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The Legend of 1919─有島武郎の『或る女』(1)(2004)

The Legend of 1919─有島武郎の『或る女』
Saven Satow
Oct. 03, 2004

「アダムよ。お前には一定の住所も顔かたちも特性も与えなかったが、それはお前がお前の意志と判断によって、思うままにそれらを決めることができるようにしたためである。自然は定められた法則に束縛されているが、お前は自由意志によって何ものにもなることができる」。
ピコ・デラ・ミランドラ『人間の尊厳について』

一 近代と近代小説

 有島武郎の『或る女』(一九一九)には二つの構造が混在している。一つは圧縮=開放であり、もう一つは重層・内包である。それはこの作品が生まれた二つの時代の狭間を表象している。

 I know your works, that you are neither cold nor hot. I wish you were cold or hot. So, because you are lukewarm, and neither hot nor cold, I will vomit you out of my mouth.
(“The Apocalypse of John”3:15-16)

 近代に入って、産業資本主義と国民国家体制が北大西洋諸国を席巻する。ナポレオン戦争によってヨーロッパに広まった近代の理念は、ウイーン会議により反動勢力が優勢になった時期もあったものの、隆盛し、一八四八年革命と産業革命という政治・経済両面の革命は欧米の風景を変容していく。それを推進した一つの原動力が蒸気機関である。圧縮=開放というサイクルは、ヘラクレイトスとタレスが融合したかのように、かつてないほど効率的で爆発的なエネルギーを人々に与えている。

 その蒸気機関は鉄道という新たな交通手段を導き出し、それは地球規模で標準化された時刻をもたらしている。史上初めて世界が統一=征服される。強大な軍事力を誇った古代ローマ人も、モンゴル人も実現できていない。各地域で、それぞれ太陽時を使っていたが、鉄道が開業され始めると、このままでは、鉄道のダイヤグラムで混乱が起きるため、一八八四年一〇月にワシントンで開催された第一回国債子午線会議において、標準時が導入される。

 カナダ太平洋鉄道の主任技師サンフォード・フレミングが一八七八年に提案してたアイデアに基づき、地球を二四の時間帯にわけ、基準位置をイギリスのグリニッジ天文台を通過する経度ゼロの子午線とし、これをグリニッジ平均時と公認する。各地の時刻は平均時との時差において国際的に把握される。時間帯はグリニッジ天文台から東へ一二、西へ一二の地帯に分割され、各時間帯は経度一五度の幅になる。ただ、実際には、時間帯の境界線は州の境界や国境、あるいは経済活動に便利なように区切られている。

 三〇年間船員生活を続けたジョゼフ・コンラットが『密偵』で描いている通り、一八九四年、時刻の標準化に怒りを覚えたアナーキストがグリニッジ天文台を爆破するテロを計画するが、当局から放たれたスパイにより、未遂に終わる。以来、近代人は時刻によって時を認識しなければならない。標準時間は近代的な意味の西洋中心主義の象徴である。

HAMM: What time is it?
CLOV: The same as usual.
(Samuel Beckett “Endgame”)

 その近代において、「近代小説(Modern Novel)」が誕生する。この新たな文学ジャンルは、近代化による神の死や封建制の解体と均質化を標準化された言語で描かれる。と同時に、近代の矛盾をアイロニカルに批判するものの、その権力に加担していると非難されもする。「信仰と理性の対立はわれわれの時代にあっては、哲学そのものの内部対立となっている」(G・W・F・ヘーゲル『信と知』)。

 産業資本主義=国民国家が農民や商人、貴族といった身分を国民に収束させたように、近代小説はアナトミーやロマンス、告白などの諸ジャンルを吸収する。主人公は、語り手同様、「国民」である。英雄でも愚か者でもなく、平凡な人物であるが、世間の好奇心と噂話を刺激するスキャンダルに巻きこまれている。作品にはモデルが実在しており、それがスキャンダル性を強調する。

 近代小説の起源は、新聞の記事をモデルにしたダニエル・デフォーのピューリタン文学『ロビンソン・クルーソー漂流記』(一七一九である。それは主人公が中産階級から逸脱して、無人島に渡り、自給自足の生活をするという話であるが、一二世紀のスペインで活動したイスラム哲学者イブン・トゥファイルの『ヤクザーンの子ハイイ物語』をモチーフにしている。これは「生きているものは、目覚めているものの息子」であると孤独な自然人が自己形成を果たし、ついにアラーとエクスタシーの中で合一する物語である。週刊誌”The Review”の発行人は、このオリエントの宗教的物語を枠組みに使い、三面記事を融合させ、新たな文学ジャンルを生み出す。

 勤労と信仰を旨とする産業資本家に多いイギリスのカルヴァン主義者は、一六四二年、絶対主義を打倒する史上初のブルジョア革命を実行し、一六四九年、オリバー・クロムウェルはスチュアート朝のチャールズ一世を処刑する。近代小説はそうしたピューリタンの美徳を意識しているため、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(マックス・ヴェーバー)に重なり合うのみならず、ピューリタニズムに対する批判も体現される。

