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武者小路実篤、あるいはAnarchy in JP(2)(2004)

第2章 新しき村
 武者小路は、一九一八年一一月、宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城に「新しき村」を建設し、彼の妻を含めた一五人と共に移住する。一年目に定住したのは、三八歳の文学者の他大人一七名、子供二名である。

 武者小路は、開村に先だち、七月、機関誌『新しき村』を発行し、その創刊号に掲載した『新しき村の小問答』において、新しき村について次のように述べている。

A。 君は新しき村を建てたがつてゐるさうだね。僕の弟も仲間に入りたがつてゐる。一体新しき村と云(い)ふのはどんな村なのだい。
B。 新しき村と云ふのは、一言で云へば皆が協力して共産的に生活し、そして各自の天職を全うしようと云ふのだ。皆がつまり兄弟のやうになつてお互に助けあつて、自己を完成するやうにつとめようと云ふのだ。
A。 それなら田舎に引込む必要はないだらう。都会の方が我々の天職を発揮するに都合のいいこともあるだらう。
B。 それはないとは云はない。しかし僕達は現社会の渦中から飛び出して、現社会の不合理な歪なりに出来上つた秩序からぬけ出て、新らしい合理的な秩序のもとに生活をしなほして見たいと云ふ気もするのだ。つまり自分達は今の資本家にもなりたくなく、今の労働者にもなりたくなく、今の社会の食客的生活もしたくない。さう云ふ生活よりももつと人間らしい生活と信じる生活を出来るだけやりたいと思ふのだ。
A。 人間らしい生活とはどう云ふ生活だ。
B。 人間らしい生活と云ふのは、人類の一員としてこの世に生活してゆくのに必要なだけの労働を先づ果して、そして其他の時間で自分勝手の仕事をしようと云ふのだ。
A。 しかし今の世では人類の一員としてしなければならない労働をしない人や、人類の一員としてはしないでいいやうな労働許(ばか)りしてゐる人がある。だから君達許り、二三十人の人が人類の一員としてしなければならない労働をよし見出したにしろ、それだけの労働では食つてはいけまい。
B。 それはさうだ。自分達は小人数だ。現世の経済状態の影響をまるで受けないと云ふことは出来ない。又ともかく現世といろいろの点でつながりを断ち切ることは出来ない。現世には秩序は歪ではあつても、各自の生活も歪であつても、ともかく何千年の間の人の精神がつみかさなつてなしあげたいろいろの貴いものがある。自分達はそれはとり込めるだけとり込むつもりである。その他の点でも現世の経済の支配をある点迄(まで)はうける。そして人類の一員として義務を果すだけでは得たいと思ふものを得られない時、それ以上の労働も、それ以上の仕事も皆と一緒にやるであらう。しかし根本の精神だけは忘れないつもりだ。
A。 それから田舎に引こむのは、都会よりも楽に人間らしい生活が出来るからと云ふのだね。
B。 さうだ。つまり出来るだけ人間らしい関係のもとに自分達は生きられるだけ生きようと云ふので田舎に入るのだ。なるべく現世の人間同志の関係からはなれたくもあるのだ、自分達にとつては仲間の得することが自分の得することになるのだ。仲間の損は自分の損、仲間の喜びは自分の喜び、仲間の悲しみは自分の悲しみ、さう云ふ社会をつくらうと云ふのだ。現世は他人の損は自己の得を意味し、外国の損は自国の得と心得るやうに出来てゐる。自分達はそれはまちがひだと云ふことも、自分達の生活で示したく思つてゐる。さうして同志のふえることは我等の喜びであり、富を少数で占領しあとは貧民でないと社会はたもたないと云ふ考もついでに事実によつてぶちこはしたく思つてゐるのだ。
A。 話しがうますぎるね。
