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ハロー、レーニン!(1)(2007)

ハロー、レーニン!
Saven Satow
Mar. 28, 2007

「私は、いかにも身ぎれいで、どこから見ても事務員のようなレーニンの指導力の源泉はどこになったのかと聞きました。彼はこう答えました。『レーニンが号令したので、われわれは前進したのです』」。
ジョン・K・ガルブレイス『不確実性の時代』

1 なにをなすべきか?
 同志諸君!なにをなすべきか?なにをなすべきなのか?いったい、なされるべきことはなにか?

 同志レーニン(Тварищ Ленин: Comrade Lenin)は、「なにをなすべきか」と党の責務を問うている。しかし、われわれは、今こそ、それを受けとめなければならない。

 今年はロシア革命から九〇周年である。そのこともあるのだろう。今、西側の敵としてではなく、自由の収奪者としてではなく、階級独裁を一党独裁、派閥独裁、個人独裁へと堕落させた張本人としてではなく、同志レーニンは世界的に論じられている。

 一九〇二年に公表した『なにをなすべきか?─われわれの運動の焦眉の諸問題』において、同志レーニンは党と労働者階級の関係ならびに党の組織構成を中心に論じている。それは、後に「レーニン主義」と呼ばれる独自の思想の核心である。もちろん、われわれは何回も、何十回も、何百回も読んできている。

 このタイトルは、彼の愛読書、すなわちニコライ・ガヴリーロヴィチ・チェルヌイシェフスキーの小説『何をなすべきか』(一八六三)を踏まえている。チェルヌイシェフスキーはナロードニキ運動の創始者である。彼は革命家には厳しい自己陶冶が必要であると説き、協同社会の建設や女性解放を取り上げ、当時、急進的な知識人や学生に強い刺激を与える。ウラジーミル・イリイチ・ウリャーノフもその一人である。

 同志レーニンはナロードニキ運動の革命戦術を継承し、自然発生的な労働運動に立脚した党、いわゆる下からの組織を「ブルジョア的」なものにとどまると厳しく批判している。党組織を労働者組織と同一視するのは過ちである。党は外部に開かれた労働者の組織ではない。革命事業に献身的に奉仕し、中央集権的な規律に従う「職業革命家」の組織でなければならない。

 革命は極めて困難な事業であり、専門的な知識や技術、経験が要る。戦うには戦い方を知らねばならない。革命特有のリテラシーを学ばないと、質的に言って、使いものにならない。党は馴れ合いの談合組織でも、仲よしクラブでもない。志願すれば、誰もが入れるわけではない。任務遂行のための特殊部隊である。グリーン・ベレーであり、デルタであり、シールズであり、レンジャーである。「最も確かな、経験に富み、鍛練された労働者たちからなる緊密に結束した小さい中核があって、主要な諸地区に委任代表をもち、最も厳格な秘密活動のあらゆる規則にしたがって革命家の組織と結びついているなら、これは民衆の最も広範な協力を受けて、どんなきまった形もなしに、職業的組織に課せられるいっさいの機能を果たし、その上まさに社会民主主義者にとって望ましいやり方で果たすことができるであろう」。

 労働者階級の解放は労働者自身による事業ではありえない。労働者は、往々にして、目先のことばかり見ている。怒りは瞬間的な破壊力にはなっても、持続せず、倒したはずの既得権者がその隙を突いて復活してしまう。その発端は自然発生的であっても、実のある革命を成功させるには、働く仲間を組織化し、育てていかなければならない。

 プロフェッショナルな革命家集団である党からの「指導」があってこそ(この「指導」は、英語で言うと、”direct”である)、革命は実現する。真の利益を手にするため、場合によっては、キャリア革命家は労働者階級の要求に服従しない賢明な態度も必要である。階級意識は自然発生的に成長するものではない。目的意識によって成熟するものだ。今以上に成長していこうという向上心のない労働者は階級意識を持ち得ない。

 こうしたプロレタリアートの党は階級組織として最高形態であり、プロレタリアート独裁もこの前衛党を通じて完全に達成される。「われわれは、労働者が社会民主主義的意識を持ちえなかったと言った。この意識はただ外部から持ち込まれることができたのである。すべての国の歴史は、労働者は彼ら自身の力だけでは、単に労働組合意識、つまり資本家と闘争し、政府からあれやこれやの労働者に有利な法規を要求する等々のために組合に団結する必要を確信するだけにすぎぬということを示している」。

