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『オブローモフ』、あるいは怠惰の文学(3)(2004)

第三章 労働と近代
 夭折の批評家が賞賛したシュトルツは、その姓が示している通り、父がドイツ人である。ドイツ式の教育を受け、エネルギッシュで、行動的な彼は、あらゆる意味で、近代を体現している。

 ゴンチャロフは、この勤勉な若者について次のように記している。

 空想ばかりでなく、すべて謎めいたもの、神秘的なものは、彼の心にすむべき場所がなかった。経験という実践的真理の分析にかけられないものは、彼の目から見て光学上の偽り、視覚機関の網膜に映じた光線と反射にすぎなかった。さもなければ、経験の順番がまだまわらずにいる一事実と見るよりほかなかった。

 シュトルツは、オブローモフに「人生は一瞬のうちにちらりと過ぎ去っていくのに、この男ときたら横になって寝たいだなんて!…人生は絶え間ない燃焼じゃなくちゃいけないんだ!」と言っている。シュトルツには、幼馴染であったとしても、オブローモフの姿勢をまったく理解できない。

 人間としてはいい奴だと思いながらも、こんなにものぐささでは人生が完全に無駄になってしまうとかけがえのない友人を見ている。シュトルツの強固な価値観が揺らぐことはない。その点では、オブローモフ以上に変化しない。シュトルツは、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を追求している。

It's been a hard day's night, and I been working like a dog
It's been a hard day's night, I should be sleeping like a log
But when I get home to you I'll find the things that you do
Will make me feel alright

You know I work all day to get you money to buy you things
And it's worth it just to hear you say you're going to give me everything
So why on earth should I moan, 'cause when I get you alone
You know I feel ok

When I'm home everything seems to be right
When I'm home feeling you holding me tight, tight

Owww!

So why on earth should I moan, 'cause when I get you alone
You know I feel ok

You know I feel alright
You know I feel alright
(The Beatles “A Hard Day's Night”)

 『オブローモフ』には、いくつかの明確な対立点が描かれ、それらが決して止揚されることなく、最終的に、一方が苔に埋もれていくようになっていく。オブローモフがロシア的・受動的・消極的・静的であるとすれば、シュトルツは西欧的・能動的・積極的・動的である。

 ところが、ぼんやり生きているオブローモフの方が魅力的であり、人に紹介するときには魅力たっぷりであるはずのシュトルツは退屈である。実際、シュトルツがそれを無駄死にと見なしていても、オブローモフも満足して死んでゆく。

 さらに、オリガとプシェニーツィン未亡人の間のコントラストもそれを重層的に浮き上がらせている。この設定は、ロシア文学以外では、陰湿な作品になっていただろう。ロシア文学では、通常、「余計者」が登場する作品では、それと対比する性格の女性が描かれる。『エフゲーニー・オネーギン』のヒロインのタチヤーナのように、健気で、決断力のあるしっかりした女性が男性の「余計者」と対照的に表われる。

 「余計者」と並行して存在する独自のヒロイン像も、ロシア文学に特徴の一つである。『オブローモフ』のオリガも、プシェニーツィン未亡人も、こうした女性である。オリガはオブローモフに次のように言っている。「イリヤ、あなたは優しくって…まるで鳩みたい。だから翼の下に頭をかくして、──なんにもほかに望みがないんですわ。あなたは、一生、屋根の下でくっくっと鳴いていたいんでしょう…ところが、あたしはそんな女じゃありません、あたしそれだけじゃ満足できませんわ、まだ何か必要なものがあります、それが何かってことは、──自分でも分かりません! それが何だか、私に教えることがおできになって? その不足なものを名指して、それをあたしに授けることがおできになって? そして、私を…優しい愛情なんて…それだけのものならどこにだってありますわ」。

 若く美しい思慮深きオリガは、ナイス・ガイのシュトルツと結婚する。何一つ不自由しないものの、味気ない思いに囚われ、気が晴れない。逆に、オブローモフに関してはすべてを無批判的に受け入れるプシェニーツィン未亡人はハッピーで、充実して生きている。それは、あたかもロシアの「母」の勝利である。

 ロシアの「母」は、現在でも、チェチェン戦争の際に、息子を戦場に行ってつれて帰るという逞しさを見せている。シュトルツが父性原理で生きているのに対して、オブローモフはそうしたロシアの「母」を選んでいる。オブローモフも、プシェニーツィン未亡人も、世間がどう思っていようとも、その生は言いようもないほどの満足に溢れている。

 シュトルツが理想として疑わない生き方は、マックス・ヴェーバーの唱える本来の資本主義的精神に基づいている。マックス・ヴェーバーは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der “Geist” des Kapitalismus)』(一九二〇)において、カルヴィニズムを始めとするプロテスタンティズム諸派の禁欲的「倫理」が近代ヨーロッパにおける資本主義の発展の精神的推進力となった資本主義の「精神」との間に内面的連関を持っていると主張する。資本主義が「プロテスタンティズムの倫理」の所産であるとか、もしくは「プロテスタンティズムの倫理」がそのまま「資本主義の精神」と同一であるとか言っているわけではない。