B。 しかしそれが本当だ。人間は利己心の動物だから僕達のやる生活はむづかしいと云つてよこした人があるが、利己心だつて元来の性質は自分を幸福に生かしたいと云ふのだ。他人に嫌はれたいとか、憎まれたいとか、さげすまれたい為にあるものではない。賢者は利己心を浄化することを知つてゐ、普通の人は社会の健全な精神によつてぼろを出さずにすませ、愚か者は制裁を恐れて利己心を引こめる。現世の利己心は他人を損させることによつて満足が出来るが、新しい村では他人を得させることによつてのみ満足される。自分は新しき村の為と云ふ精神が高潮されてゆけば利己心は恐れずにすむと思つてゐる。他人に迷惑を与へることは平気でも自分が迷惑を受けることはさけようとするにちがひない、新しき村は始めは一種の宗教団体のやうなものだ。自己の村にあまりに不適当な人間は破門位ゐはし兼ねないつもりだ。新しき村から破門されることは名誉なことではない。利己心のある愚かものも破門されることの損なことは知るであらう。その位の権威が新しき村に出来なければ、新しき村をたてる必要はない。
A。 君達は社会改良家か。
B。 僕は改良家と云ふ言葉は嫌ひだ。
A。 それならば、革命家か。
B。 いや、革命家と云ふ名も嫌ひだ。僕はむしろ思想家とか宗教家とか云はれる方が嬉しい。
A。 革命家と云はれるのがこはいのか。
B。 いやさうぢやない。さう思ひたいものは思はしておいてもいいが、僕は破壊者のやうに思はれるのは嫌ひだ。僕は建設者だ。新しき芽だ。自分達は新しき家をただ建てる。建てられるだけ方々に建てる。そして其処(そこ)に入りたく思ふものだけを歓迎する。旧い家よりも、もつと人間らしく生きられる新しき家をたてるのが自分達の仕事だ。しかしそれは自分達が其処で生活したいからでもある。他人に新しい家をつくれつくれと云つて自分は旧い家に入つてゐるのがいやだからばかりではない。自分達が入りたいからさう云ふ家をつくれるだけつくる。自分達だけでもさう云ふ生活に一歩入つたことは有意味で、自分達にはありがたいことだ。しかし同志がだんだんふえて、自ら責任をもつて進んで入つてくれればなほよろこびだ。自分達のたてる新しき家は、見すぼらしく貧弱であらう。しかし其処には人間の心が住みいい何ものかがある。それを信じてゐる。自分達は最期の勝利に一歩々々近づく希望を失なはないで見せる。
A。 それならつまり君は自分達が、人間らしい生活をすることによつて、人間らしい生活をしたがつてゐる同志を自づと集めようと云ふのだね。
B。 自分達は同志をあつめたいからさう云ふ生活をするのだと云ひ切られるのはいやだ。自分達は信ずる方に流れる小川だ。水が一滴でも流れこむことを望むが、またその為にも働くが、他の水を流れこます為に自分が流れてゐると云ひ切れないのと同じだ、両方二にして一だ。川は海に入れるか入れないかは同志がふえてくれるかくれないかできまるであらう、すべての宗教と同じやうに。しかしそれは自分が流れるべき方に一心に流れることによつて自づと得られるのだ。海に入るのが目的かも知れないが、流れる方に心をあはせて勇気を失なはず流れてゆけば、自づと同志の人はあつまることを自分達は信じてゐる。もし自分達の生活さへ人類の思召に叶(かな)へば。
A。 人類の思召に叶ふ生活をするのがつまり君達の理想なのだね。
B。 さうだ。それが僕達の理想だ。どうかして自分達は平和に幸福にお互に助けあつて生きてゆきたい。見かけはどんなに粗末でも人類の愛児になりたい。さうなれるやうにつとめてゆけば必ずものになる。
A。 それなら僕の弟も仲間に入れてくれるね。
B。 よろこんで入れる。君の弟さんのやうな真面目な、実直な、頭のいい、そして正しい生活に心からの憧がれをもつてゐる若々しい心の持ちぬしが入つてくれるのは随分よろこびだ。決して君が弟さんを入れたことを後悔しないでいいやうにして見せるつもりだ。弟さんによろしく。
A。 弟はさぞよろこぶだらう。
B。 僕達も嬉しい。人類に感謝したい。

