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Invisible Map(1)(2006)

Invisible Maps
─ソフト・パワーとコモンウェルス─
Saven Satow
Oct. 16, 2006

 「物事が難しいから、われわれはあえて行わないのではない。われわれがあえて行わないから、物事が難しくなる」。
ルキウス・アンナエウス・セネカ『ルキリウスへの手紙』

第1章 ソフト・パワーとは何か
 2006年10月9日、朝鮮中央通信は朝鮮民主主義人民共和国が地下核実験を成功させたと発表している。核保有を公式に認めた国は、これで8ヵ国目になる。北朝鮮は核不拡散条約(Nuclear Non-Proliferation Treaty: NPT)から2002年に脱退しており、核兵器開発の阻止は、周辺国ならびに関係国にとって、最大の政治的課題だったが、ここ最近は有効な対策を打ち出せず、その時を迎えてしまう。しかし、これを頑迷な独裁者に率いられた惨めな国が合衆国との取引のために核にしがみついている状況と理解すべきではない。北朝鮮の核保有は北東アジアの軍事バランスを不安定化させるだけでなく、NPT体制の重大な危機につながりかねない。

 ジョージ・W・ブッシュ大統領は、3年前、北朝鮮による核兵器の保有を許さないと発言していたが、手をこまねいて見ていただけではないとしても、それに失敗したことは確かである。連邦議会・専門家・シンクタンクから、ブッシュ政権のにべもない態度が北朝鮮を追い込んでしまったのではないかという批判が噴出している。「賢者は、愚か者が賢者の教訓から学ぶよりはるかに多くを愚か者から学ぶ」(マルクス・ポルキウス・カトー・ケンソリウス)。

 こうした状況を招いた責任をワシントンにだけ押し付けるのは公正ではない。北朝鮮は危機を戦争の一歩手前の臨界状態にまで高めて、自分の言い分を通す瀬戸際外交をつねにとってきたのであり、危機を煽れば煽るほど、平壌に有利にことが運ぶ。平壌宣言をとりつけながら、日本政府はそれを前進させることができず、センセーショナリズムに走るメディアの報道もあいまって、緊張を高め続け、事実上、無効にしてしまっている。

 北朝鮮をめぐる報道には、日本のメディア特有の問題点が見られる。日本のメディア、特にテレビは抗議してくるものに慎重になる反面、受け流すものには嵩にかかって無責任な情報を垂れ流す傾向がある。記者が不祥事の際に謝罪する責任者に罵詈雑言を浴びせながら、権力者に対しては顔色を伺うような軟弱な質問をするのは日本のメディアの体質である。そのような恣意的な姿勢で報道しているのだから、日本のテレビが、番組放映後、その内容や手法に関して検証を欠くのは当然だろう。北朝鮮は日本のテレビ報道に対し、否定も肯定もしないため、ディレクターやプロデューサーは好き勝手に放映できる。一方、イスラエルや国連について報道しようとすれば、テレビ局はめったなことはできないと丁寧になる。ワイドショーで、他の何においても、北朝鮮報道が好まれるのは、そうした権威主義的パーソナリティのためである。このメディアの北朝鮮への嫌悪感は、サダム・フセイン政権に対するブッシュ大統領の破壊願望によく似ている。あの独裁国家を非難するなら、ユーモアを込めるのも一興だろう。

 ブッシュ政権はこれでまた外交における失策を重ねたことになる。この核拡散のニュースの前に、すでに合衆国によるテロの封じ込め政策が成果をあげていないどころか、むしろ、それを誘発していることが明らかになっている。

