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スマホと新型コロナウイルス(2020)

スマホと新型コロナウイルス
Saven Satow
May, 23, 2020

「コレラ船いつまで沖に繋り居る」
高浜虚子

 英吾の「検疫(Quarantine)」の語源はイタリア語ヴェネツィア方言の「40日間(quaranta giorni)」である。1347年の大流行以来、共和国の当局はペストが東方から船で伝わってくると経験的に推測している。彼らは船内に病人がいないことを確認するため、船を港外に40日間停泊させる法律を制定する。「検疫(Quarantine)」はこの歴史に由来している。なお、現在ではペストの潜伏期間は1~7日間とされている。

 ペストの感戦対策から検疫制度が生まれ、その後、世界的に定着していく。明治時代にコレラが流行した際、当局は検疫のために海外からやってきた船を港に停泊させる。この光景から「コレラ船」が俳句の夏の季語になっている。こうした制度は、ダイヤモンドプリンセス号が示す通り、今日でも続けられている。

 ところで、今回の新型コロナウイルスのパンデミックにおいて新たに登場した拡大防止策がある。その一つとしてスマートフォンの利活用を挙げることができよう。

 新型コロナウイルス(COVID-19)には、いくつかの特徴がある。発症者の多くは軽症・無症状で、その疾病の自覚がないまま行動し、感染を広げる可能性がある。また、無症状者からも感染が起こり得る。しかも、重症化した場合、治療薬がないため、人工呼吸器を長時間使用したり、死に至ったりする危険性が高い。感染者数が増加すれば、重症者のそれも確率論的に比例する。概して感染症対策には移動制限が効果的であるが、SARSと違い、重症患者を隔離すれば十分というわけではない。

 こうした特徴の疾病の感染拡大を抑制するために、政府は規制や要請による外出制限を実施、「ソーシャル・ディスタンス(社会的距離)」の保持、や「三密(密閉・密集・密接)」の回避などを人々に求めている。感染ルートの解明や対策の効果の検証・公開などを目的としてスマートフォンの位置情報やBluetoothが利用されている。こういった携帯端末の活用はこれまでのパンデミックと異なる事情である。移動や集会の自由の制限自体はスペインかぜ以来のオーソドックスなパンデミック対応だが、デジタル技術による捕捉は初めてだ。

 位置情報はマクロなレベルから移動による人の密度を調べる際に利用される。一方、Bluetoothはミクロレベルである個人の感染追跡もしくは曝露通知の解析のために必要だ。いずれもプライバシー侵害や目的外の利用の危険性があり、その防止が求められる。近代においては移動や集会の自由が認められている。特定目的のために同意したとしても、監視されなければ、それを政府や企業が自己利益の利用に転用しかねない。警戒するのは当然である。

 マクロレベルの利用から始めよう。人が集まれば、社会的距離を取るのが難しくなり、感染リスクが高まる。人が集まると思われる場所をいくつか選定、外出制限が実施される以前の状態を基準にし、以後の状況を比較する。外出制限策の実施状況をこれによって把握することができる。

 代表がGoogleの「COVID-19コミュニティモビリティレポート(Google COVID-19 Community Mobility Reports)」である。同社は、従来より、Google マップで匿名化して集約したデータを用い、特定の種類の場所や店舗の混雑状況や交通状況を表示している。Googleは、新型コロナウイルス感染症対策を担う専門家が様々な判断を下す参考としてこうした匿名化し集約したデータを公表するとしている。外出制限以前を基準に、世界の諸都市における娯楽関連施設や公共交通機関、食料品店・ドラッグストア、職場、公園、住宅のモビリティ状況を解析する。

 次にミクロレベルである。新型コロナウイルスは軽症ないし無症状の自覚なき感染者と濃厚接触しても感染する可能性がある。感染のルートを明らかにしたり、そうした状況にあった人に通知して検査を促したりするために、近距離無線通信のBluetoothの技術が利用される。これにはスマホへの特定アプリのインストールが不可欠である。

 そのアプリを入れたスマホのユーザー同士が濃厚接触距離以内ですれ違うと、Bluetoothを通じてIDが相互交換され、履歴として一定期間記録される。あるユーザーに感染が判明すると、履歴から発見した濃厚接触者にこの事実を通知、検査を促す。接触者が検査を受けることで、さらなる感染を抑制できる可能性がある。

 ただ、これが効果的に機能するためには、できる限り多くのスマホユーザーにアプリをインストールしてもらうことが不可欠だ。濃厚接触をしても、その人がスマホにアプリを入れていなければ、履歴に残らない。可能性のある人が見逃され、さらなる感染につながりかねない。

 アプリのインストールにはそれに関連する政府や企業への信頼が必須である。個人情報が目的外に利用されないか、もしくは漏洩しないかなどの不信があっては、いかに新型コロナウイルスが怖くても、利用を見送る。

