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昔ばなしの中のきつねとたぬき(2017)

昔ばなしの中のきつねとたぬき
Saven Satow
Oct. 27, 2017

「大丈夫ですよ。お父様はあれでなかなかのたぬきです。そうやすやすとは詰め腹など切らされるもんですか」。
黒澤明『椿三十郎』

 政界で「たぬき」と言うと、竹下登元首相のような調整役の政治家をこれまでは指したものです。永田町界隈に食えないたぬきが夜な夜な徘徊し、多くの関係者の利害を複合的に調節して難題を処理するといった具合です。

 ところが、最近、「たぬき」は小池百合子東京都知事の比喩と広く世間に浸透しています。これは「小池」という姓の有力政治家が彼女以外にいるからです。もう一人の「小池」は小池晃共産党中央委員会政策委員長です。両者を区別するために、それぞれのイメージカラーの赤と緑が東洋水産のカップ麺「赤いきつね」と「緑のたぬき」と対応するとして利用されます。「赤いきつね」が小池委員長、「緑のたぬき」が小池知事というアナロジーです。

 もっとも、「緑のたぬき」と違い、「赤いきつね」は定着していません。きつねやたぬきは伝統的に人間を化かす動物とされています。「たぬき」が浸透したのは、小池知事が希望の党合流事件をめぐって有権者や政治家を騙した印象があるからでしょう。一方、赤い小池は、議席減覚悟の上で、市民との約束を守ると誠実に野党共闘路線を貫いています。とても小ずるい「きつね」と呼べません。

 ただ、この比喩は、日本の昔ばなしの伝統から見ると、適切ではありません。女のたぬきは主役ないし主役級で登場しないからです。

 きつねとたぬきは昔ばなしに最も登場する動物に分類できます。いずれも変身する能力を持っています。ただし、きつねとたぬきが共に登場する物語は少数です。現われるのはきつねかたぬきのいずれかです。どちらが登場するにしろ、大部分はキャラクター設定や内容が共通しています。

 きつねやたぬきの中心的キャラクターが子どもや大人、年寄りのいずれもあります。また、単独や恋人、友人、家族、集団といったすべての設定があります。さらに、内容も人間を騙す話、騙された人間が反撃する話、人間と動物の垣根を超えて交換する話などです。喜劇も悲劇もペーソスもあります。

 言うまでもなく、違いもあります。行動の相違から適切な方が登場する場合があります。たぬきは腹鼓を叩きます。一方、きつねは狐火を出します。物語にこうした行動が必要であれば、それに沿ってどちらかが現われます。証城寺に伝わる狸囃子の昔ばなしが一例です。これはきつねでなく、たぬきでなければなりません。

 他方、稲荷信仰と関連する昔ばなしは狐でなければなりません。稲荷は八幡に次いで日本で二番目に多い神社です。その稲荷の神使ですから、この信仰が関わる物語では、きつねが登場します。ちなみに、たぬきも祀っている神社はありますが、全国展開していません。

 知的能力の相違の場合もあります。知能はたぬきよりきつねが高いとされています。たぬきは知的好奇心が強く、滋賀県に伝わる『たぬきの手習い』のように、その学習意欲を扱った物語があります。一方、きつねは人間に倣って勉強をするという話はあまりありません。けれども、人間に引けを取らない知能を発揮します。石川県に伝わる『高坂狐』が好例です。これは和尚に戒名の誤字を指摘する化け狐の物語です。

 最も異なっているのは、きつねが人間と夫婦になる話はありますが、たぬきにはそれがない点です。たぬきの昔ばなしは中心となるのが男です。母や妻などが出てきても、彼女たちはあくまで脇役です。一方、きつねは男女いずれも主役ないし主役級で登場します。ですから、愛知県に伝わる『きつね女房』のように、きつねが人間の男と夫婦になる物語があるのです。人間ときつねの夫婦物語は、民話に限らず、葛の葉伝説として人形浄瑠璃や歌舞伎でも扱われています。

 なお、昔ばなしにおける人間以外の存在と人間の女の結婚は、誘拐婚など強制的結婚が一般的です。

 もちろん、化けるのはきつねやたぬきだけではありません。動物や植物、超自然的存在も人間に化けます。ただ、きつねやたぬきの昔ばなしは騙す=騙されることに限定していますが、それ以外ではその限りではありません。

 猫も年老いると、化けるようになるとされます。化け猫は主人を食い殺したり、呪い殺そうとしたりします。老婆を食い殺してなりすました化け猫が人食いを続けようとした宮崎県に伝わる『赤猫』が一例です。また、信仰の対象となっている古木も人間に変身します。そうして、困窮する人を助けたり、罰当たりな人を祟ったりします。例えば、新潟県に伝わる『東光寺のけやき』では、けやきが人間に変身し、信心深く、貧しく病に苦しむ親子のために、遊行上人のお札を代わりに受け取ってくる物語です。

 そうした物語と比較すると、化けると言っても、きつねやたぬきの昔ばなしは、概して、いたずら程度です。騙す=騙されることをめぐる社会的メッセージだと理解できます。人間は騙されやすいものです。用心していても、騙されることも少なくありません。昔ばなしはそうした警告をしています。

