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The Legend of 1919─有島武郎の『或る女』(8)(2004)

九 現代小説

 こうした二〇世紀の文学は近代文学とは別の名称が必要だろう。それは、同時代性に基づいている点から、「現代小説(Contemporary Novel)」と呼ぶことができる。森毅は、『数学の歴史』において、一七世紀を「原理の世紀」、一八世紀を「事実の世紀」、一九世紀を「体系の世紀」、二〇世紀を「方法の世紀」と命名している。

 これは文学史にも適用が可能である。近代小説は体系への志向が強く、体系の文学と見なして差し支えない。現代小説には、ロスト・ジェネレーションの文体が示しているように、その近代小説の体系性に対する方法への意志があり、方法の文学である。現代小説は近代小説の大衆化であり、オルタネイティヴである。作家は新たな文体を模索しなければならない。大衆はブルジョア的心性を規範として重層的・内包的に持っている。現代小説は雑誌に掲載されなければならない。大衆社会は細分化した読者を生み出す。

 この文学は二〇世紀的な金融資本主義=コモンウェルス体制に基づいている。「コモンウェルス」は「英連邦(Commonwealth of Nations)」が示している通り、EUやASEAN、アラブ連合といった国民国家を超えた連合であり、現在、主流の政治体制である。現代小説には、近代小説の持つ力強く、急で、荒々しいメリハリは好ましくない。方法の文学である以上、繊細さが不可欠である。ニュートラルで、クール、ドライ、無機質な文体で記される。二〇世紀文学は近代小説をさらに複製化し、記号化する。田中康夫は『新・文芸時評』の中で小説の創造を「ロビンソン・クルーソー的作業」と呼んだが、寺山修司は、現代社会では、人間は「マッチ箱の中のロビンソン・クルーソー」にすぎないと言っている。

 現代小説は近代小説が飲みこんだジャンルを復活させ、登場人物を大衆化している。それは「メロドラマ(Melodrama)」であり、SFやミステリー、サスペンス、アドベンチャー、ファンタジーが属している。現代小説は生きているとも死んでいるとも言えない。現代小説は諸ジャンルを具象レベルでは分化し、抽象レベルでは統一化する。現代小説の特徴は近代小説によって限定された世界の脱構築にある。近代小説は言説の物質化であったが、現代小説はその再配置を試みる。多様なジャンルが混在している近代小説の諸ジャンルの合流の伝統にのっとり、エントロピー的現象である。

 こうした大衆の文学はパスティッシュなアイロニー様式である。近代の文学は、程度の差こそあれ、アイロニーを含んでいる。メロドラマは、痛ましい結末になろうとも、その本質は喜劇である。ジョセフ・W・ミーカーは、『喜劇とエコロジー』において、喜劇と悲劇を生態学との関連で把握している。ミーカーは人間を自然の上に置き、世界を善と悪との戦場とする悲劇観を批判し、敵対するものを和解させ、環境に適応していく喜劇の世界を選択することを説く。人間の笑われるべき愚かさを描く喜劇のうちには、人間とほかの生物が共生するのに有効な方法があるというわけだ。

 メロドラマの制作者は大衆の嗜好に敏感でなければならないため、しばしば重層的に社会問題をとりあげるが、和解と共生を内包している。メロドラマは、一八世紀のヘンリー・フィールディングがその要素を嘲笑しているように、二〇世紀になって誕生したものではない。現代のメロドラマでは、アイロニーがゲーム化されている。読者はアイロニーの精神をもって、わざとらしいと嘲りながら、作品を読むようになる。アイロニーは、作品を媒介して、作者と読者の関係に効いてくる。現代の読者は、ある意味で、素朴であると同時に狡猾である。彼らはメロドラマを真剣に受けとめることはない。大衆は送り手の考えを額面通り受容することはないが、ルサンチマンを晴らすためには、それを信ずるふりをする。アイロニーが幅をきかせていても、その革命的意義は失われ、現代人の必須的姿勢、すなわち常識である。そのようにして現代小説は社会で共有される。

 メロドラマはジャンルの多様化を志向する。それは時刻においても同様の状況が見られる。二〇世紀、Y2K問題を筆頭に、時計の支配が強化された一方で、サマー・タイムが各国で採用され、時刻の多様化が導入されている。さらに、一九九〇年代初頭から、イギリスでは、時刻を一時間進め、独仏など欧州大陸側に合わせる法案が何度か検討されている。大陸の企業との連絡・取引の際に時差を無視できるため、金融界もこの時差解消法案を支持している。法案提出者はドーバー海峡を越える度に、時計を調整する煩わしさがなくなる上、冬も日没前に帰宅できることから、交通事故を減らす利点もあるとしている。BBCは交通事故の減少で年間で一〇〇人の命が助かるだろうと推測している。けれども、緯度が高いスコットランド選出の議員は、冬の日出が午前中の遅い時間になるとしてロンドンの法案に反対している。グリニッジを標準時が世界の時刻は決められているが、その中心が流動化しつつある。同じように、メロドラマは近代小説という標準を必ずしも必要としていない。

