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捕物帳と政談(5)(2023)

5 町奉行
 町奉行は、江戸時代、町方、すなわち領内の都市部の行政・司法を担当する役職である。なお、幕府や諸藩は領内に町奉行を置いていたが、修飾語を伴わずたんに「町奉行」と言う場合、それは幕府の江戸の町奉行を指す。幕府は江戸に奉行所を複数設置、各々に町奉行を任命している。

 1604年(慶長9年)、幕府は八代洲《やよす》河岸内と呉服橋御門内に奉行所を設ける。両所の位置関係により前者を北町奉行所、後者を南町奉行所と呼称する。南町や北町という区分はあくまで所在地で、管轄区域を指すものではない。1702年(元禄15年)に奉行を1名増員、中町奉行所を置く。1707年(宝永4年)、北町奉行所を数寄屋橋御門内に移転、南町奉行所と改称したことに伴い、他の奉行所も位置により名称を変える。幕府は、1717年(享保2年)、北町奉行所を常盤橋御門内に移転、1719年(享保4年)、中町奉行所を廃止する。1806年(文化3年)、北町奉行所を呉服橋御門内に移し、以降、2奉行所はその所在地で幕末を迎えている。

 この複数の奉行所が月番で江戸の全市政を担当する。交代の際には奉行所間で月に三日の定例会議を通じて引継ぎが行われ、すべての案件は共有され継続して取り扱われる。非番の奉行所はくぐり戸だけを開け、緊急時のみ対応する。奉行所は庁舎と住宅を兼ねており、奉行が家族と共にそこに住んでいる。

 町奉行の職務は極めて広範囲にわたる。現代的に言うと、国務大臣兼東京都知事兼都財務局局長兼警視総監兼最高裁長官兼東京国税局局長兼東京消防庁総監である。奉行は旗本から任命されるが、激務であるため、この職を最後に公務から退くこともしばしばである。なお、旗本は、将軍家直轄の家臣の内、将軍に直接拝謁する御目見が許される1万石未満の武士を指す。1万石以上は大名である。

 各奉行の下には与力25騎が置かれている。与力はもともと騎兵であったため、「騎」を助数詞として用いる。その下の同心が各奉行所120名である。ただし、幕末に18名増員されている。とは言うものの、幕末期の奉行所の人員は2名の奉行を合わせても328人である。この人数で先に挙げた業務を担っていたことになる。

 正規の公務員の人数はこれだけだが、同心が私費で手先や目明し、岡っ引きを雇っている。彼らの一部にはわずかながら奉行所から給金が出ることもある。けれども、むしろ、身分を隠して町の情報収集を担わせるため、彼らに同心が職を斡旋している。人が集まる社交の場で、情報を入手しやすい銭湯の主人がそうした例である。

 捕物帳の主役としてしばしば手先が登場するが、実際には彼らは十手など持っていない。十手は幕府から仕官にのみ支給されるものである。数もわずかで、捕物の際に使用することはない。

 裁きを始めるにあたり、奉行所は差し紙と呼ばれる召喚状で関係者を裁判に出頭させる。それには容疑者や証人のみならず、その人物が居住する長屋の家主や五人組も含まれる。五人組は長屋の近所の五人の家主を指す。腰掛という待合室があり、裁きが始まる前に関係者はお白州と呼ばれる公庭に屋君によって連れ出される。お白州では、関係者は玉砂利の上で正座しなければならない。彼らのために奉行所が蓆を敷くことなどない。

 奉行が奥から登場して裁きが始まるように時代劇では描かれがちだが、実際にはそうではない。奉行自身が担当することは少数で、吟味与力がたいていは判断を下す。重大事件等で担当する場合も、吟味与力が予審を行い、奉行がそれを内聞きどころにいて陰で聞いている。その上で登場し、最終的な判断を下す。

 言うまでもなく、裁判に関する認識は文化によって異なる。キリスト教では、全知全能の神と違うのだから、人間が裁く裁判は最後の審判の真理を求めるのではなく、有罪か無罪かを争う場である。他方、儒教はこの世界の外に超越者を想定しないので、中国の裁判は真理を明らかにする機会である。いずれであっても、判例や学説を参考にしつつも、祐徳者である裁きの担当者に解釈の裁量権が認められている。

 近世は徳地主義の時代で、町奉行による解釈が立法行為になる。庶民が関心を寄せるのはそれが道徳に適っているかどうかである。彼らが求めているのは道徳の勝利だ。頓智頓才によって道徳的判断を下す舞踊を民衆は「名奉行」と呼ぶ。


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