 魔性のきつねやたぬきの昔ばなしがまったくないわけではありません。大分県に伝わる『ポンポコタン』には、人間の魂を奪って長生きするたぬきが登場します。しかし、全体から見れば、魔性のきつねやたぬきの物語は多いと言えません。

 また、騙そうとしても、うまくいかず、恥をかいたり、ひどい目に遭ったりすることもあります。だから、人を騙すなんてことなどやめなさいという諭しもそこにあります。

 さらに、騙されたからと言って、怒りに任せて騙した相手に過剰な制裁を加えてはいけないとも説いています。神奈川県に伝わる『おんぶ狐』という昔ばなしがあります。みなしごの子ぎつねが村人を騙しておんぶしてもらういたずらを繰り返しています。それに腹を立てた村人は子ぎつねを殺してしまいます。しかし、村人たちはやりすぎたと後悔し、稲荷神社を建立します。

 子ぎつねは殺されるほどのことをしていません。愛情を求めていたずらをしていただけです。そんな子ぎつねの孤独を理解してやれなかったと村人たちは悔いるのです。

 この昔ばなしは、騙す=騙されるという関係を乗り越えた心の通じ合いの大切さを語っているとも理解できます。こうしたメッセージをより強調した物語もいくつかあります。その関係を認知した上で人間ときつねやたぬきとの垣根を超えた心の交流をメッセージに据えた昔ばなしがあるのです。一例として大分県に伝わる『白狐の大芝居』を紹介しましょう。

 大分県の長岩屋に、お常という祭好きのお婆さんが住んでいます。稲刈りの終わったある日、お常さんは白丸峠を超えた真玉(またま)の浜へ出かけます。お常さんは、そこで、祭を楽しみ、手にはお土産を持って、家路につきます。峠の夜道を帰る途中、どこからか祭太鼓の音が聞こえ、提灯を持った人々の行列を見かけます。その人たちは峠の芝居小屋に芝居を見に行くとお常さんに言います。

 芝居好きのお常さんは一幕だけ見ていこうと小屋に入ります。ちょうど忠臣蔵の判官切腹で、田舎芝居とは思えないほどの演技が繰り広げられています。あまりの名演に見入ってしまいます。観劇中、他のお客から美味しいいなり寿司や牡丹餅を勧められます。

 最後の演目は『蘆屋道満大内鑑』、いわゆる「葛の葉」です。これは今までにも増した名演技で、客席のあちこちからすすり泣く声が聞こえ、お常さんも涙を流します。芝居が終わって小屋を出ると、もう夜は白々と明け、お常さんは足早に家に帰ります。

 この話を嫁にすると、きつねに化かされたに違いないと言われます。芝居は「白嬢」というきつねの仕業、いなり寿司は馬糞、牡丹餅は牛糞だというわけです。

 白嬢はこの地方で有名なきつねです。上真玉(かみまたま)の白丸の白嬢は、真玉の赤坂の赤嬢や草地猫石の猫嬢と並び、「三嬢(さんじょう)」と呼ばれています。

 納得できないお常さんは、その夜、白丸峠に足を運びます。昨夜と同じく、祭太鼓の音がします。ただ、近寄らずにそっと様子を見ると、芝居小屋などありません。行列の提灯は狐火で、芝居をしているのは白きつねです。けれども、きつねの演じる芝居はやはり感動的です。お常さんはまた見入ってしまいます。

 『葛の葉』を見てきつねの観客がむせび泣くのも当然でしょう。それは、言わば、ニューヨークで『屋根の上のバイオリン弾き』を公演するようなものです。

 この芝居は三嬢が協同で催していたようです。きつねたちはお常さんをかつごうとしていたわけではありません。芝居を一緒に見て欲しかったに違いありません。だから、馬糞や牛糞を食べさせてもいなかったでしょう。お常さんはそんなきつねたちの気持ちに思いを寄せるのです。

 以上のような物語です。『葛の葉』は人間ときつねの垣根を超えられなかった悲劇です。芝居は役者と観客が騙す=騙される関係を承知した上で、作品世界を共有する者です。感動はそこから生じます。きつねの演じる『葛の葉』をきつねと共に人間が見て涙を流しています。それは葛の葉伝説で叶わなかった人間ときつねの垣根を超えた交感です。あるいは他者との共生とも理解できます。

 小池知事の選挙をめぐる一連の振る舞いをメディアは「小池劇場」としばしば言い表します。サプライズや派手な演出などからそう評されるのでしょう。しかし、「劇場」と言いながら、そこに騙しはあっても、市民との心の通じ合いがありません。きつねやたぬきの昔ばなしに遠く及ぶものではないのです。

 そう考えるなら、小池知事が「たぬき」と呼ばれることもあながち見当外れでないかもしれません。昔ばなしにいないたぬきだから化けの皮がはがれ、市民から相手にされなくなっています。結局、その中身はたぬきではなく、空っぽなのです。
〈了〉

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