 このコミューンはレフ・ニコライヴィチ・トルストイのアナーキズムから影響を受けている。ただ、武者小路自身は理神論者と言ったほうがよい。「個人の死ぬことは自然は知っているのだ。ただ生きられるだけ生かして、その人の真価を出来るだけ地上に吐き出させたがっているのだ。この地上でなすべきことを出来るだけさせたがっているのだ」(『人生論』)。

 この理神論は人間の可能性を導き出す。一九二二年に発表した戯曲『人間万歳』では、神と天使たちの対話を通じて、神の偉大さと人間も神になれる希望を描いている。こうした力を備えた人間であるから、武者小路は「この門の内に入る者は自己と他人の生命を尊敬しなければならない」として、「自他共生」を説く。内発的な欲求に忠実にして、互いに自己を生かしていくことを目指し、農業労働を中心とする村の生活を始める。

 武者小路の共生の理想はユニークな議決が端的に示している。新しき村において、利益を利用することは、全員が参加する会議によって決められる。新しき村では「仕事の会」と「諸問題の会」があり、その中でお互いの意見が交換される。しかし、命令系統はない。

 武者小路は、『新しき村に就いての対話』第二の中で、「そして議論がまとまらない時、七割が可決した場合は金の七割だけその仕事につかうことができる。一人の反対でも、無結果には終わらないことにする。それは次の事業にまでのばす」として、個人は多数決によって、「圧倒される必要はない。自分の納得できないことに手を出さないでいい。多数決に少数が服従する必要はない、尤もと思ったことだけする。尤もと思ったものだけがする」と言っている。”I don't need a Rolls Royce, I don't need a house in the country, I don't want to have to live in France. I don't have any rock and roll heroes; they're all useless. The Stones and The Who don't mean anything anymore; they're established. The Stones are more of a business than a band”(Johnny Rotten).

結果をあせると
面白くない根性が首をだしたがる。
金があったらと、
金なんかなくっても
俺達の仕事は出来なければ恥だ。
その点、英国の新しい町より、
我等が深き根の上に立っている。
(武者小路『自分は結果を』)

 こうした認識は『白樺』の創刊時にすでに見られる。一九一〇年四月、武者小路が中心となって同人誌『白樺』を創刊する。霧になると、自分の周りに雨を降らす白樺の名を冠した雑誌だったが、巷では逆にして「ばからし」と陰口を叩かれている。彼ら白樺派は、漱石庵に集う門下生と違い、師匠に教えを請う弟子ではない。また、プロレタリア文学のような文学運動でもない。『白樺』は創刊の辞として「白樺は自分たちの小さなる力でつくった小さなる畑である。自分たちはここに互いの許せる範囲で自分勝手なものを植えたいと思っている」と掲げている。

 この編集方針には武者小路の考えが反映している。武者小路は、『個人主義の道徳』において、「自分には領土がある、その領土を他人に蹂躙されたくない。そのかわり、他人の領土を自分が蹂躙しようとは思わない。自分の領土というのは自我の支配する範囲である。自分の所持品、自分の身体、自分の意思、自分の気分、自分の一生等である。(略)要するに自分は個人主義者である。自分の自我を尊重するように、他人の自我を尊重する、他人のために不快な思いをしたくないように、他人を自分のために不快にさしたくない」と言っている。この個人主義は国家主権と内政不干渉に立脚するウェストファリア体制のヴァリエーションである。”I'm not here for your. You're here for mine”(Johnny Rotten).一六四八年に締結されたこの条約は最初の国際条約であり、近代的な国家概念はここから派生している。武者小路は近代的な個人による対等な関係を『白樺』に具現させようとする。

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