub nur nach Bangkok oder Singapur.
Doch nicht wegen Landschaft, wegen weiblicher Bekanntschaft.
Zuhause ist Herr Meier eine graue Maus.
Im goldenen Dreieck läßt er Sau heraus.
Eine Lotusblüte, wunderzart und fein
Von allerbester Güte, lädt Herrn Meier ein.
Mister Meier, bitte sei mein Samurai.
Oh Mister Meier, bitte sei mein Samurai.
Zahlst du mi cash, hupf i aus der Wäsch
So schiach kannst gar net sein!
Herr Meier find in Thailand nur Essen nicht sehr leiwand.
Mag Curry nicht und Sojakeim, mag Wiener Schnitzel wie daheim.
So eine Massage liebt Herr Meier sehr
Und für bessere Gage kriegt er noch etwas mehr.
Ja, im Land des Lächelns sind die Frauen klein
Er beginnt zu hecheln, könnt seine Tochter sein!
Mister Meier, bitte sei mein Samurai.
Oh Mister Meier, bitte sei mein Samurai.
Zahlst du mi cash, hupf i aus der Wäsch
So schiach kannst gar net sein!
Daheim ist Meier sehr verklemmt, doch hier kauft er sich Seidenhemd.
Am Strande von Papaya, da schwellen ihm die Adern.
Herr Meier fliegt nun gleich weg, der Urlaub, der ist aus.
Vom goldenen Dreieck bringt er was mit nach Haus.
Er spürt ein Zwickizwacki unterm Kimono
Was ist denn dort am Sacki? Lausi - oho!
Mister Meier, bitte sei mein Samurai.
Oh Mister Meier, bitte sei mein Samurai.
Zahlst du mi cash, hupf i aus der Wäsch
So schiach kannst gar net sein!
You wanna see a Nackedei, you fly to Thailand.
Oh you wanna see a Nackedei, you fly to Thailand.
Madame Butterfly makes you high, für Kilo oder zwei.
(Erste Allgemeine Verunsicherung “Samurai”)
戦国時代、武士は、『七人の侍』が描いているように、百姓に雇われることも少なくない。侍はヒエラルキーの頂点にア・プリオリにいたわけではない。「もともと生きていくなかで、過去が物語に組みこまれるのはわずかで、たいていの過去は死んでいく。忘却するから、新しいもの物語が生まれるのだ。(略)自己という形だって、意図して積みあげて作ったというより、多くの過去を死なせることによってできたものではないだろうか。人生という物語は、過去の自分を殺す物語のようなところがある。最終的な死までいたらなくとも、人間はいつも部分的に死んでいる」(森毅『自己という幻想』)。「また負け戦だ。勝ったのは百姓だ。わしらではない」(黒澤明『七人の侍』)。
11 二重の神話化
森毅は、『戦争のメタファー』において、武士を比喩に「戦争がなくなると、戦争は神話化する」と次のように述べている。
戦国時代の実際の戦闘では、甲冑をつけているし、立合って着眼の構えなんて、あるはずがない。戦争のない江戸時代になって、武芸者が平服で立合う非日常として生まれたのが、剣道というものだろう。居合い抜きが重視されたのは、西部劇の早射ちと同じで、道で出会った武芸者が相手の殺気を感ずることが重要だったゆえらしい。
江戸時代以前の武士では、主君を変えることがよくあった。それどころか、同時に二人の主君を持つことだって、中世には珍しくなかったらしい。二君に仕えないというのは、江戸時代に主従関係の固定化のためとしか考えられぬ。武士道というものは、武士が不必要になったから成立したのではないだろうか。
