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読売編集権争議(2016)

読売編集権争議
Saven Satow
Jun. 13, 2016

「日本の新聞統制はナチ政府に指導された」。
鈴木東民

 野尻民夫の「読売新聞の元北京総局長がナベツネ忖度体制の記事潰しを告発!『読売は中国共産党に似てる、日本の人民日報だ』」によると、読売新聞の編集方針が他紙と比べて著しく偏っている。安倍晋三政権の広報と言っていいほどで、「日本の人民日報」と化している。

 もっとも、読売はすでに日本版『人民日報』と呼ばれており、この見出しに目新しさはない。ただし、両者に違いはある。人民日報は中国共産党中央委員会の機関紙である。もともと、共産党にとってマルクス=レーニン主義のイデオロギーを広め、社会主義体制を強化する手段である。読者を指導する対象と扱っているから、情報提供の見返りを求める発想もない。同紙は経営に関して経済的利益を追求する必要がない。

 読売の極端な紙面編集には、渡辺恒雄読売新聞グループ本社代表取締会長兼主筆の影響がある。彼が事細かに記事についてあれこれ指図しているわけではない。読売内部は権威主義的空気に支配され、会長の意向を忖度して紙面が編集されている。野尻は、加藤隆則元読売新聞北京総局長の『習近平暗殺計画 スクープはなぜ潰されたか』を手掛かりに、読売では特ダネ掲載も禁止だと明らかにしている。

 新聞には権力を監視したり、国民の知る権利に応えたり、第三者を保護したりする役割がある。加えて、新聞は民間企業であるので、情報の提供の対価として経済的利益を得ることも重視する。しかし、経営者が現場に特ダネを禁止しては、希少性のある情報が載らないのだから、人々の購買意欲をそそらない。私的活動を抑制した新聞紙面には政府のイデオロギーを広め、現政権を強化するための広報と化す。読売は民間企業でありながら、その体をなしていないことになる。

 読売新聞の編集方針に経営者である渡辺会長の意向が強く反映されている。こうした事態の一因として編集権の問題がある。日本の新聞では編集権が経営者に属するとされている。現場が首脳陣の意向に左右されることもある。経営者の暴走を抑止する装置が必ずしも十分ではない。この認識が定着したのは、実は、占領期に読売新聞で二度に亘って起きた労働争議の結果である。

 第二次世界大戦後、日本の新聞の内部で戦争責任の明確化と民主化要求の動きが現われる。45年秋、朝日新聞社で社長を始め局長以上の幹部の総退陣を求める声が沸き起こる。従業員組合が結成され、10月、総退陣が実現する。これが発端となって他社でも同様の自己批判と総括が始まる。

 ただ、戦争責任に加え、激しいインフレを背景にした賃上げも組合から経営陣に要求されている。生活圏確保も争議のテーマとして当初から現れている。

 GHQも45年12月から戦争犯罪の責任者を指名し、彼らの拘留・追放措置を行う。その中には同盟通信社社長古野伊之助、読売新聞社社長正力松太郎、毎日新聞社社長徳猪一郎著、元朝日新聞社社長・情報局総裁下村宏ら戦時中に報道機関の要職にあった31人も含まれている。

 従業員組合は新聞の編集体制の改革を運動に加える。45年10月23日に始まった読売新聞の争議は編集権をめぐって展開される。「編集権(Editorial Rights)」は、948年の日本新聞協会の『新聞編集権の確保に関する声明』によると,新聞編集に必要なすべての管理を行う権能のことである。その行使は経営管理者およびその委託を受けた編集管理者が行い,この権利を侵害する者は、何人といえども、排除する。

 読売争議を指導したのが鈴木東民(とうみん)である。1895年、岩手県に生まれた彼は東京帝大経済学部を卒業後、1923年、大阪朝日新聞社に入社する。しかし、すぐに日本電報通信社(現電通)、に移り、ベルリン特派員として渡欧している。彼はそこでフランクフルト学派のマルクス主義に触れている。まさに戦前のエリートである。

 帰国後の35年、読売新聞社に転職、外報部部長兼編集委員に就任する。ところが、反ナチスの主張が駐日ドイツ大使オイゲン・オットの耳に届く。彼は反ナチス的姿勢を知ると、各方面に圧力を加えずにいられない人物で、鈴木東民に対しても同様の動きをとる。鈴木東民は休職に追いこまれ、帰郷する。

 戦後、鈴木東民は復職、正力社長の辞任を要求、その際、経営を自主的に管理して新聞を発行することを付け加える。社長は彼を解雇して対抗する。そこで、従業員組合を結成、争議を指導すると、社長は彼を東京地検に告訴している。争議は長引くかに思われたが、正力社長の戦犯問題が浮上、事態が急展開する。

 12月、会社側が従業員並びにその代表を加えた経営協議会を設置、編集を始めとする業務の重要事項を協議する覚書を組合側と取り交わす。正力社長はA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監、リベラル派と知られる馬場恒吾が後任に選ばれる。これで第1次読売争議は収束する。

 ところが、46年6月、争議が再燃する。共産党が従業員組合へ勢力を拡大し、GHQがそれの浸透を阻止すべく行動をとり始める。5月、メディア政策担当の人事異動が行われ、方針が変更される。GHQ民間情報教育局(CIE)局長が左派のケネス・ダイク(Kenneth R. Dyke)から保守派のドナルド・ニュージェント(Donald R. Nugent)に交代する。

 その際、新聞課長にはダニエル・インボデン(Daniel Imboden)が就任する。彼はジャーナリストで、新聞経営の経験も持っている。新聞の編集方針は従業員組合ではなく、経営者が有しているのが持論である。編集権は経営者にあるというわけだ。この新聞課長から見れば、読売新聞は組合の力が強すぎ、編集体制を改める必要がある