 この技術の開発には政府主導と民間主導がある。また、個人データの保存も中央のサーバで管理する集中型と個々の端末にのみ残す分散型がある。いずれにも長所と短所があり、技術上はどの方法でもプライバシーを守ることはできる。

 しかし、ユーザーからの信頼性には違いがある。シンガポール政府が主導して開発・リリースしたTraceTogetherは国民間に普及していない。スマホユーザーの8割が必要とされているのに、2割しか浸透していない。電力消費量が大きいのみならず、同政府は自由民主主義的と言うよりも、権威主義的で、国民はプライバシー保護を信用していない。また、EUにおいても市民は分散型を集中型よりも望んでいる。集中型の場合、政府がシステムの拡張により目的外利用を目論むと疑念が市民にあるからだ。できる限り多くの人にアプリをインストールしてもらわないと、この技術は効果を発揮できない。普及を優先するためには、ユーザーの要求に応えることが先決である。

 GoogleとAppleが共同開発しているアプリは、そのため、「感染追跡』ではなく、「暴露通知」のツールと彼らは読んでいる。ユーザーの同意による感染リスクの通知というニュアンスを持たせるためだ。

 コンタクトトレースには、Bluetoothではなく、位置情報を利用しているシステムもある。ただ、韓国やイスラエルが採用しているが、国家による監視につながる危惧から少数にとどまっている。日本政府もGoogle=Appleが提供するサービスを利用する方針である。

 もっとも検査体制が整っていなければ、曝露通知しても意味をなさない。従来の日本など少数の例外を別にすれば、各政府はPCRを始めとする感染検査を積極的に行っている。これは新型コロナウイルスの特徴に起因する。

 このウイルスは無症状感染を引き起こす。それは発症者だけでなく、感染者が拡大をもたらすことを意味する。しかも、治療薬がない。重症化した場合、人工呼吸器を長時間使用せねばならず、医療資源の配分が制約される。その上で、患者の自己治癒力に期待して回復を待つほかないのだから、死に至る危険性も高い。検査を広く実施して、早期発見早期隔離することが賢明である。

 他方、新型インフルエンザの流行であれば、必ずしもPCR検査の広範囲な実施は必要ない。この疾病は発症しなければ、感染力を持たない。また、タミフルなど治療薬も用意されている。PCR検査は重症者に絞り、流行期に入ったら、発症者全員に治療薬を投与すれば、拡大を押えられる。ただし、こういう疾病であれば、発症者だけを対象にすればよいので、スマホ情報は不要である。

 率直に言って、従来の日本政府のPCR検査抑制方針は、新型インフルエンザの戦略のまま、今回のパンデミックに対応しているためと思われる。専門家会議やそのシンパが検査抑制をさまざまに正当化してきたが、それは新型インフルならいざ知らず、新型コロナウイルスの特徴にそぐわない。だからこそ、世界的に各政府は検査をできる限り増やす方針をとっている。

 世界的に経済再開を中央・地方政府が進めようとしている。しかし、それには感染の拡大の懸念がある。そこでコンタクトトレース技術が期待されている。活動を再開して、感染が起きたら、このシステムを利用して迅速に対応すれば拡大を抑制できると政府は考えている。感染を抑えつつ、経済も活動させるには、これが欠かせないというわけだ。

 しかし、こうしたデジタル技術は感染拡大抑制には信頼が不可欠だと物語る。政府や企業が普段から信頼性を市民との間で構築してきたのかがそこに現れている。そもそも陽性になった際、政府や企業が休業補償を用意していなくては、検査を促されても避ける可能性がある。信頼がなければ、せっかくの技術を生かせない。少なくとも政府や企業に信頼がないと、感染拡大につながってしまうだろう。ウイルスには人格などない。だが、その感染拡大防止には信頼が必要である。今回のパンデミックには不信の禍もある。
〈了〉
参照文献
田城孝雄他、『感染症と生体防御』、放送大学教育振興会、2014年
「感染症対策の専門家を支援。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)と戦う上で役立つデータ」、『Google Japan Blog』、2020年4月3日更新
https://japan.googleblog.com/2020/04/covid-19-community-mobility-reports.html
Natasha Lomas、「EUのプライバシー専門家が新型コロナ接触追跡において分散型アプローチを推進」、『TechCrunch(テッククランチ』、2020年4月24日更新
https://jp.techcrunch.com/2020/04/24/2020-04-06-eu-privacy-experts-push-a-decentralized-approach-to-covid-19-contacts-tracing/
Liza Lin & Chong Koh Ping、「コロナ追跡アプリ普及せず、シンガポールの誤算」、 『WSJ』、2020 年 4 月 23 日 08:05 JST更新
https://jp.wsj.com/articles/SB11705746827708923692704586340283375042232
「アップルとグーグル 各国の濃厚接触者アプリ開発に技術提供」、『NHK』、2020年5月21日 14時38分更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200521/k10012438941000.html?fbclid=IwAR24GBOm3xu0sbvxQs7-Ac-XsosP_rmbeW1FBfPfGWJN07_9gl39JPufCpo

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