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民主主義の生み出した民主主義の例外(2013)

民主主義の生み出した民主主義の例外
S aven Satow
Dec. 11, 2013

「イギリス人が自由なのは選挙をする時だけで、選挙が終わればかれらの奴隷になってしまう」。
ジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』

 組織の指導者が構成員へ自分への忠誠心を求めるようになったら、それは弱体化の兆候である。この過ちを犯したのがインディラ・ガンディーである。彼女は、1970年代、インド国民会議派内における権力基盤を強化するため、役職を任命制に変更する。この中央集権化は自分への忠誠心を集めること、すなわち私党化を目的にしている。

 インディラは、自分を脅かすことがないように、政治力の弱い人物を意図的に州首相に任命する。これは党内外の不満を高めてしまう。内部では、実力のない人物がポストを得られたため、同じように無能な者もそれを求め始め、能力のある人物ほど遠ざけられる。外部では、こうした州首相の下では統治能力が低下する。インディラへの威信は高まる反面、会議派の党勢は縮小していく。

 会議派が党勢を飛躍的に拡大したのは、1920年代のマハトマ・ガンディーによる改革である。彼は非常に優れた組織運営者で、その改革の柱は大きく二つある。

 一つは地域代表の条件から英語の識字力を外したことである。従来、会議派は英国の行政単位に従って組織編成されている。そのため、英語が話せないと、会議派内で昇進できない。ガンディーは組織編成を言語代表に修正する。これにより、現地語しか話せない土着のエリートも党内で出世できる可能性が生まれる。門戸が広く開放され、組織のすそ野が広がっていく。

 もう一つは役職を党内選挙による選出にしたことである。選挙で勝つには党内の支持基盤を固めなければならない。票が足りないのなら、新たに党員を勧誘すればよい。その有力者は党に入り、自分を支持してくれれば、メリットがあると説くだろう。一度党勢が拡大し始めれば、正のフィードバックが働く。選挙制導入が党内のダイナミズムをもたらしている。

 単純な変更であるが、これは非常に効果的で、以降、会議派はインド最大の政党へと成長していく。マハトマ・ガンディーのオーガナイザーとしての能力はもっと知られてよい。

 インディラは、自分の権力祈願強化のため、このダイナミズムを台無しにする。自らの属する組織を私物化した指導者は統治機構も同様に扱う。71年の総選挙でインディラ派は圧勝、彼女は国家を私物化できる議会勢力を手にする。もちろん、有権者はその後の強権政治をまさかという思いでいただろう。

 75年、インディラは自分の選挙違反問題をきっかけにして非常事態宣言を発令して強権的統治を運用する。以後、2年間、インドでは基本的人権が侵害され、民主主義的手続きが停止される。野党指導者の多くが逮捕・拘留される。この時期はインドの民主主義の例外と呼ばれている。

 地方政府には非会議派政権もあったが、インディラは大統領直轄統治を利用して、解任してしまう。連邦制のインドの地方政府に中央の傀儡政権が誕生する。短期的には彼女の勝利と思われたが、地域主義を刺激し、80年代に入ると、地域政党が台頭する。それらは地方の会議派支配のみならず、中央での勢力をも大幅に殺ぐことになる。

 インディラの強権手法はまだまだあるが、これくらいにとどめよう。8410月、インディラはシク教徒によって暗殺される。それはシク教徒の聖地黄金寺院の破壊に対する報復である。

 インディラは、自分への威信を高め、個人的人気を利用して、選挙を含め短期的に勝利したことは確かである。しかし、インドの政治史を顧みる時、認めがたい時期として扱われている。民主主義を踏みにじったツケは大きい。また、国民会議派は、地方ではもはや存在感が弱く、中央でこそ第一党であるが、全議席の4分の1を占めているだけである。インドの直面する問題よりも自分の権力を強化し、その権限を行使することを優先したというのがインディラの統治と要約するのは決して乱暴ではないだろう。

 見逃してはならないのはこれが民主主義国家で起きたことである。今、同じ轍を踏もうとしている国が東アジアにある。暴政の兆候は恣意的な人事である。
〈了〉
参照文献
堀本武功他、『現代南アジアの政治』、放送大学教育振興会、2012

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