 当時、鈴木東民は共産党員ではない。だから、彼が党の指導に基づいて働いていたわけではない。

 6月4日付『読売新聞』の「食料供出に新措置」という記事がプレス・コードに反するとしてインボデン課長が馬場社長に善処を要求する。それを受けて首脳陣は鈴木東民以下6名の幹部の退社処分を示す。これをきっかけに争議が再燃する。

 第2次読売争議は編集権をめぐって労使が激突する。しかし、GHQが編集権を経営者に認めているのだから、結果は目に見えている。

 けれども、9月26日、日本新聞通信放送労働組合が読売争議団の要求貫徹他2項目を掲げた闘争宣言を公表、20月5日にゼネスト実行と呼び掛ける。NHK・時事通信社・民報など5社が実際に決行したものの、翌日、政府がNHK第1放送を国家管理とする対抗措置をとる。10月11日、新聞はゼネストを終了、16日、鈴木東民以下6名が依願退職、31名が自主退職という結果で争議は組合の敗北に終結する。

 これ以後、組合が争議を起こす際に、編集権を争うことはなくなる。編集権は経営者にあると認め、激しいインフレの中、生活権確保に要求を絞る。

 全官公庁労組拡大共同闘争委員会が47年2月1日にゼネストが計画されたが、GHQの圧力により中止に追いこまれる。予定の前日である1月31日、伊井弥四郎委員長がNHKラジオを通じて中止を発表している。GHQはこの動きにより左翼勢力の伸長法を阻止しようと48年にレッド・パージを始め、共産党系の新聞人が職を追われる。

 1951年、占領終了により追放された新聞人全員の処分が解除される。正力松太郎を始め多くがジャーナリズムに復帰する。ドイツでは戦争責任のけじめをつけるために全紙が一旦廃刊した上で、再出発している。それに比して、日本の新聞における戦争責任の明確化は不十分に終わる。

 鈴木東民は、その後、自由懇話会理事長や民主主義擁護同盟常任委員を務める。共産党に入党、衆院選や参院選に出馬したが落選、労働者農民党に移っている。1955年、故郷の釜石市の市長に選出、政治家に転身する。67年の市長選で敗北、その後釜石市議を一時務めている。

 現在の読売の紙面変種の問題もこうした背景を抜きにして考えることはできない。民主化運動として編集権が新聞社の争議のテーマに捉えられる。しかし、逆コースの中で編集権が経営者に属すると定着している。

 インボデンは編集権を経営者に認めたが、実はその前提がある。彼は地域に根差した小さな新聞が多種類発行されている状態を望ましいとしている。戦前、日本各地で多種多様の新聞が発行されている。しかし、政府は戦時下に言論統制の一環として一県一紙制を構築する。いわゆる県紙がそこで生まれる。

 戦時下の言論統制は比較的容易である。当局が新聞社や出版社に紙を供給しないと脅せばよい。紙は物質であるから、その管理統制も役人仕事に適している。当局が紙の話を持ち出せば、新聞の廃刊・統合も進められる。

 インボデンはこうした独占・寡占体制を批判し、競争的新聞市場の必要性を日本国内で説いて回っている。全国紙など彼には論外である。現在まで続く一県一紙は編集権以前に健全なジャーナリズムではないというわけだ。

 ある経営者が新聞を特定イデオロギーの広報手段として編集を編集したとしよう。政府に対する市民の抗議デモや政治家・官僚のスキャンダル、企業の不祥事は掲載されていない。けれども、他の新聞にはそれらが載っている。市民がどちらを買うかは明らかだ。多くの新聞が発行されていれば、相互に牽制・監視するので、社会に背を向けるものは淘汰されていく。

 けれども、一県一紙制ではこのメカニズムが働かない。もともと言論統制の体制であるから、エキセントリックな経営者が編集権を恣意的に行使しても、その新聞が淘汰されるとは限らない。経営者の暴走を抑止できない。

 もちろん、一県一紙制を崩そうとする新聞人も登場する。けれども、なかなかうまくいかない。既存の新聞社にすれば、競争的市場でない方がありがたいから、当然、妨害する。また、読者にしても宅配制により新聞をスイッチすることに消極的だ。

 戦後の新聞では編集権が経営者に属すると確認されただけではない。一県一紙制という戦時下の言論統制の体制も維持される。唯一の例外は米統治が続いた沖縄である。ここでは有力紙が複数あり、健全なジャーナリズムが活動している。

 近代は政教分離を基本原理とする。政治を公、信仰を私の領域に分け、相互干渉を認めない。それにより、価値観の選択が個人に委ねられ、その多様性が社会の前提である。言論の自由は価値観の多様性の確保に欠かせない。政府が立憲主義を守っているかを監視し、国民の知る権利に応え、第三者を保護するために新聞の役割が欠かせない。

 と同時に、第4の権力と呼ばれる新聞委も同様のことがいえる。新聞が真に役割を果たしているかを他が監視・牽制しなければならない。そのためには、多種多様の新聞が読める環境の整備が必要だ。多種類の新聞が入手できる状況が価値観の多様性を保障する。新聞をめぐる環境がそうでなければ、自由で民主的な社会の持続は難しい。

 今起きている読売紙面の問題は同社に限定されるものではない。言論統制の体制から脱却できずにいる新聞が招いた状況である。
〈了〉
参照文献
柏倉康夫他、『日本のマスメディア』、放送大学教育振興会、2007年
野尻民夫、「読売新聞の元北京総局長がナベツネ忖度体制の記事潰しを告発!『読売は中国共産党に似てる、日本の人民日報だ』」、『リテラ』、2016年6月11日
http://lite-ra.com/i/2016/06/post-2328-entry.html


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