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戦後経済と日本文学(3)(2009)

5 経済の時代
 アラン・グリーンスパン前米連邦準備制度理事会議長は、2008年10月23日、サブプライム・ローン問題に端を発した金融危機について、下院監視・政府改革委員会において、「われわれは一世紀に一度の信用津波の最中にある(We are in the midst of a once-in-a century credit tsunami)」と証言している。その時点ですでに、ベア・スターンズとリーマン・ブラザーズは破綻、ゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーは商業銀行へ転業、メリルリンチはバンク・オブ・アメリカに買収され、五大投資銀行が姿を消し、AIGも事実上国有化されている。この意見が決して誇張ではなかったことは、安易に引用すべきではないという慎重な意見もあるものの、その後、嫌と言うほど世界の人々は味わうことになる。19年4月にクライスラー、6月にはGMが連邦破産法11条の申請を発表している。「予測されるけれども目に見えない危険は、人の心を最もかき乱す」(ユリウス・ァエサル『ガリア戦記』)。

 当初、日本の金融機関は、欧米ほど不良資産にさらされていなかったこともあって、金融危機はそこまで深刻とならないと見られていたが、2009年2月25日付『フィナンシャル・タイムズ』紙が社説で批判している通り、「慢性的な輸出依存により、世界の需要が衰えると経済が止まってしまった」日本経済の現状に対し、麻生太郎政権は不十分な対応を続け、危機を悪化させている。

 麻生首相は過去最大15兆円にも上る09年度の補正予算を組むが、その財源として国債の大量発行に頼っている。国と地方を合わせた長期債務残高は、08年度末の時点で、787兆円であり、GDP比は先進国最悪の水準である。これは将来世代へのツケを残すだけではない。市場で国債が供給過剰となり、債権価格が下落し、金利が上昇する危険性がある。長期金利の上昇は、大手金融機関の住宅ローンや企業向け貸出金利の引き上げを招き、経済活動を鈍化させてしまう。国債の大量発行は景気浮揚どころか、その前に金利上昇が始まってしまえば、資産価格が暴落し、生活水準の低下を招き、さらに経済を悪化させかねない。

 この補正予算案に対して、国内のみならず、海外からも厳しい反応が寄せられている。中でも、2009年5月13日付『朝日新聞』の「経済気象台」によると、IMFはシニカルな見方を示している。政府債務がGDP比を60%に達する欧州では、将来の負担増を考慮して、支出を抑制するため、財政出動による景気対策に期待はできない。日本の政府債務のGDP比は160%を超えているから、そうした政策は狂気の沙汰ということになる。また、かつてスウェーデンが財政危機に陥った際、支出した財政コストをほぼ5年で回収しているのに対し、日本は1割もできていない。前者が納税者からの借金を5年で返済したのに、後者は大半を事実上踏み倒している。スウェーデンが若大将だとすれば、日本は青大将だというわけだ。

 東アジア諸国は膨大な貿易黒字を抱えているが、それが国内ではなく、欧米の証券・債券市場に回っている。これは資産運用として直接金融よりも貯蓄といった間接金融が人々の間で好まれているからである。国内の金融市場は、外国人投資家に依存する体質になっている。この状況は為替レートを不安定化させる一因であり、貿易立国としての自身の基盤を危うくする。

 日本の国債は、2005年段階で、93%が国内で吸収されている。郵便局はその主な購入先である。郵貯は企業等への融資が認められていないため、資金運用として国債を買っている。民間金融機関は、景気がよくなった際に、企業に融資することを睨んでいるので、日本国債だけを購入していられない。郵政事業の民営化をきっかけに、かりにそれを解除したとしても、ノウハウがないので、既存の銀行に太刀打ちできない。しかも、すでにゼロ金利政策によって金が余っているけれども、大手を中心に企業が工場を人件費の安い海外へ移転する動きが活発であるため、国内の設備投資が減っている。そこで、民間金融機関は外国人投資家に融資する。彼らはドルを円と交換して日本市場に投資している。しかし、国外で何か事件や出来事が起きた場合、慌てて資産を引き上げ、為替レートが急激に変動する。日本を始めとして東アジア諸国は貿易立国であるため、その不安定な為替レートでは企業の経営を圧迫し、景気を悪化させる。証券市場を国内からの直接投資や投資信託を増やすことが為替レートの安定化につながる。預金預け入れ限度額を下げるというのは、一つの方策である。