 ミハエル・バフチンが『ドストエフスキーの詩学』の中でフョードル・ドストエフスキーの作品を「ポリフォニー」と呼んでいる。ポリフォニーは器楽曲中心の近代西洋音楽以前の声楽曲の特徴である。バフチンのたとえは、フランソワ・ラブレーのような手法を用いて、ドストエフスキーが近代小説を超えることを試みたことを表わしている。近代小説は構成を楽器と編成の比喩にして捉えられよう。シンフォニーも、原則的には、四つの楽章から成り立っている。通常、第一楽章はソナタ形式、第二楽章は歌謡形式、第三楽章は舞曲形式、第四楽章はロンドもしくはソナタ形式である。交響曲は発展的であると同時に循環的であり、近代小説に見られる特徴を有している。

 他方、現代小説はクラシックよりも、ポップ・ミュージック的である。ポール・ホワイトマンがジャズの楽団をひきつれてロンドンを訪れた際、ジャズは、ヨーロッパでは、音楽家やジャーナリストからは非難されるか、無視されるかという惨憺たる状況に置かれる。けれども、意欲的な音楽家や民衆はジャズに熱狂する。現代音楽の先駆者の一人モリス・ジョゼフ・ラヴェルも、パウル・ヴィトゲンシュタインに捧げた『左手のためのピアノ協奏曲』を一例に、ジャズに影響を受けている。また、ジョージ・ガーシュインやイーゴリ・ストラヴィンスキーはシンフォニック・ジャズの傑作を作曲している。作家は、お題目ばかり唱える古臭い連中を嘲るように、その新たな音楽に合わせて小説を書いていく。

 メロドラマは、自らを存立させるために、スキャンダルを再生産しなければならない。スキャンダルは再生のきっかけにすらなる。それは共同体の選択・排除の装置ではなく、仮死・再生の装置である。ブルジョアは成りあがり者であり、貴族階級にとって、物笑いの種である。実用性が無視されたオート・クチュールを身にまとうブルジョアとプロレタリアートの間では、ファッションによって、階級が一目瞭然である。

 第一次世界大戦後になると、装飾品をあまりつけないシンプル・ファッションを経てショート・スカートが主流になる。慎みはもはや美徳ではない。解放された女性の中には、アール・ヌーヴォー的な妖艶さを追及するものもいたが、大衆のファッションは区別がつかない。階級闘争を無化したけれども、大衆はブルジョアを不可欠な前提とする。彼らはブルジョア道徳を規範にしているが、その欺瞞に自覚的である。現代の金持ちは大衆の味方であると見られたい。大衆の世紀では、ブルジョア以上に、有名人、すなわちセレブこそが好まれる。

 大衆社会のスキャンダルは欲望ではなく、潜在意識の道具となる。近代小説がブルジョアの欲望とイデオロギーを満たすのに対して、現代小説は大衆の潜在意識とイデオロギーを大量生産する。G・W・F・ヘーゲルは、『歴史哲学』の中で、ギリシア悲劇における民衆の地位について、「王家と民衆との間にはなんら本来の倫理的結合はなかった。悲劇においても、民衆と王家はこのように配置されている。民衆はコーラスであり、受動的であって、演技をしないのに対して、英雄たちは演技をし、罪を引きうける。(略)英雄的個性が劇芸術対象になりうるのは、彼らが自立的個人的に決意して、市民たちに適用される一般的法律によっては左右されないからである」と言っている。大衆はブルジョアやロイヤルのパロディ化を求める。

 今日では、有名になるために、むしろ、スキャンダルをマスメディアに売りこむ者さえ少なくない。「群衆の賛美がないような作品は、すべて呪われるのだ! 群衆がさげすむもの、それはなんの価値もない作品である」(エクトール・ベルリオーズ『回想録』)。メロドラマはスキャンダル生産のオートメーションと化し、読者は消費する。

 成井紀郎は、もし孫悟空がテレビ時代に生きていたらという仮定の下に、『ゴーゴー悟空』というマンガ作品を描いている。悟空の願望は人間になることではなく、スターや有名人になることであり、悟空は「スターとか有名とかいわれと、おもわずしらず、心がときめいてしまうわ。なにがわたしをそうさせるのかしら」と告白している。