 ヴェーバーの資本主義は、自由な賃金労働者の労働に基づく「合理的、経営的な産業組織」、さらにこの組織の普及により、社会の「欲求充足がもっぱら市場関係と収利性を指向しながら遂行される」にまで至る営利経済である。「資本主義の精神」はベンジャミン・フランクリンの「時は貨幣であることを忘れてはいけない、云々」以下、勤勉や労働、質素、正直、信用といった徳目についての有名な道徳訓が示している「精神」あるいは「倫理」である。

 合衆国の国父の一人が説く「信用のできる正直な人という理想」、中でも「自分の資本を増加させることを自己目的と考えることが各人の義務だという思想」は一つの「倫理的態度(エートス)」の表明であり、これが「資本主義の精神」である。

 資本主義成立以前、ウィリアム・シェークスピアのユダヤ人の金貸しを貶める『ベニスの商人』(一八九七?) が示している通り、利潤追求は、必ずしも、キリスト教倫理に沿うものではなかったが、近代に至って、そういった伝統は克服され、経済的営為が倫理に反しないと転換する。

 その際に寄与したのが、ヴェーバーによると、宗教改革以後の「プロテスタンティズムの倫理」である。これは欲望を追求する資本主義と禁欲的なプロテスタンティズムは同一だという意見ではない。プロテスタンティズムは「資本主義の精神」の誕生時に、産婆役として「その揺籃を見守」り、倫理的態度の注入に貢献したのである。ただし、発展していく「資本主義の精神」の中にはプロテスタンティズムの信仰は「亡霊」としてしか残っていない。

 プロテスタントには、カトリックにはない「職業召命観」という倫理的観念があり、これが資本主義誕生の産婆役になれた理由である。ただ、一四世紀初頭から書かれ始めたとされるダンテ・アリギエリが『神曲』における煉獄下方第四冠として怠惰者を描いているけれども、プロテスタントの多くは、大罪と小罪を区別するカトリックと違い、その煉獄の存在を認めていない。マルティン・ルターにも見られるが、ジュネーブのジャン・カルヴァンが「恩寵による撰びの教説」を導入して、より完成させ、決定的な教説に仕立て上げている。

 人間の救済は神の絶対的に自由な決定により定められ、自分が恩寵によって聖別されていることを現世での労働と隣人愛の日々の実践を通じて証明しなければならない。神は判定を明かさない。それを知りたいなら、労働をその基準に据えるべきだ。失業は、このため、倫理的な罪となる。かつて修道院にあった「祈り、かつ働け」という禁欲的生活態度は、そのまま「世俗内」に移され、「世俗内的禁欲」として「職業労働」が聖化される。

 そんな教義を信仰するカルヴァン派の教会は、クリスティ・デイビス=安部剛の『エスニックジョーク』によると、次のようなジョークを生み出している。

 アイオワ州にあるデイフォームド教会の牧師が、礼拝式の終わりに、自らの帽子を会衆の間に回して献金を募ったが、帽子が牧師の元に返ってきたとき、中には何も入っていなかった。牧師は天を仰ぎ、こう言った。「主よ、感謝します。私の帽子がちゃんと私の元に返ってきたことを」。

 こうした厳格な禁欲的職業労働の倫理を説くカルヴィニズムが伝道され、根をおろしていったのは、地主とか富裕な大商人階層ではなく、中産階級である。豊かではないとしても、生産手段を所有する独立小生産者、すなわち農村の自作農や都市の独立職人によって代表される中産階級である。資本主義は中産階級のための経済として確立する。カルヴィニズムは、こうした人々の生活倫理として深く浸透してゆく。

 中産階級におけるこの職業労働の組織化・合理化に集約される「エートス」には、当時の大商人階層の無倫理的な、「賤民(パーリア)」資本主義的な「貨幣と財との追求」に対する嫌悪の念がはっきりと認められる。「中でも、カルヴァンは、ルター以上に西欧キリスト教社会の中に宗教的熱狂を持ち込んだ人物だった。彼は、一六世紀のジュネーブを拠点にし、初期資本主義特有の中産階級の不安と期待に根ざす形で、教えを説いた改革者であった。と同時に、自らの政敵を粛清しながら、ジュネーブ市政をそれこそ禁欲的プロテスタンティズム一色に染め上げた宗教政治家としてでもあった。それは、絶えざる戦いの連続だった。とりわけ、カルヴァンに猛然と噛みついた自由主義者たちとの抗争は至烈を極めた。無理もない。カルヴァンの専制支配ほど、過酷なものはなかったのだから。(略)まさに、これ以上ない全体支配である。しかも、たんなる政治的全体支配でなく、精神的全体支配でもある。外面・内面への全体支配──ここジュネーブでは、おおよそ、考えられる限り最も過酷な支配体制が貫かれていた。たとえて言えば、この苛烈さは社会主義治下の全体支配にも比せられる。ジュネーブから送り出される活動家が、コミンテルンの活動家同様に、理想と熱狂のただ中でヨーロッパ各地に派遣され、その政治的動向に多大な影響を与えていった点でも類似している。したがって、宗教改革(プロテスタント革命)とは、それまでの教会支配をさらに過酷な宗教支配に置き換えただけのことであった。とりわけカルヴィニズムの場合はそうである。なぜなら、それ以前の教会支配が神と人間の執り成しを許容した体制であったのに対し、禁欲的プロテスタンティズムとは神からの直接支配を何らかの執り成しも期待せずに受容することであったからだ。これが、『神から串刺しにされた者』と言われるプロテスタントの姿であった」(小滝透『キリスト教』)。