 一八九八年三月、ミンスクで開催された労働者階級解放闘争同盟全ロシア大会において、ゲオルギー・ヴァレンチノヴィチ・プレハーノフ、そう同志プレハーノフなどと同志レーニンはロシア社会民主労働党の基礎をつくる。ところが、一九〇三年、第二回党大会の際に、党員の資格をめぐって対立し、非妥協的なボリシェヴィキと妥協的な(穏健なとブルジョア的歴史書には書かれるだろうが)メンシェヴィキに分裂する。同志レーニンの率いるボリシェヴィキは、もちろん、彼の党組織論を採用している。

 昨今、このいわゆる外部注入論の評判は一般的に芳しくない。ブルジョアの手先だけでなく(これはいつものことであるけれども)、マルクス主義者を自称する者たちも(あくまでも自称にすぎないが)、労働者階級の階級意識を見下し、独善的かつ排他的、独裁的であると糾弾している。恐怖の監視社会の元凶であるとか、(正)教会制度の亜流ではないのかなど切り捨てられ、省みられることも少ない。

 同志レーニンの目の前にはロシアの社会民主主義者がいる。彼らは経済主義の立場をとっている。その信念によると(その信心深さには神父も涙を流さずにいられないだろう)、自然発生的に労働運動が盛り上がり、その経済闘争が政治闘争へと発展し、革命を向かえるということだ。党の果たすべき役割は、その過程において、下からの労働者運動の「援助」である。革命への闘争の後方支援をするというのが彼らの考えである。

 同志諸君、何しろ、経済主義者が思い描く社会民主主義者像は「労働組合の書記」である。労働者の日常的・経済的要求をとりまとめ、それを資本家に示し、不当な工場制度や労働者への待遇を社会に暴露し、労働者の経済闘争を助けるのが自身の任務ということらしい。彼らは革命的な美辞麗句を並べ立てたり、お役所風の手続きを言い訳にしたりする。つり、ブルジョアの慈悲深さは期待できるとでも言いたいのだろう。ずいぶんとお人よしなものだ。

 しかし、同志レーニンはそう考えてなどいない。真の社会民主主義者(後の共産主義者と同じ意味である)とは「護民官」であると強調している。「護民官(Tribunus Plebis)」は、古代ローマにおいて、平民会で選ばれ、元老院や貴族の専横から平民を守る役割を果たすための役職である。簡単に言い換えると、社会民主主義者は革命の大儀のために、断固として敵と戦いぬく。労働者階級の助手やヘルパーなどではない。

 だからと言って、同志レーニンは人民の意志派のようなテロリズムにも与しない。なぜなら(これは同志レーニンの好む文語的な接続詞であり、口語的表現によってその文章が閉じられる傾向がある)、テロリズムは経済主義と同じ前提に基づいているからだ。「経済主義者とテロリストとは自然発生的潮流の相異なる対極の前に拝脆するのである。すなわち、経済主義者は、『純労働運動』の自然発生性のまえに拝放するし、テロリストは、革命的活動を労働運動に結びつけて渾然一体化する能力を持たないか、または可能性をもたないインテリたちの最も熱烈な憤激の自然発生性の前に拝脆するのである」。「一方は人為的な『興奮剤』を探して飛び出し、他方は『具体的な要求』を論じたてるのだ。両方とも政治的煽動をおこない、政治的暴露を組織する仕事における自分自身の積極性を発展させることには、十分の注意を払っていない。だが、この仕事は、今日でも、またほかのどういうときでも、他の何ものかによって代用させることはできないのである」。

 結局、同志レーニンの認識の方が正しかったことは第二インターナショナルの瓦解が示している。カール・マルクスの時代と比べて、西欧諸国の労働者階級が革命に熱心ではなくなっている。労働者は牙を抜かれ、ブルジョアジーに対して戦闘的ではない。同志レーニンはマルクス主義者である。われわれはそれをよく、十分に、大いに知っている。彼は本を丸暗記したり、それを神聖なお題目として唱えるような人物を毛嫌いしている。マルクスの著作をただ読んでいたわけではない。歴史的・社会的変化と照らし合わせ、その思想を吟味し、意味を読みとる。植民地はマルクスが考えていた市場から投資及び開発の対象へと変容し、これによって欧米の資本主義はより強大になっている。つまり、資本主義は新たな段階に入り、「帝国主義」を迎えたのである。同志レーニンは、こうした時代の変化を考慮して、マルクスの思想の意味づけを行っている。


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