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モラル・ジレンマとマイケル・サンデル(2010)

モラル・ジレンマとマイケル・サンデル
Saven Satow
Aug, 08. 2010

「世の中、わからんことが多いですねえ。いい世の中ですねえ」。
森毅『疑問を大切にあたためておく習慣が「考える力」を育てる』

 さまざまなジレンマを教授が1000人ほどの学生たちに投げかけ、それをめぐって討論が白熱する模様がテレビに映し出される。『ハーバード白熱教室』で放映されるハーバード大学のマイケル・サンデル教授の講座「正義」の光景である。彼の著書『これからの「正義」の話をしよう』は15の言語に翻訳されて、日本では22万部を超えるベストセラーとなっている。

 教授が問いかけるジレンマは実際の事件や出来事、メディア上の架空の話など多岐に亘っている。その一つが裁判所でも判断が分かれた「ベビーM訴訟」のよう事例である。

 不妊に悩むスターン夫妻は、2児の母メリー・ベスを代理母として高額な報酬を条件に契約を結んだが、出産後、代理母は子どもに愛着を抱き、引渡しを拒否、夫妻は提訴する。さあ、あなたが裁判官だったら、この契約は有効か無効かどう判断するか?

 こうしたサンデル教授の試みは故ジョン・ロールズ教授への批判が込められている。彼はハーバード大学で60年代から40年に亘って教鞭をとり、1971年に公表した『正義論』は現代政治学の共通基盤となっている。この本を抜きいして政治哲学は考えられない。

 教授は、自由で平等の人々が道理にかなった合意形成をできる社会正義の原理は何かを問い、『正義論』で「無知のベール」と呼ばれる次のような思考実験を提示する。もし道徳的価値観や性格、身体能力、相続財産、地位など自分自身に関する偶然的かつ特殊な属性について「無知のベール」を被っていて認知しておらず、その上で社会をめぐる一般的な事実だけをしていたら、人は二つの原理を選択するだろうと指摘している。

 第一原理は、各人平等に最大限の基本的権利を保障すべきであるという自由な平等原理である。第二原理は、社会的・経済的な不平等が赦されるのは機会均等原理と格差原理の二つの条件を満たしていなければならないというものである。前者は職務や地位がすべての人に開かれていることであり、 後者はそれが最も不遇な立場にある人の利益を最大にすることである。第一原理は第二原理に優先し、機会均等原理は格差原理に優先する。この理論は福祉国家的自由主義と自律した個人という近代の理念を両立させる基礎付けを行っている。

 この現代的社会契約論に対していくつかの批判が寄せられている。サンデル教授もその一人である。すべてに中立的な正義を見出すことは不可能であり、また従前の道徳的束縛から完全に自由というわけでもないと考える。こうした主観性の強調は、政治哲学のみならず、哲学全般にも見られる機運である。ハンス・ゲオルク・ガダマーやポール・リクールなど解釈学は自らの主観性を自覚し、テクストと対話することを主張する。概して、保守的である。各個人が負うべき責任の範囲は自らの選択に限定するとして、サンデル教授は道徳的価値観をあえて議論に持ちこませ、ジレンマを学生たちに問いかける授業スタイルをとっている。

 この方法は、実は、決して新しいものではない。道徳教育で行われる「モラル・ジレンマ授業」である。日本でも中学校などですでに実践されている。それを提唱したのが、1960年代末から70年代にハーバード大学で道徳教育の第一人者として知られた故ローレンス・コール・バーグ教授である。

 教授は二つの選択肢のどちらを選んでよいのかわからないような道徳的ジレンマを提示し、世界各地でどういう反応があるかを調査している。その際、教授が着目したのはどちらの立場をとるかではなく、自身の判断をどのように理由付けるかである。

 最も有名なのが次の「ハインツのジレンマ」である。

 「ヨーロッパで一人の婦人がたいへん重い病気のために死にかけていた。その病気は特殊な癌だった。彼女が助かるかもしれないと医者が考えるある薬があった。それはおなじ町の薬屋が最近発見したラジウムの一種だった。その薬の製造費は高かったが、薬屋はその薬を製造するのに要した費用の10倍の値段とつけていた。かれはラジウムに200ドル払い、わずか一服分の薬に2000ドルの値段をつけたのである。病気の婦人の夫であるハインツはあらゆる知人にお金を借りに行った。しかし薬の値の半分の1000ドルしかお金を集めることができなかった。かれは薬屋に妻が死にかけていることを話し、薬をもっと安くしてくれるか、でなければ後払いにしてくれるよう頼んだ。だが薬屋は『だめだ、私がその薬を発見したんだし、それで金儲けをするつもりだからね』と言った。ハインツは思いつめ、妻のために薬を盗みに薬局に押し入った」。

 コールバーグ教授はジャン・ピアジェの発達心理学の拡張としてこの道徳教育論を展開しているため、その理由付けを3つのレベル6つのステージに整理している。

 第一ステージは、罰を避けることや力のある人には従うことが正しいとされる「罰と服従の志向(Obedience and punishment orientation)」である。第二ステージは、役に立てば正しいという「道具主義的相対主義志向(Self-interest orientation)」である。この二つのステージは「慣習以前(Pre-Conventional)」のレベルにある。