江戸時代以前の武士は一種の傭兵である。主従関係が売買の契約関係である以上、主君を変えたり、同時に二人の主君を持ったりすることは非難されるべきではない。新渡戸は、武士道が「遥か以前から存在していた」が、「封建時代において自覚せられたもの」と言っている。「生者ばかりか、死者の魂も登場して、自分にのりうつったりしかねない。人間の意識はいくらか夢に似ている」(『自己という幻想』)。
動機もあり、アリバイ工作もした新渡戸被告の証言は陪審員を納得させられない。”Members of the jury, you've reached a verdict?” “We have, Your Honor”. “What say you?” ”In the matter of History of Eastern Asia vs. Nitobe, we find in favor of the plaintiff”. “Ladies and gentlemen of the jury, thank you for your services. Court is adjourned”.「物語には幻想がつきもの、だから自己幻想も否定しない。しかしせめて、自分自身の自己とぐらいはもっと気楽につきあいたいなあ」『自己という幻想』)。士道にしろ、武士道にしろ、失われた(=迷える)侍の迷える神話化によって成立し、体制の正当化に利用される。こうした神話化は、確かに、日本だけではない。
映画やテレビの西部劇では自由を代表するカウボーイは銃を持った白人であるが、20世紀に至るまでアメリカのカウボーイの多くはメキシカンや黒人であり、テキサス州を除くと、ほとんどは銃を携帯していない。その事実を踏まえて、よく見ると、白人という点は別にして、ウェスタンの舞台はテキサス州かメキシコになっている。銃=自己防衛=自由という神話はメディアがつくり出したにすぎない。
近代では、神話はメディアを通じて形成される。「日本は高学歴社会によって高度な情報化社会になった。アメリカでは黒人とかプエルトリコとかメキシカンとか、そういうのが相当おって平均的に見たら非常にまだ低い」(中曽根康弘)。新渡戸は、『武士道』において、失われた侍の迷える神話化をさらに神話化している。これは二重の神話化にほかならない。この二重の神話化を通じた父殺しによって、近代日本は「大東亜共栄圏」を経て、「名誉白人」の地位を得るために邁進していく。
さあ不思議な夢と遠い昔が好きなら
さあそのスヰッチを遠い昔に廻せば
ジュラ期の世界が拡がり
そこははるかな化石の時代よ
アンモナイトはお昼ね
ティラノザウルスお散歩アハハン
さあ無邪気な夢のはずむすてきな時代へ
さあタップダンスと
恋とシネマの明け暮れ
きらめく黄金時代は
ミンクをまとった娘が
ボギーのソフトにいかれて
デュセンバーグを夢見るアハハン
さあ何かが変わる
そんな時代が好きなら
さあそのスヰッチを少し昔に廻せば
鹿鳴館では夜ごとの
ワルツのテムポに今宵も
ポンパドールが花咲き
シルクハットがゆれるわアハハン
好きな時代に行けるわ
好きな時代に行けるわ
時間のラセンをひと飛び
タイムマシンにおねがい
(サディズティック・ミカ・バンド『タイムマシンにおねがい』)
〈了〉
参照文献
相原茂、『はじめての中国語』、講談社現代新書、1990年
内村鑑三、『余は如何にして基督信徒となりし乎』、鈴木俊郎訳、岩波文庫、1958年
笠原潔、『西洋音楽の歴史』、放送大学教育振興会、1997年
草光俊雄、『歴史と人間』、放送大学教育振興会、2008年
五味文彦、『日本中世史』、放送大学教育振興会、1993年
佐藤秀夫、『教育の歴史』、放送大学教育振興会、2000年
佐藤信、『古代日本の歴史』、放送大学教育振興会、2004年
清水正之、『日本の思想』、放送大学教育振興会、2008年
辻本雅史、『教育の社会文化史』、放送大学教育振興会、2004年
張競、『美女とは何か―日中美人の文化史』、角川ソフィア文庫、2014年
二階堂善弘、『中国の神さま―神仙人気者列伝』、平凡社新書)、2002年
同、『中国妖怪伝―怪しきものたちの系譜』、平凡社新書、2003年
新渡戸稲造、『武士道』、矢内原忠雄訳、岩波文庫、1938年
支倉逸人、『県紙秘録』、光文社、2002年
林泰成、『道徳教育論』、放送大学教育振興会、2009年
森毅、『時代の寸法』、青土社、1998年
三島由紀夫、『葉隠入門』、新潮文庫、1983年
吉田和明、『柳田国男』、現代書館、1986年
ノースロップ・フライ、『批評の解剖』、海老根宏訳、法政大学出版局、1980年
ジークムント・フロイト、『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』、中山元訳、光文社古典新訳文庫、2011年
『日本の名著12』中公バックス、1983年
『現代日本思想大系 32』、筑摩書房、1985年
DVD『エンカルタ総合大百科2004』、マイクロソフト社、2004年
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