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英国国王とロンドン市長(2016)

英国国王とロンドン市長
Saven Satow
May, 09, 2016

「ロンドン市民が恐怖より希望を、分断より団結を選んだことを誇りに思う」。
サディク・カーン

 2016年5月5日に英国で統一地方選が実施され、7日、ロンドン市長に労働党の下院議員サディク・カーンが当選します。彼は貧困層出身の人権派弁護士で、パキスタン系移民2世のイスラム教徒です。欧州の主要都市の首長にムスリムが選ばれたことは史上初です。彼はゴードン・ブラウン労働党政権において初のイスラム教徒閣僚として交通担当相に任命されています。

 ロンドン市長の選出は2000年から公選制が採用されています。実は、欧州では非公選制の首長が珍しくありません。そのロンドン市長は英国の他の首長にはない象徴的行為を担っています。

 エリザベス2世は英国の女王ですが、首都のロンドンに自由に足を踏み入れることができません。入るためには、ロンドン市長のエスコートが不可欠です。サディク・カーン市長と一緒でなければ、エリザベス女王はロンドンに立ち入ることができないのです。

 この慣習はノルマン・コンクウェストにまで遡ります。1066年から1154年の間、イングランド国王は仏王臣下のノルマンディー公が務めています。この時期の王朝をノルマン朝と呼びます。

 1066年1月、エドワード懺悔王が逝去します。懺悔王には息子がいなかったこともあって、王位継承が混乱しています。懺悔王の王妃エディスの兄のハロルド・ゴドウィンソンが地元のサクソン諸侯会議の推挙を背景に王位に就きます。その彼はハロルド2世として即位しています。

 いささか強引な即位ですから、不満を持つ貴族たちも少なくありません。懺悔王の従甥にあたるノルマンディー公ギヨーム2世もその一人です。彼は懺悔王から後継者に指名されていたと主張しています。その際、彼はハロルドもそれを認め、聖骨の誓いをしたと付け加えます。ハロルドの即位はこの誓いを破ったのだから、無効だというローマ教皇アレクサンデル2世の承認も得ていると明らかにしています。

 継承をめぐる対立は武力衝突に発展します。ギョーム2世も配下のノルマンディー諸侯のみならず、フランス中から領地を求める小貴族の次男以下を募り、ブリテン島の南部に、上陸しています。

 歩兵中心のイングランドと違い、この遠征軍は騎兵を備えています。ノルマン軍はイスティングズの戦いでイングランドを破ります。ハロルド2世も戦死してしまいます。

 その後、ギョーム2世はロンドンに自分をイングランド国王に承認することを求めます。しかし、ロンドンはこの要求を拒否しています。ギョーム2世は回答に対する返答としてロンドンに攻めこむかに思われたのですが、迂回して進軍することを命じます。

 ギヨーム2世は北東部の各地を次々に攻め落とします。もはやこれ以上の抵抗は不可能と悟ったロンドンはイングランドの王位に就くことを承認すると彼に伝えます。ロンドンに入城したギョーム2世は、12月25日、ウェストミンスター寺院で戴冠、ウィリアム1世として即位しています。

 ギョーム2世がその気になればロンドンを武力で陥落させ、王位に就くことはできたことでしょう。けれども、彼は自ら即位を宣言するのではなく、ロンドンがそれを認めることを求めています。権力は権威によって保障されてその正統性が認められるからです。権力は自らだけでその正統性を示せません。

 ハロルド2世の王位は彼の地元の貴族たちの承認を根拠にしています。けれども、これは、イングランド全体から見れば、説得力に欠けます。一方、ギョーム3世はロンドンが即位を認めています。彼はノルマンディー公ですから、ロンドンは地元ではありません。

 もちろん、彼は武力で威嚇していますので、実質的には自発的了承を取り付けたわけではありません。しかし、少なくとも形式的にはギョーム2世はロンドンが認めたから王位に就いたと主張することができます。イングランド国王の権力を裏づける権威はロンドンにあるというわけです。

 英国国王がロンドンに入る際、市長のエスコートを必要とする慣習はこの出来事に由来しています。ロンドンが入城を認めてくれるから、自分は正統な英国の国王だと人々に訴えることができるのです。権力は権威の裏づけを必要とします。王権は自らを権威づけることができません。英国国王の権威を保障するのは今もロンドンです。

 ところで、天皇が東京に移ったのは明治維新以降です。王政復古が実現すれば、京都が近代日本の首都になると思っていた都の人々も少なくありません。けれども、京都は海に面していませんから、国内外の交通・運輸に不便です。首都に京都という選択肢はありません。

 明治天皇が東京にやってきたことに地元の住民は、実は、快く思っていません。戊辰戦争の際、上野で激しい戦闘が繰り広げられたからです。将軍様のおひざ元の江戸に戦禍をもたらした官軍のトップが江戸城に住むなど到底許せません。住民にとって、明治天皇は征服者です。東京は明治天皇を元首と認めていません。

 東京が明治天皇を元首と承認するのは、帝国憲法発布の翌日です。1889年2月12日、明治天皇は皇后と同乗して馬車で上野を訪れます。これは天皇と皇后が席を同じくした初めての時です。

 上野は住民にとって江戸が滅んだ象徴的な場所です。憲法を公布した翌日にそこに天皇が訪れるということを住民は戦没者並びに江戸の人々への慰霊と受けとめます。これを両者の和解と描く錦絵も残されています。この時、東京は明治天皇を元首として認めるのです。

 武力は権力の正統性を裏づけられません。住民の同意が欠かせません。それは今も昔も変わらないのです。
〈了〉
参照文献
草光俊雄他、『改訂版地域文化研究3』、放送大学教育振興会、2007年
五味文彦他、『日本の歴史と社会』、放送大学教育振興会、2009年

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