 ピューリタンは社会の掟と個人の自由との間で、初めて、葛藤した人々である。姦通は、雰囲気を出すために一七世紀の文体で書かれたナサニエル・ホーソーンの『緋文字』(一八五〇)が示しているように、ピューリタンの間では特別の意味を帯びている。姦通罪を犯したものはさらし台に立たされ、「姦通(Adultery)」を意味するAの緋文字を生涯身につけなければならない。先祖に魔女裁判の裁判官がいるものの、ピューリタンではないホーソーンはR・W・エマーソンやH・D・ソロー、マーガレット・フラーといった超絶主義者も交際し、近代化に対する疑問を覚えている。ヘスター・プリンとアーサー・ディムズデール、チリングワースことヘスターの夫ロジャーの関係は、ヘスターが罪、ディムズデールが偽善、チリングワースが復讐を象徴している。一九二六年、『緋文字』が映画化され(邦題『真紅の文字』)、リリアン・ギッシュがヘスターを演じた際、アイロニカルに映画の効用を当時厳しかった検閲官に説くものとして描かれている。

 政治的動向によりピューリタンは非国教会教徒からキリスト教原理主義者まで含む非常に曖昧な概念であり、諸ジャンルを吸収した近代小説は、その意味でも、ピューリタン文学と言える。夏目漱石が、『文学評論』において、デフォーを「労働小説」と痛烈に批判している通り、資本主義化していく世界は生産=労働の時代に突入し、スチーム・ノベルはそれにふさわしい文学ジャンルである。近代小説は標準時による同時代性が完成しつつある時代の文学であり、読者もその同時代性を意識して共感=反発する。その文体は国民国家にとって教科書であり、作文である。

 ギュスターヴ・フローベールは、『脂肪の塊』を読んで、ギー・ド・モーパッサンに次のような手紙を送っている。

 早く、君に言いたくてじれったかった。私は『脂肪の塊』を傑作とみなす。そうだよ! 若いの! 正真正銘の傑作だ。大家の風格がある。構想はまったく独創的だ。完全によくのみこめている。文章もすばらしい。背景も人物も目に見える。心理の扱いもしっかりしたものだ。手短に言えば、私は大満足だ。二、三度大きな声を出して笑ったよ。
 (略)この小さな物語は残るぞ、私がうけあう! 君の書いたブルジョアどもの面はまったくすばらしい! 一人として的をはずれていない。コルニュデはすてきだ、そして真実だ! あばた面の尼、これも完全、それから、「すると、何かね、あなたは……」と猫撫で声を出す伯爵、それに結末がいい! かわいそうな女が泣いている。一方でコルニュデがマルセイエーズをうたう。すばらしい。

 「この衝突、この難局、この問題の解決は、未来の歴史が解決しなければならないものなのである」(G・W・F・ヘーゲル『歴史哲学』)。文学的評価は絶対的ではなく、その発行部数や投書など読者からの反響により資本主義的に判断されざるを得ない。このニヒリズムの文学が体現しているのは、蒸気機関に支えられた社会にふさわしく、圧縮=開放の物語であり、正真正銘の「国民文学」の規範を目指している。

 国民国家は公教育を通じて国民を生産するため、そのイデオロギーは正しい国語で記された活字メディアによって普及・浸透されなければならない。近代小説は新聞に連載されるか、書籍として刊行される。スチーム・ノベルは近代化運動がワールド・ワイドに普及していくにつれ、支配的な文学ジャンルとして世界各地に輸出される。

 明治維新以降の日本においても、近代小説の形成へ向けて文学的活動が続けられる。陸蒸気が文明開化の象徴となり、一八八八年(明治二一年)一月一日から、東経一三五度の子午線の時刻を日本の中央標準時と制定されている。文学の近代化運動の結実が島崎藤村の『破戒』(一九〇六)である。

 この作品は過去形に統一された三人称の語り、内面の変化、近代化しつつあるローカルな風景の描写が見られながら、国民国家の理念に反する被差別部落問題を主題にしている。小学校教師の瀬川丑松は被差別部落出身であり、出自を明かしてはならないという父からの戒めを守り続けるけれども、心の葛藤に苦悶する。学校は、近代日本において、近代化を布教する教会の機能を果たし、教師は宣教師に譬えられる。下宿先の蓮華寺の養女風間志保との愛と出自を隠さずに偏見と闘った思想家猪子蓮太郎の著作に触れたことにより、彼は児童たちにすべてを告白し、新しい世界を求めてテキサスに旅立つが、それを志保や児童、同僚が差別意識に満ちた校長の命令に反して見送りに来る。

 この圧縮=開放の物語は近代小説の国民国家的イデオロギーを体現しつつ、それを批判するという両面性を兼ね備えている。近代小説はスキャンダルを描くために、モデルを求める。丑松は長野県飯田市出身の教育者大江磯吉がモデルである。彼はその出自に対する偏見から長野県での職を追われ、各地の学校を転々とした後、三四歳の若さで兵庫県柏原中学校長に就任している。

 また、被差別部落の当事者から批判が寄せられている。全国水平社から差別語の多用や主人公の消極性などの理由で糾弾されている。『破戒』は完璧な国民文学であり、日本近代文学は『破戒』をプロトタイプとして発展している。

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