 もしも景気浮揚のために国債を大量に発行する目的で、郵貯の預け入れ限度額を上げると、民間銀行から預金を吸い上げてしまう危険性がある。自己資本比率の規制により、民間銀行は融資を絞りこまざるを得ない。中でも地銀や信用金庫など中小規模の金融機関はこの影響を強く受ける。中小企業がそこから借りられなくなり、黒字でありながら、倒産するケースも頻発し、景気をさらに冷えこませる。

6 経済のグローバル化
 経済において、国境は決してファイヤー・ウォールとして働かない。過去20年を振り返ってみても、必ずしも日本経済に直接的に起因していたわけではないショックが2、3年に1度の割合で生じ、結局、対岸の火事とはなっていない。

発生年 主なショック
1989年 ベルリンの壁の崩壊
1990年 湾岸戦争
1991年 ソ連解体
1995年 阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件
1997年 アジア通貨危機
2001年 米同時多発テロ・アフガニスタン侵攻
2002年 SARS流行
2003年 イラク戦争
2004年 スマトラ島沖地震
2005年 鳥インフルエンザ流行
2008年 ギョーザ中毒事件・四川大地震

 2009年にも、4月24日、WHOはメキシコで新型インフルエンザによる死者が出たと発表し、その後、世界各地に感染者が確認されている。人の移動が大量かつ広範囲である現代社会では、多くの現象が世界規模で拡散する可能性がある。この新型インフルエンザは弱毒性ということがしばらくすると判明したけれども、変異して1918年のスペイン風邪のようなパンデミックになることを警戒するあまり、国内でいささか過剰とも思われる反応も見られている。5月28日の参院予算委員会において新型インフルエンザ対策等に関する集中審議が行われ、参考人として出席した羽田空港の木村盛世検疫官は、「毎日毎日、テレビで、主に成田空港で、N95マスクをつけ、あるいはガウンをつけて検疫官が飛び回っている姿は、国民に対してのアイキャッチというか、非常にパフォーマンス的な共感を呼ぶ。そういうことで利用されたのではないかと疑っている。水際対策に偏ると、国内に入ってからのことがおろそかになると思う」と証言している。

 思いがけない衝撃は、実際には、以上の通り、頻繁に生じている。起こるものだという前提の下に、政治的・経済的・社会的活動を進めなければならないはずだが、なかなかうまくはいかない。東西冷戦の終結以降、世界経済は相互依存を強めており、国際的な金融・貿易取引を行っている限り、不規則な衝撃に日本も無関係ではいられない。経済を無視した思考で生活することはもはやありえない。

 1930年代の世界恐慌と今の景気後退との最大の違いは国際協調の有無である。経済が国際的な問題となったのは第二次世界大戦後のことである。戦前、金本位制のため、経済は国内問題として扱われている。世界恐慌の際、国際協調の動きが生まれないどころか、主要国は保護主義に走り、ブロック経済体制を敷いている。これが世界大戦の主要な原因の一つであることは否定できず、戦後は、経済を国際的問題として捉えることが各国間のコンセンサスとなる。自由貿易と国際協調を基調とする世界的な経済秩序の構築が進められ、ソ連の解体以後は、それがグローバル・スタンダードとして広く認められる。

 ところが、今回の危機でも保護主義の誘惑にかられている諸国もすでに現われている。ロシアや中国、アメリカ、インド、フランスなどは、程度の差こそあれ、自国産業の保護と外国製品の排除に動いている。09年六月に実施されたEUの議会選挙でも、50%に満たない低投票率であるけれども、移民排斥を掲げる極右政党が議席数を伸ばしている。

 相互依存を強めている現在の国際社会において、ナショナリズムに囚われれると、その国が大きな経済的損失を被ることはしばしば起きている。リーマン・ショックによるアイスランドの金融破綻にもそれを見ることができる。アイスランドは、人口30万人程度の小国でありながら、2007年の人間開発指数のランキングにおいて、トップとなるほど豊かで住みやすい国だったが、9・15以降、欧州で最も深刻な経済危機に陥っている。アイスランドは漁業保護を主な目的に、EUへの加盟を見送り続けてきけれども、それが裏目に出る。

