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The Legend of 1919─有島武郎の『或る女』(3)(2004)

三 船

 『或る女』は、後の客船文学を予感させるように、階級対立が描かれている。葉子とそれを監視する田川法学博士夫妻、彼女が一目惚れする船の事務長の倉地を中心に前編の物語が展開する。さらに、それにあわせて、モッブとして水夫が登場してくる。

 有島は、『或る女』の中で、水夫たちを次のように描いている。

 結びこぶのように丸まって、痛みの為めに藻掻き苦しむその老人の姿に引きそって、水夫部屋の入口までは沢山の船員や船客が物珍しそうについて来たが、そこまで行くと船員ですらが中に這入るのを躊躇した。どんな秘密が潜んでいるか誰も知る人のないその内部は、船中では機関室よりも危険な一区域と見做されていただけに、その入口さえが一種人を脅かすような薄気味悪さを持っていた。葉子は然しその老人の苦しみ藻掻く姿を見るとそんな事は手もなく忘れてしまっていた。(略)葉子はその老人に引きずられてでも行くようにどんどん水夫部屋の中に降りて行った。薄暗い腐敗した空気は蒸れ上るように人を襲って、陰の中にうようよと蠢く群れの中からは太く錆びた声が投げかわされた。闇に慣れた水夫達の眼は矢庭に葉子の姿を引っ掴まえたらしい。見る見る一種の昂奮が部屋の隅々にまで充ち溢れて、それが奇怪な罵りの声となって物凄く葉子に逼った。たぶたぶのズボン一つで、筋くれ立った厚みのある毛胸に一糸もつけぬ大男は、やおら人中から立ち上ると、ずかずか葉子に突きあたらんばかりにすれ違って、すれ違いざまに葉子の顔を孔の開くほど睨みつけて、聞くにたえない雑言を高々と罵って、自分の群れを笑わした。

 老水夫が怪我をしたとき、葉子は、「ランプを持つ少女」ことフロレンス・ナイチンゲールさながらに、一等船客や下級船員が見下す水夫部屋まで降り、介抱する。彼女がこの部屋に入るのはそこが暴力とエロティシズムの雰囲気が漂うタブーだからである。葉子はお上品な船客や鼻持ちならない船員たちだけではなく、船底の水夫たちの間でも話題になる。けれども、葉子をとりまくブルジョアやインテリは自己欺瞞によって彼女に好意をよせるのに対し、水夫たちは性欲の対象としか見ていない。彼女はブルジョアの欺瞞を軽蔑し、そのモラリティに反する行動をとり続け、田川夫妻を怒らせる。

 この蒸気船の中は、葉子や倉地、田川夫妻、水夫が代表する三つの階層にわかれ、それぞれ自我、超自我、イドに対応するだろう。超自我による禁止の下、自我は奔放なエスを現実原則に則らせようと試みる。これは葉子の内部で働く圧縮=開放の葛藤であり、それが蒸気船内の階層対立に反映している。

 「偶然な社会組織の結果からこんな特権ならざる特権を享受した」(『小さき者へ』)自らの生まれを告げる有島は、『宣言一つ』において、階級闘争について次のように述べている。

 若し階級争闘というものが現代生活の核心をなすものであって、それがそのアルファでありオメガであるならば、私の以上の言説は正当になされた言説であると信じている。どんな偉い学者であれ、思想家であれ、運動家であれ、頭領であれ、第四階級的な労働者たることなしに、第四階級に何者かを寄与すると思ったら、それは明らかに僣上沙汰である。第四階級はその人達の無駄な努力によってかき乱されるの外はあるまい。

 有島の階級意識はフランス革命のイデオロギーに忠実である。「第四階級(The Forth Estate)」はフランス革命時の聖職者・貴族・平民に次ぐ新興勢力を意味している。今日では、「第四の権力」などジャーナリズムを指すが、当時は、プロレタリアートとして用いられている。

 一七八九年、アベ・シェイエスことエマニュエル・ジョセフ・シェイエス(L’abbe Emmanuel Joseph Sieyes)が『第三身分とは何か?(Qu' est-ce que le tiers état?)』を書き、「第三身分とは何か?すべてである。何があるか?無である。(Qu' est-ce que le tiers état? Tout. Qu'a-t-il été ? Rien.)」と主張している。第一身分の僧侶、第二身分の貴族といった特権身分に対する身分が第三身分である。有島は、つねに、受容した思想に対して原理主義的傾向をとるが、階級に関しての同様である。

 「第四階級的な労働者」ではない葉子は、高邁な理想の下に、水夫たちに接するわけではない。「第四階級に何者かを寄与する」のが目的ではなく、イドの世界であり、禁じられているために、彼女はそこに赴く。有島の「階級争闘」は階級という集団間の闘争を意味しない。それは各階級の間にあるタブーを確かめ、破る行為である。階級はタブーによって規定されるが、タブー破りという個人の「争闘」によってアイロニカルに確認される。

 葉子が「胸の下の所に不思議な肉体的な衝動をかすかに感じる」倉地に対し、有島は「猛獣のような」や「好色の野獣」、「粗暴」、「insolent」と形容している。こうした表現は彼女や有島がキリスト教徒ということで初めて意義がある。三島由紀夫のようなセム系の一神教とは無縁な作家が同様の比喩を使ったとしても、それは空疎になってしまう。と言うのも、これは進化論によるキリスト教批判だからである。「人間は大げさな議論をするが、その大半は空虚で意味がない。動物は僅かな議論しかしないが、それは有益で真実を含む。大きな無意味より、小さな確実を私は選ぶ」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)。