 禁欲的・組織的に職業労働に従事すれば、富が蓄積されるが、原理上、これを享受することは許されない。職業義務の遂行は神の命令であるから、「正直な労働から得られた利得は神の賜物である」と正当化され、利潤獲得の機会は神の摂理であると意味づけられる。「プロテスタンティズムの世俗内禁欲は、無頓着な所有の享楽に全力をあげて反対し、消費、ことに奢侈的な消費を圧殺した。その反面、この禁欲は、心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放ち、利潤の追求を合法化するのみでなく、これを直接神の意志にそうものと考えることによって、その桎梏を破砕してしまった。……肉の欲、外物への執着との闘争は決して合理的営利との闘争ではなく、所有の非合理的使用に対する闘争なのであった」。 このような消費の圧殺と営利の解放は「禁欲的節約強制による資本形成」に行き着く。「一九〇七年のパニックの時には、J・P・モルガンはさらに率直な手段に訴えました。ニューよ-ク・シティのプロテスタントの牧師たちを集めて、次の日曜日には民衆にお金は銀行に預けたままにしておくよう説教してくれと求めたのです。いまや信仰を確認すべき時であり、そこには銀行精度に対する信仰も含まれていたのです」(ジョン・K・ガルブレイス『不確実性の時代』)。

 けれども、「富が増すとともに高慢、激情、そしてあらゆる形での現世への愛着も増してゆく」。当初、禁欲的プロテスタンティズムと未分離のまま結びついていた「資本主義の精神」は、次第にその宗教的外套を脱ぎ捨てる。神の死と共に、職業倫理から信仰の根拠が失われ、神の姿が稀薄となり、富そのものが前面に出てくる。

 職業倫理は形骸化し、その形骸が啓蒙主義的人間中心主義と直結して、そこにフランクリンやアダム・スミスの描く「経済人」の理念、すなわち倫理と経済の調和の原理が普及する。「資本主義の精神」は禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理からその宗教的基礎づけが消失している。「近代資本主義の精神の、いやそれのみならず近代文化の本質的構成要素の一つたる職業観念の上に立った合理的生活態度は……キリスト教的禁欲の精神から生まれ出たものだ」。

 この認識を踏まえて、ウェーバーは現在および将来への展望を次のように書いている。

─〔かつて〕ピューリタンは職業人たらんと欲した。〔しかし、今日〕われわれは職業人たらざるをえない。なぜというに、禁欲は僧房から職業生活のただ中に移され、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは機械的生産の技術的・経済的条件に縛りつけられている近代的経済組織の、あの強力な世界秩序(コスモス)を作り上げるのに力を添えることになったからである。この世界秩序たるや、圧倒的な力をもって、現在その歯車装置の中に入り込んでくる一切の諸個人─直接に経済的営利にたずさわる人びとのみでなく─の生活を決定しており、将来もおそらく、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで、それを決定するであろう。

 さらに、ウェーバーは、「鋼鉄のように堅い外枠」と化した資本主義を貫通する「合理化」、すなわち専門化・組織化・機械化は、近代の「宿命」であると次のように述べている。

 将来この外枠の中に住む者が誰であるのか、そしてこの巨大な発展が終るときにはまったく新しい予言者たちがあらわれるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活がおこるのか、それとも—そのいずれでもないなら—一種の異常な尊大さでもって粉飾された機械的化石化がおこるのか、それは誰にも分からない。それはそれとして、こうした文化発展の“最後の人びと”にとっては次の言葉が真理となるであろう。“精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、かつて達せられたことのない人間性の段階にまですでに登りつめた、と自惚れるのだ”と。

 ヴェーバーの主張が真実であるかどうかは別として、シュトルツがそれに邁進していることは確かである。フリードリヒ・ニーチェは『悲劇の誕生』(一八七二)において、キリスト教道徳の受動性を明らかにしたが、少なくとも、資本主義はその価値観を転倒している。そこでは積極性が肯定される。


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