 アイスランドは金融緩和をてこにして経済発展を進めている。銀行が欧州各地に進出し、地元の金融機関より高い利息で預金を集め、外貨を獲得して、そこから借り出した資金で企業は海外に飛び出していく。しかし、通貨規模に対して、金融機関が肥大しすぎてしまう。信用収縮がこのいびつな実体を直撃する。通貨クローナは暴落し、銀行は国有化、IMFに100億ドルの緊急支援を要請、ロシアから40億ユーロの融資を受ける。独立志向のナショナリズムを抑制し、EUに入っていれば、ここまでの壊滅的打撃にはならなかっただろう。加盟の必要性は、経済が好調のときからエコノミストたちより主張されてきた意見である。グローバル時代に、国家の枠組みに固執する政治の非力さは露呈したケースである。

 過去20年間、戦争が起きる度に、個性的なメディアをクローズアップさせている。湾岸戦争はCNN、アフガン戦争はアルジャジーラ、イラク戦争はYou Tubeをそれぞれ世界にその名を浸透させる契機となっている。戦争ではないが、今回の経済危機はブルームバーグを一般にも知らしめている。

 20世紀後半以降は「経済の時代」と呼ぶことができる。けれども、日本において、いわゆる純文学を見る限り、そうした認識は認められない。「政治と文学」は日本近代文学における重要なテーマの一つである。当初は共産党との関係を指していたが、フランス実存主義文学の流行と共に、「アンガージュマン」も含まれるようになっている。その後、反核アピールや湾岸戦争反対アピールといった国際政治に対する意見表明、関西大震災など自然災害へのボランティア活動、首長や議員、地方自治体ならびに政府の各種委員会の一員としての政治参加等文学者の政治とのかかわりは、その質はともかく、広範囲に拡大している。

 しかし、その一方で、「経済と文学」をめぐる議論が文学者の間で沸騰したことはほとんどない。「政治と文学」において、少なからずマルクス主義の検討が図られたものの、それはイデオロギーの図式的な妥当性を確認するにとどまり、経済についての議論の深まりをもたらすものではない。プロレタリア文学は労働者の置かれた過酷な現状を告発し、資本主義体制を糾弾しているが、むしろ、それは「政治と文学」のヴァリエーションである。
 戦前、ドメスティックな問題と広く考えられていた事情を考慮するなら、経済を正面に見据えた小説がほとんどないことは理解できる。この時期、数少ない経済を扱った小説の代表は、谷崎潤一郎の『小さな王国』であろう。

 戦後、経済が国際問題として認知されただけでなく、日本社会の官民共通の目標は、少なくとも政治の季節が終わった1960年以降、経済成長である。ところが、いわゆる純文学には経済活動を舞台とした小説があまり生まれていない。石牟礼道子や中上健次など経済成長の矛盾やひずみなどを鋭く抉り出す使命感に溢れた作家はいたものの、彼らは少数派である。新しいビジネスやサーヴィス、商品、テクノロジーが登場すると、基本原理もろくに調べないまま、それに飛びつき、作品に登場させる小説家は少なくない。また、社会変化を若者の生活を通じて描くのは新人作家の常套手段である。しかし、それは経済を真正面から扱っているのではなく、小道具大道具として用いているにすぎない。村上龍が、ITバブルで盛り上がる1998年から2000年にかけて、『文藝春秋』誌上で連載した『希望の国のエクソダス』は、そのレアなケースである。この作品だけでなく、村上龍は、いささか山師的ではあるものの、経済を小説に取り上げる数少ない芥川賞作家である。

 言うまでもなく、どんな小説であっても、登場人物は暮らしを営んでいる以上、そこに経済状況が反映されている。批評家がその意味を読みとる試みは、実際、従来からなされている。しかし、これは小説が経済を直接的に扱っていないために、続いている伝統である。1960年代後半に、完全雇用が達成し、基礎的な豊かさ・平等が広く普及する。