 合衆国政府は、2006年9月26日、イラク戦争とテロの関係について分析した「国家情報評価(National Intelligence Estimate: NIE)」の結論部分の機密指定を解除している。同月27日付『朝日新聞』によれば、イラク戦争が「イスラム世界への米国の干渉に対する深い恨みを生み、地球規模のイスラム過激派運動への支持を拡大させた」と分析した上で、今後5年間は、イスラム過激派が拡大を続けるだろうと予測している。この「地球規模のテロの傾向─米国にとっての影響」は、CIAなど米政府の16機関の総意として、国家情報評議会(National Intelligence Council: NIC)が今年の4月にまとめていたものの、極秘扱いとされていたが、ニューヨーク・タイムズ紙が24日にすっぱ抜き、ブッシュ政権が失策をごまかしているのではないかと疑惑が持たれている。同報告書は「米国の対テロ努力がアルカイダの指導部を大きく傷つけ、作戦を妨害してきた」と評価しつつも、イスラム過激派全体は拡張していると指摘している。 特に、「イラクにおける『聖戦』が、新しい世代のテロ組織指導者や作戦員を生んでいる」と強調し、イスラム過激派がイラクで勝利を収めたと感じるようになれば、「より多くの戦闘員が活気づき、ほかの場所でのテロ闘争を継続するだろう」と警告している。

 いずれの問題に対しても、ブッシュ政権の単調な政策姿勢が封じ込めどころか、逆に、拡散を招いたという疑いは濃厚である。はっきり言って、いきがりすぎて、ヘマをしてしまったのだ。

 ブッシュ政権はテロと核の封じ込めに失敗し、それを拡散させつつある。そんな政権に対し、ハーバード大学ケネディスクールのジョセフ・S・ナイ(Joseph S. Nye, Jr.)教授は、かねてより、「ハード・パワー(Hard Power)」に偏重しすぎており、「ソフト・パワー(Soft Power)」の重要性を認識すべきだと批判し続けている。ブッシュ政権が安全保障戦略の課題をテロと大量破壊兵器に変更したことは正しかったが、その対処方法に誤りがあるというのが教授の主張である。

 「ソフト・パワー」は公になってから15年以上が経っているにもかかわらず、日本では定着しているとは言い難い。「ソフト・パワー」は、元来、ナイ教授が『不滅の大国アメリカ(Bound to Lead)』(1990)で用いた造語である。彼は、アメリカが衰退しつつあるという当時の風潮に対し、「軍事力と経済力で最強であるだけでなく、ソフト・パワーと名付けた第三の側面でも最強の国だ」と反論している。

 竹中平蔵前総務大臣も、このソフト・パワー論を援用して、『ソフト・パワー経済―21世紀日本の見取り図』(1999)と『ポストIT革命「ソフトパワー」日本復権への道』(2001)というおよそ独創性とは程遠い安直な著作を刊行している。その後の彼が実施した政策はソフト・パワーをまったく理解していなかったことをよく表わしている。「物笑いにならぬために、どれほど頭を働かさねばならないかを人は思ってもいない」(セバスチャン・シャンフォール)。

 ナイ教授は、『ソフト・パワー(Soft Power)』(2004)において、「イラク戦争をめぐって起こった国際関係の悪化を背景に」、この「ソフト・パワー」を正面きって論じている。彼は、まず、「パワー」を「自分が望む結果になるように、他人の行動を変える能力」と規定し、それを「ハード」と「ソフト」に二分する。

 行動の種類において、前者は「誘導」=「強制」に基づく「支配力」であり、後者は「課題設定」=「魅力」による「吸引力」である。「ソフト・パワーは影響力と同じではない。(略)説得力、つまり議論によって他人を動かす力はソフト・パワーの重要な一部ではあるが、すべてではない。(略)単純化するなら、ソフト・パワーとは行動という面で見れば、魅力の力である」。

 また、関連性の高い源泉は、前者の場合、「軍事力」、「制裁」、「報酬支払い」、「賄賂」などであり、後者では「制度」、「価値観」、「文化」、「政策」である。「ソフト・パワーとは強制や報酬ではなく、魅力によって望む結果を得る能力である。ソフト・パワーは国の文化、政治的な理想、政策の魅力によって生まれる」。

 加えて、ソフト・パワーは。ハード・パワーと比べて、変動性が高い。国家のソフト・パワーは「政府の政策によって、強まる場合もあれば、弱まる場合もある」。「国内政策か外交政策が偽善的」であり、他国の意見に対して「傲慢、かつ鈍感」で、「国益に関する偏狭な見方に基づいている場合」、ソフト・パワーは弱まってしまう。ソフト・パワーのもたらす結果は、その敏感さのため、ほんの些細なことで左右される。