 進化論は、キリスト教にとって、スキャンダルであり、排除しなければならない。創造論を支持するウィリアム・S・クラークは、アメリカの学会で、進化論派との論争に敗れ、失意のうちに、札幌農学校の教授になるべく日本へ渡っている。けれども、このいささかいかがわしい人物の思いに反して、日本は、彼の赴任した学校も含めて、進化論をすんなりと受け入れる。

 キリスト教は暴力とエロティシズムを忌避してきたが、ダーウィニズムはそのタブーを直視する。それらは進化に不可欠だからだ。「偶然なるものの中には、恒常的でない真実というものが存在している」とアリストテレスは『詩学』の中で言ったが、一切のものは相互に関係の中にある。生成・変化の状態にあり、自然は流れゆく巨大な多様態である。「私は、生物と同様に生活している。そしてわれわれが日々の生活から受ける変化につれて変化する。これは当然のことである。何となれば、絵はこれを眺める人を通してのみ生きているのだから」(パブロ・ピカソ)。人間を知ろうとするには人間だけ考えていては不十分である。「人間の解剖は猿の解剖への鍵である」(カール・マルクス『経済学批判序説』)。

 見えない目標に向かって生物は生きなければならない。ダーウィニズム的時間は、動的な組織化によって、現在・過去・未来が総合的かつ活動的な関係をしている。「人間は克服されるべき何ものかである」(フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストゥラはかく語りき』)。

 この暴力とエロティシズムの傾向は、『カインの末裔』(一九一七)において、次のようにより強調されている。

 仁右衛門はまたひとりになって闇の中にうずくまった。彼は憤りにぶるぶる震えていた。あいにく女の来ようがおそかった。おこった彼にはがまんができきらなかった。女の小屋にあばれこむ勢いで立ち上がると彼は白昼大道を行くような足どりで、やぶ道をぐんぐん歩いていった。ふとある疎藪の所で彼は野獣の敏感さをもって物のけはいをかぎ知った。彼ははたと立ち止まってその奥をすかして見た。しんとした夜の静かさの中でからかうようなみだらな女のひそみ笑いが聞こえた。邪魔のはいったのを気取って女はそこにかくれていたのだ。かぎ慣れた女のにおいが鼻を襲ったと仁右衛門は思った。「四つ足めが」
叫びとともに彼は疎藪の中に飛びこんだ。とげとげする触感が、寝る時のほか脱いだことのないわらじの底に二足三足感じられたと思うと、四足目は軟かいむっちりした肉体を踏みつけた。彼は思わずその足の力をぬこうとしたが、同時に凶暴な衝動にかられて、満身の重みをそれに託した。
 「痛い」
それが聞きたかったのだ。彼の肉体は一度に油をそそぎかけられて、そそり立つ血のきおいに目がくるめいた。彼はいきなり女に飛びかかって、所きらわずなぐったり足蹴にしたりした。女は痛いと言いつづけながらも彼にからまりついた。そしてかみついた。彼はとうとう女を抱きすくめて道路に出た。女は彼の顔に鋭く延びた爪をたてて逃れようとした。二人はいがみ合う犬のように組み合って倒れた。倒れながら争った。彼はとうとう女を取り逃がした。はね起きて追いにかかると、一目散に逃げたと思った女は、反対に抱きついてきた。二人は互いに情に堪えかねてまたなぐったりひっかいたりした。彼は女のちぶさをつかんで道の上をずるずる引っぱっていった。集会所に来た時は二人とも傷だらけになっていた。有頂天になった女は一塊の火の肉となって、ぶるぶる震えながら床の上にぶっ倒れていた。彼は闇の中に突っ立ちながら焼くような興奮のためによろめいた。

 この移動労働者の小作人は農場主との階級対立によって凶暴化していく。血の濃い社会から生じるものではない。有島の暴力的な鼻つまみ者は一九五〇年代のマーロン・ブランドである。『欲望という名の電車』や『革命児サパタ』、『乱暴者』、『波止場』において、傍若無人なふてぶてしさ、不明瞭な発音、ラフな身なり、むせかえるような男臭さ、抑えきれない性的欲望、爆発する感情によって野性味に満ちた迫力ある演技を見せている。彼は封建制と近代の衝突ではなく、階級や世代対立の中で生きる若者を演じている。「肉体──それは今世紀の最も重要な発見である。二十世紀は自分の肉体を自ら示すことを決意した世紀である」(モーリス・ベジャール『自伝──他者の人生の中での一瞬』)。また、メソッド演技の天才は、海洋史上最も有名な反乱事件を描いた『戦艦バウンティ』の中で、館長ウィリアム・ブライの横暴さに不満を募らせた水夫たちに信頼されて、リーダーとなる副長フレッチャー・クリスチャンに扮している。

 有島の主人公も、同様に、和解の余地がない対立への不満から暴力とエロティシズムによってタブーを破る。それは、止揚される見込みのない階級闘争や世代間葛藤において、やむにやまれない。有島はイドの破壊力とその危険性を熟知している。自我は超自我の管理に抵抗し、次第に、イドに隣接していく。超自我の締めつけが厳しくなるほど、自我はイドに助けを求める。強く圧縮されれば、その開放も爆発的になる。有島自身は、『小さき者へ』において、自分の子供に「お前たちは遠慮なく私を踏み台にして、高い遠い所に私を乗り越えていかなければ間違っているのだ」と言い、そのうちの一人行光は森雅之として俳優になり、豊田次郎監督の『或る女』(一九五四)で倉地を演じている。

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