 その反面、従来、社会的問題だった貧困が個人的な失敗へと見なされるようになり、人々の間に無関心さが広がる。また、不平等は政治的・経済的・社会的弱者、すなわちマイノリティに現われやすい。こうした少数者の問題を掘り下げ、社会的な共感を呼び起こすことは文学者の責務でもある。しかし、しばしばいわゆる純文学系の小説はそうした広がりを持っていない。主人公が孤独であったり、貧乏であったりすることは伝わってきても、社会の他の同じような人たちとどう違うのかがわからない。

 非正規雇用労働者を主人公に据えても、人物造形の彫りが甘く、その必然性を感じられない作品も少なくない。最近そういう人たちを見かけるから、とりあえず出してみたという程度の場合さえある。それは、一般的な枠組みにくくられることへの抵抗と言うよりも、浅はかな思いつきに過ぎない。ところが、こうした作品に近代小説を超える試みを見出す論者がいる。しかし、それは近代小説の意義を理解していない意見にすぎない。

 日本近代文学は近代小説の確立を目標に置いている。これは「市民の文学」であり、近代社会を再現する。その意味で、真の主役は近代社会である。代表的な作家としてダニエル・デフォーやヘンリー・フィールディング、ヘンリー・ジェイムズ、ジェイン・オースティンなどが挙げられる。近代の理念は自由・平等・友愛であり、近代小説はそれを踏まえている。登場人物は「普通の人々」(ロバート・レッドフォード)、すなわち等身大で、その性格・心理・志向は社会が表われたものである。社会的仮面、すなわちペルソナを被った普通の人々あるいはほんとうの人間を描写しようとすることから、しばしば因習的とならざるをえなくなる。

 しかし、反面、登場人物の心理に自由にかつ深く立ち入ることができ、それによって読者は平凡でどこにでもいそうな主人公に共感することも少なくない。ただ、近代小説は、その内面描写に傾倒しすぎると、精神的深みが平凡な人たちの日常的な生活の中にこそあるという逆説を導いてしまう。そういうパロディも、当然、生まれている。また、小説の傾向は外向的・個人的であるため、作者には客観的、すなわち公正たらんとする態度でとり扱うことが要求される。エミール・ゾラは、それを実現しようと、自然科学を援用している。この短編形式は、フライ自身による命名ではないけれども、一般的には「スケッチ(Sketch)」と呼ばれている。近代小説は、本来、社会を浮き彫りにするために、書かれる。

 バブル経済当時、流行していたのは村上春樹や吉本ばなななど自閉的な作品である。外界への関心は乏しく、経済を扱うどころか、自分の殻に閉じこもってしまっている。バブル経済に踊らなかったとしても、それがはじけたとき、その被害を被ることになる。かぶりを振ったところで、見逃されるはずもない。そんな経済の常識さえ理解していないような振る舞いをしている。いわゆる純文学の小説家はセンセーショナルな犯罪が起きると、それにはすぐ飛びつくくせに、大きな経済問題が発生しても、とり扱おうとしない。

 経済問題は、関心の有無にかかわらず、世界規模の人々に直接的・間接的に被害が及ぶ。バブル経済を描いた文学作品は何かと尋ねられても、すぐには思い浮かばない。なるほど、経済は変化が早く、作品を発表した頃に構想自体が古びてしまう危険性もあり、執筆を尻込みする気持ちもわからないではない。投資ファンドを舞台にした真山仁の課経済小説『ハゲタカ』が映画化されたけれども、公開時には世界的な景気後退によってこの業種が崩壊寸前に追いこまれている。ところが、真っ只中に書かれた作品だけでなく、過ぎ去った後にそれを振り返ったものさえ答えることができない。むしろ、本多俊之のソプラノ・サックスが響き渡る伊丹十三監督の『マルサの女』シリーズ(1987~88)を思い起こしてしまうだろう。

 日本は、1890年から1990年の間に、一人当たりのGDPが842ドルから16144ドルにまでのほぼ20倍に上昇し、年平均成長率は3%である。一方、アメリカは、1870年から1990年までの間に、2244ドルから18258ドルと9倍に伸び、成長率は1.76%である。日本の経済成長が非常に大きいのがわかる。しかし、そこには激しい変動がある。戦後の経済成長だけを振り返ってみても、いわゆる純文学が経済と向き合ってこなかったことがあまりにも自閉的だったと残念でならない。

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