 第三ステージは、周囲からよく思われる判断をする「良い子志向(Interpersonal accord and conformity)」である。第四ステージは、法と社会秩序を維持することが絶対に正しいとする「法と秩序の志向(Authority and social-order maintaining orientation)」である。この二つのステージは「慣習的(Conversional)」なレベルにある。

 第五ステージは、法とて人間のためにあるのであって、不備があるなら合議を経て修正できるという「社会契約的法律志向(Social contract orientation)」である。第六ステージは、法で定められているかどうかは問題ではなく、より普遍的な倫理原理に基づいて道徳的判断の理由付けを行う「普遍的倫理的原理の志向(Universal ethical principles)」である。この二つのステージは「慣習以降(Post-Conventional)」のレベルにある。

 モラル・ジレンマ授業はこの道徳性の発達理論の基づき、ステージを一つ一つ高めていくための方法である。他人の意見を聞くことで、自分の考えを相対化し、道徳的に向上させようとする。サンデル教授はモラル・ジレンマから発達段階論の側面を抜いて政治哲学に拡張したと言える。

 モラル・ジレンマには道徳的価値観の葛藤と共に心理的葛藤が伴う。けれども、後者に焦点を当てるような資料選択は避けなければならない。と言うのも、心理的ジレンマが道徳的ジレンマになるとは限らないからである。人間の心の弱さを気づかせることが目的ではない。心理葛藤に資料が傾いていると、モラル・ジレンマ授業としては失敗する。「どうしたいか」ではなく、「どうすべきか」を葛藤するのがモラル・ジレンマだからである。

 先に挙げた代理母のジレンマでも当事者ではなく、裁判官としてどう裁くかという設定が重要である。当事者たちでは欲求があまりに前面に出てきて、当為が見失われてしまう。ここがモラル・ジレンマのポイントである。サンデル教授は、この点で、非常に巧みである。

 また、勝ち負けを競うディベートに陥らないようにも注意しなければならない。勝敗を争わないからこそ、議論に幅が生まれる。

 モラル・ジレンマは真理に到達することを目指す伝統的な哲学の問答や対話とは違う。授業を行う際に、そのため、次の4点に留意する必要がある。

 第一にどちらの選択肢をとってよいのかわからないような資料を選ぶこと。第二に、それがあくまでも道徳的価値観の葛藤の問題であること。第三に最後に解答を示さないオープン・エンドであること。第四に議論が白熱する面白さを持っていること。

 もっとも、モラル・ジレンマ資料の選択がよければ、議論は白熱化する。と言うのも、答えのないジレンマを論じる以上、本音と建前を使い分ける必要がないからである。イマヌエル・カントは『純粋理性批判』において理性は納得のいく解答を見つけるまで働きを続けると言っている。モラル・ジレンマが「理性の道徳教育」と呼ばれるのも、そのためである。面白くなければ学ぶ気がしないということもあるから、道徳教育においてモラル・ジレンマ授業はその点で非常に効果的である。

 ただ、道徳的規範を教えこむ場面には向かないという弱点もある。また、ある事例で下した判断が他の場合との整合性を確認し難いこともありうる。それに、発話の苦手な人にはなかなかうまくできない。そもそもある理由付けで選択肢のどちらかを選ぶことだけが道徳でもないだろう。

 とは言うものの、モラル・ジレンマは道徳的判断力の育成には非常に効果的である。若者が本音と建前を使い分けることなく、道徳的葛藤の中、答えのないジレンマを悩み、判断力を向上させるむというのは教育的である。実際、サンデル教授が実例を用いているように、そういう場面に直面することがないとも限らない。

 教育ということに関してなら、学校という機関が、ものごとをわからせる装置になりさがりすぎていると思う。わからせることに一途になりすぎ、わからせたことで満足したがる先生が多すぎる。親のほうも、学校や塾で、なんでもわからせてもらえると期待しすぎ。lまあ、先生や親なんかどうでもいいが、当の子どもがわからなさへの耐性がなくなり、わからぬことを楽しむ能力を失っていくのが困る。
(森毅『疑問を大切にあたためておく習慣が「考える力」を育てる』)

 もっとも、故河合隼雄教授や故森毅教授のような京都に棲んでいた食えないタヌキが、サンデル教授の発するジレンマに対して、どう答えるかを想像する方がもっと教育的かもしれない。

 もちろん、選択肢というものは、ある時点で一つの道にふみださねばならない。その場合も、もう一つに道をよく知った上でのほうがよい。その道を進んでいるときも、ほかの道の存在を意識していたほうが良く進める。どちらの道が正しくて、他の未知を考えなくても良い、というのは知的怠惰でしかない。そして、どちらの道に進もうとも、うまく進むことがなにより大切なのだ。
(森毅『迷ったら「どちらが正しいか」より「なぜ自分はそれを選ぶのか」を考えよ』)
〈了〉
参照文献
新井郁夫他、『道徳教育論』、放送大学教育振興会、2005年
小林良彰他、『新訂政治学入門』、放送大学教育振興会、2007年
森毅、『自分は自分「頭ひとつ」でうまくいく』、知的生きかた文庫、1998年

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