 大衆はスキャンダルになれ、次第に無反応になり、よりセンセーショナルになるか、小さな差異を求めるようになる。メロドラマは、世界を徹底的に大きく広げるか、逆に、徹底的に小さくさせていき、小さな出来事や事件を大きく見せる。そこでは、日常以上にはるかに小さい出来事や事件しか起こらない。近代小説の支配的時代において、小説が商品化されたが、高度に発達した消費社会の現代小説では小説家も商品化される。一九世紀でも、俳優志望だったチャールズ・ディケンズが自作の朗読会を数多く催し、人気を博しているし、オスカー・ワイルドは、戦略的に、まず社交界で有名になった後、作品を発表している。けれども、よりワールド・ワイドなメディアが発達した二〇世紀の小説家は、トルーマン・カポーティにしろ、三島由紀夫にしろ、作品以上に彼ら自身のほうが商品価値が高い。スキャンダルはその商品を売るための契機となり、多くの場合、それを神話化させる。

 こうした流れは文学が産業化した証拠である。権威の不在を文学賞によって基礎付けようとする。文学賞は文学的価値ではなく、出版産業を活性化するためのイベントである。権威は商業主義のために、その生死は決定不能になっていなければならない。作品も作家も巨大な産業の一部にすぎない。

 現代小説の傾向を分析していくと、有島の作品にもそれが見られることが明らかになる。『或る女』の前編では、水夫というモッブが印象的に描かれているが、モッブはメロドラマには欠かせない。

 ノースロップ・フライは、『批評の解剖』において、モッブについて、探偵小説を例にとり、次のように述べている。

 現代はアイロニー文学の段階にあり、探偵小説の流行は大体これで説明できる。探偵小説の慣習は、探偵がパルマコスを探し出して懲らしめることにある。シャーロック・ホームズ時代の探偵小説は低次模倣様式をさらに徹底させたものとしてはじまるが、この形式では、細部に注がれる鋭い観察によって、誰も顧みないような日常の些末事か、一躍不思議な不吉な意味を帯びてくるのである。しかし、探偵小説は次第にこの形式をはなれて、一種の祭儀的なドラマに近づく--この祭儀は死体のまわりでとり行なわれ、一団の「容疑者」たちの上を、罪を問う社会の指がめぐってゆき、ついにそのうちの一人の上にとまる。罪の証明は人為的に仕組まれたものであり、せいぜい一応の筋道が立つという程度なので、恣意的に選ばれる生贄という印象が強くなる。もしもこの過程が真に必然的なものであるならば、『罪と罰』のような悲劇的アイロニーが生ずるはずで、この場合ラスコーリニコフの性格と彼の犯罪とは切り離せないものであり、「犯人は誰か」の謎が入る余地は全くなくなってしまう。探偵小説が次第に残酷なものになって行くと、探偵ものは結局スリラーと合体し、メロドラマの一形態となる(ただし、この場合の残酷さは、形式上の約束事によって保護されている。つまり、容疑者の一人が必ず犯人であるという探偵の信念は決して誤ることはあり得ない、という約束になっているのだ)。悪に対する道義の勝利、そしてその結果、観客が抱いている(ということになっている)道徳的観点を理想化すること、この二つがメロドラマの主要なテーマである。残酷なスリラーのメロドラマは、リンチ集団の独善性に、芸術として可能なかぎりに近づくのである。
 そこで、あらゆる形態のメロドラマ、特に探偵小説は、モップ暴力を正常なものとして表現するものであり、その限りにおいて警察国家の前宣伝であると言わねばならぬところである。しかし、それはメロドラマを真剣にうけとることが可能ならば、の話であって、実際にはそれは不可能であろう。遊びという防壁は依然として健在である。

 モッブ・シーンは、メロドラマでは、重要である。モッブによって中心的登場人物を際立たせる。モッブは、それだけでなく、主人公を必要としない作品さえ可能にする。メロドラマの原形を提出したエドカー・アラン・ポーは、『群衆の人』において、このモッブそのものに焦点をあてている。この作品の主人公はモッブの一人にすぎない。個人としての自由意思を持たず、群衆の動きに従っているだけだ。モッブは神の死と共に出現した存在であり、恐怖や混乱、歓喜の表象である。一九世紀というブルジョアの世紀において、彼らに反抗的なプロレタリアートはモッブとして把握されていたが、二〇世紀は大衆の世紀であり、世界はモッブに覆われる。

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