 ソフト・パワー論はアントニオ・グラムシの文化的ヘゲモニー論やレイモンド・ウィリアムズの文化研究の系譜に位置づけられる。

 こうした規定を考えると、ハード・パワーがvisible、すなわち認知しやすいのに対し、ソフト・パワーはinvisible、すなわち認知しにくい点があることも否定できない。「魅力」を数量的に測定することが困難であるし、どこにそれを感じるかは分散傾向にあり、また、原因と結果の因果関係が明確ではない。「魅力とは、すみれの花にあるもので、椿の花にはないものだ」(フランシス・マリオン・クロフォード『王の子供たち』)。しかも、「文化」という概念は、テリー・イーグルトンが『文化とは何か(Idea of Culture)』(2000)で検証しているように、曖昧であり、これ自体が漠然としている。実際、ソフト・パワーをめぐる議論の混乱には、文化に関する多様な見方が影響を及ぼしているとナイ教授も認めている。

 この特徴はソフト・パワーの限界の原因にもなっている。「力はすべて状況に依存する」以上、ソフト・パワーも万能ではない。「ソフト・パワーを生み出しやすいのは、文化が大きく違っている状況ではなく、ある程度まで似通っている状況のもとである」。また、ソフト・パワーを行使しようにも、相手国が中央集権的な独裁体制である場合、世論を軽視しやすいので、重要度がしばしば低下する。さらに、ソフト・パワーが、ハード・パワーと違い、政府による管理・統制がではないため、その効果が政府にとって明瞭ではない。

 ナイ教授はハード・パワーの効力も十分に認めている。国家においては、ハード・パワーとソフト・パワーのバランスがとれた「スマート・パワー(Smart Power)」が望ましいと『ソフト・パワー』で結論付けている。

 日本は、先の大戦を踏まえ、最もソフト・パワーを生かさなければならなかったが、それを果たせない。官僚や政治家、御用学者、事大主義的なメディアはその発信力の弱さを棚に上げ、信じがたいことだが、ハード・パワーを強化すれば、国際社会の中で存在感を誇示できると本気で信じている。そうした傾斜はアナクロニズムにすぎないが、困ったことに、彼らは威勢よく振舞い、世論も後押ししている。「他人を非難するとき、実は自分を許そうとしていることがある。自己正当化の必要性が大きいほど、偽善的になる」(エリック・ホッファー『情熱的な精神状態』)。

 今日の国際政治におけるアクターは国家だけではない。ハード・パワーは主に国家が占めており、国家の地位が相対的に低下すれば、それだけソフト・パワーが決定的な意義を持ってくる。国家をめぐる環境の変化という潮流に対し、国家を強化しようとするとき、ハード・パワーに偏ってしまうのが実情である。しかし、世界の相互依存・相互浸透の進展に伴い、地方自治体や企業、NGOも重要な役割を担っている。こうした社会的・時代的な背景の下、かつてないほどにソフト・パワーの有用性が高まっているのであり、それをいかに生かしていくかが現在及び今後の国際政治に求められている。

 ブッシュ政権はハード・パワーによってテロリズムを封じ込めようと試みたが、その強引な手法はイラクで民衆の反発を招き、多くのレジスタンスを生み出している。彼らは強制や報酬のために、アメリカ軍に向けて攻撃を加えているわけではない。ソフト・パワーによって連帯している。巨大なハード・パワーが瑣末なソフト・パワーに苦戦どころか、事実上、敗北しつつある。ソフト・パワーへの政策転換はブッシュ政権の自己克服と同時に、アメリカが世界から真に信頼されることにつながっていく。

 アメリカ人が言葉によって他人の信頼を勝ちとろうとしても,もはや手遅れであり,ましてや贈与は何の役にも立たない.では,われわれにできることは何か。規範を示すこと──自身の生活様式をできるだけ改善することによってのみ、世界の信頼を勝ちとることができる。アメリカ人の主たる問題は世界ではなく、アメリカ人自身である.そして,われわれは自分自身を克服することによってのみ、世界の信頼を勝ちと取ることができる。
(エリック・ホッファー『魂の錬金術』)


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