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内閣官房と現代日本政治(2008)

内閣官房と現代日本政治
Saven Satow
Jun. 05, 2008

「例えば政策に関するような問題について談話を出すという場合には、秘書官が、その政策を担当する各省の担当者と打ち合わせをしてやる。それから、内閣全体に関係するような問題については、官房長官が主体になって、内閣参事官や内閣審議官なんかといっしょにつくる。官房副長官ももちろん入っとるけどね」。
村山富市『そうじゃのう…』

 国家公務員制度改革法案が2008年6月の第一週にも参議院で可決され、成立する見込みとなっている。その中に、局長以上の人事を内閣官房の人事局が担い、官房長官が人事の原案を作成するという内容がある。内閣官房の権限がさらに強化され、霞ヶ関を押さえ込めるかどうかは官房長官の認識と政治力にかかっている。

 一般的には官房長官は定例の記者会見をして、「何様?」と言いたくなるような口ぶりの国務大臣としか思われていないかもしれない。しかし、現代の日本政治を考える際に、内閣官房はこれからも最も重要度が増していく機関と言って間違いない。

 福田康夫首相は官房長官の就任機関歴代一位の経歴がある。また、いわゆる増税派の与謝野馨前官房長官と上げ潮派の中川秀直元自民党幹事長の間で激しい政策論争が繰り広げられているが、両者とも官房長官経験者である。与謝野前長官に至っては、入院中の安倍前首相に代わって、事実上の首相を務めている。

 官房長官はかつては有力若手政治家が将来性を見こまれて抜擢されるポストである。第二次吉田茂内閣の佐藤栄作官房長官や第一次池田勇人内閣の大平正芳官房長官、第三次佐藤栄作改造内閣の竹下登官房長官はその好例であろう。

 それが変わったのは中曽根康弘内閣の後藤田正晴官房長官からである。後藤田官房長官がいなければ、中曽根内閣の行政改革は頓挫し、短命政権で終わっていただろう。彼は中曽根首相の独断的なトップダウンを斥け、ハリー・S・トルーマン政権下のジョージ・マーシャル国務長官のような存在である。中曽根首相のリーダーシップは政策の調整を官房長官に委任し、その結果に従うということで発揮されている。

 すでに故人であるにもかかわらず、官房長官と言えば、今でも後藤田正晴の姿が浮かぶ人も多いに違いない。霞ヶ関に睨みをきかせ、首相が暴走しそうになるとそれを諌めるという実務性と道徳性もさることながら、官房長官ならびに内閣官房の向かうべき方向を示したからである。その意味で、現代日本政治は後藤田正晴の政治の圏内にある。

 以降、例外もあるが、梶山静六や野中広務、青木幹雄などを代表に大物政治家が官房長官に就任している。

 1990年代から連立政権の時代に突入する。小泉純一郎首相を除き、どの政権も長続きしない。しかも、90年代前半の首相のほとんどに幹事長経験がなく、与党間調整を官房長官と与党幹部に任せざるを得ない。それは必然的に首相のリーダーシップを弱くする。

 1990年代を首相官邸から見ると様相は違って見える。この時期、首相官邸はたった二人の霞ヶ関出身の官房副長官が就任していただけである。旧自治省出身の石原信雄官房副長官は7年(1987~95)、旧厚生省出身の古川貞二郎官房副長官は8年(1995~2003)も務めている。

 官房副長官はそれまで政権が交代すると、新たに任命されるのが常である。ところが、この二人は数代の政権に亘って職務を続けている。これは日本政治が継続的な課題に直面し、技術的に処理する必要に迫られていたことを意味する。失われた10年と呼ばれる長期の経済停滞や政治改革、行政改革など各種の改革は、それぞれの政権を超えて何とかしなければならない。

 80年代が官房長官の地位が上昇した時代だったとすれば、90年代は官房副長官がそうなったと言える。内閣官房の人事が首相以上に重要になっている。2001年の1月から、首相の指示で内閣官房・内閣府が自ら原案を作成し、各省に提示してとりまとめられることになる。2000年代は内閣官房全体の権限が強化され、地位が上昇していく時代と言っても過言ではない。

 この時期に官房長官を務めていたのが福田首相である。彼は、2004年4月に、「かつての官邸は政局対応7、政策3だった。今は政局対応が3、政策7.政策はしんどい」と言っている。もはや内閣官房は省庁や与党間の調整役でだけではない。気心が知れているからとか昔からいろいろしてくれたからなどという理由で首相が官房長官を選ぶことはできない。そのような甘っちょろい考えでは、たちまち内閣は立ち行かなくなってしまう。内閣の中で最強の人物を登用すべきである。内閣官房の顔ぶれを見れば、その政権の政策実施能力がある程度判断できると考えても差し支えない。政治のニュースに触れたとき、それを内閣官房から見てみるのはとても意義深い。

 内閣府の肥大化は場当たり的な政策を招く危険性もある。各省庁が長期的な展望に立って実施している政策を内閣が支持率を上げたいがために、安易に変更してしまう。安部内閣の教育・労働政策はこうした目先の利益にとらわれたもので、無責任極まりない。

 安倍内閣は補佐官制度を導入するなど官邸主導の意味を取り違えている。塩崎恭久官房長官と小池百合子補佐どの間で権限をめぐって対立が生じ収拾がつかなくなったのはその一例である。安倍内閣の閣僚の多くがそのまま残ったため、「居抜き内閣」と揶揄された福田政権であるが、官房長官と副長官は交代している。福田首相は、官房長官に派閥の領袖である町村信孝前外務大臣を選び、旧大蔵省出身で、イデオロギー傾向の強い的場順三から小泉内閣の官房副長官だった旧自治省出身の二橋正弘に戻している。もっとも、「無策」としばしば指摘されている通り、その福田内閣も内閣官房を十分に使いこなせてはいない。福田首相が今欲しいのは福田康夫官房長官かもしれない。首相も内閣官房の人事によってその識見が問われるようになっている。

 内閣官房の強化は硬直・腐敗した官僚機構との闘いと政権交代を含めた政治の流動化という状況が求めた一つの方向である。この傾向が続く限り、今の流れはさらに強くなっていくだろう。中曽根内閣以前は官房長官に就任させて将来の首相の育成を行ったものだが、今日では、政権を狙う政党は官房長官に適任の人材も育てなければならなくなっている。新たな後藤田正晴を探すというのが現代日本政治の欠くべからざる課題である。
〈了〉
参考文献
天川晃他、『日本政治外交史』、放送大学教育振興会、2007年
村山富市、『そうじゃのう…―村山富市「首相体験」のすべてを語る』、第三書館、1998年


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