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I Love You, Mr. Robot─手塚治虫の『鉄腕アトム』(4)(2001)

4 The Birth of Manga
 手塚治虫をめぐる批評は膨大であり、また錯綜しているが、最も優れた批評を提示しているのは、すでに何度か触れている夏目房之介だろう。手塚が戦後マンガの文法を構築したとすれば、夏目房之介は戦後マンガの文法書を書いたと言える。彼を映画『アンブレイカブル(Unbreakable)』(二〇〇〇)の中でサミュエル・L・ジャクソン(Samuel L. Jackson)が演じたエライジャ・プライス(Elijah Price)と思ってはいけない。

 この「不肖の孫」は、マンガの分析の手法として、ミメーシスを使う。これは極めて正当である。手塚治虫のマンガがミメーシスを喚起して、戦後マンガは発展したのであり、なおかつ手塚自身もミメーシスを重要な衝動として認識している。「なぜ 人間はロボットをつくるのか なぜ人間は機械に人間のやる仕事をさせるのか そのわけはわかりません でも人間は大昔からじぶんたちににた代用の生きた人形をほしがっていました」(「アトム誕生」)。ロボットは人間のミメーシスへの意志が生み出したというわけだ。「むかし類似の法則によって統治されているように見えた生物圏は、広く包括的であった。小宇宙の中でも大宇宙の中と同じように類似が支配していたのだ。そして、自然が行うあの交信がその未来の重要さを獲得するのは、それらすべてが例外なく、内部にあってあの交信に応じる模倣能力に対して、刺激剤ないし喚起剤として作用するのだという認識が成立するときである」(W・ベンヤミン『模倣の能力について』)。

 マンガの記号も、手塚によれば、ミメーシスから生まれる。手塚は、『マンガの描き方』の中で、オーバー・アクションなどマンガの記号が「たとえ」だと指摘している。マンガでは、「怒って髪が逆立った」のような「たとえ」を「そのまま絵に生かしてしまう」。言語表現自体もミメーシスであり、マンガの記号のいくつかはそのミメーシスである。

 手塚は、『マンガの描き方』において、マンガの記号化について次のように書いている。

 小さい子の絵には、まずものの形の「省略」がある。手の指一本一本までは決して描かない。しかし手なのだ。それから「誇張」もある。頭を福助のみたいに大きく描くのがそれだ。人間大の草花だって、そうである。三つ目に、「変形」もある。自分の描きやすいように、好き勝手に形をかえて描いている。しかも、それが人なら人、犬なら犬と、ちゃんときまっているのだ。
 「省略」「誇張」「変形」、この三つは、幼児画の特徴で…落書きの特徴で…そして、マンガの、すべての要素なのだ!

 マンガは現実の単純化ではなく、その記号も現実の「類推」であっても、再現ではない。マンガはコミュニケーションであり、マンガ家と読者の間で、記号のルールを確認させ、再構築する。マンガの流線は、磁力線や等圧線が実際には存在しないように、作用の記号である。手塚は客観ではなく、主観を重視し、共同主観を発見する。

 天馬博士の不幸はロボットを人間の再現と考えてしまったことだ。科学省長官天馬博士は、交通事故で死んだ一人息子飛雄にそっくりのロボットを最高の科学的技術力を結集してつくりあげる。 天馬博士はそのロボットを息子のように愛したが、やがて成長しないことに腹を立て、ロボット・サーカスに売り飛ばしてしまう。ロボットは飛雄の「類推」であって、再現ではない。

 手塚にとって、マンガという記号の体系は、パース同様、表象・対象・解釈項によって成り立っている。表象は対象と関係を持ち、対象は解釈項との関係をともなう。解釈項は、パースによれば、「適切な意味作用の効果」である。解釈項は、ある記号を認識した結果、受容した精神の中に生じる記号である。その記号はさらなる記号を生み出す。通常の行為には無限の記号過程がある。パースの記号論のカテゴリーを使うと、手塚作品の記号を非常にうまく分類できる。 解釈項によって手塚のマンガは記号の後継者を育め、また手塚自身にも変化を可能にする。

 戦後マンガの始まり、すなわち「手塚治虫」の名が世の中に知られたのは、一九四六年に出版された『新宝島』の成功のおかげである。これは戦中に『海の少勇士』をつくった酒井七馬が構成をして、手塚が描いたわけだが、ここには戦後マンガの記号化に関する重要な転換が表現されている。

 安孫子素雄は、『二人で少年漫画ばかり描いてきた』において、『新宝島』ショックを次のように書いている。

 僕は、ギャーン!!と唸るようなマシーンの轟音を確かに聞き、スポーツカーのまきおこす砂煙に確かにむせんだのだ。
 こんな漫画見たことない。二ページただ車が走っているだけ。それなのに何故こんなに興奮させられるのだろう。(略)
 まるで映画を見ているみたい!!

 よく指摘されるように、『新宝島』よりも、宍戸左行の『スピード太郎』(一九三〇-三三)や作旭太郎(小熊秀雄)・画大城のぼるによる『火星探検』(一九四〇)の方が、コマの使い方にしろ、絵にしろ、革新的である。『新宝島』の出来の悪さは手塚自身が認めている。にもかかわらず、『新宝島』に、安孫子を含めて当時の読者は引きこまれている。

 その理由はクローズ・アップである。手塚以前の漫画において登場人物は全身像で枯れている。これは戦後漫画でも長谷川真知子の『サザエさん』によって確認できる。どれだけコマの使い方や絵が斬新であっても、つねに全身像では客席から舞台を眺めているようで、「まるで映画を見ているみたい!!」と感じられない。

 『新宝島』では、効果的にクローズ・アップが使われている。クローズ・アップは役者の抱いている感情を瞬時に観客に伝えるために、D・W・グリフィスが導入した映画の方法である。グリフィスは、そのほかにも、クロス・カッティングやフェイドイン、フェイドアウト、カットバック、ラスト・ミニッツ・レスキューなど感情移入を可能にする方法を考案することで、『国民の創出』(一九一五)を筆頭にした壮大な物語をつくることが可能になっている。

 グリフィス以前に、E・S・ポーターが『アメリカの消防夫の生活』(一九〇二)、『大列車強盗』(一九〇三)、『レアビット狂の夢』(一九〇六など非常に斬新的かつ革新的な短編映画を撮っている。これらにはスピード感やファンタジックな要素もあるが、出来事の推移だけで構成されているため、十分程度ならともかく、長時間、観客が引きこまれるほどのものではない。手塚が採用している方法はグリフィスに由来するものが多い。

 動画はカメラのサイズが対象に近くなるほど時間が速く感じられる。スピード感を出したいとき、アクションつなぎのように、アップのショットを連続させる。

 ただ、画像ではこうした時間の遠近法が生じない。偶然性から必然性への意識の集中がもたらされる。カメラのサイズが被写体に対して近づくほど、写し出されるものがそれに絞られてくる。偶然的な要素が排除され、鑑賞者に必然性を意識させる効果を持つ。ある男が倒れたとして、彼だけを被写体にするのと群衆の中の一人として写真に収めるのでは印象が異なる。前者なら、なぜそのようなことが起きたのかと考えずにいられない必然的な事件であるのに対し、後者では大勢の中の偶然的な出来事である。ロングよりアップの方が鑑賞者に感情移入をもたらしやすい。

 マンガの場合、映画と違い、あくまで絵であるので、アップになった表情がうまく感情を伝えるようになっていなければならない。感情を表わす記号を考案する必要がある。「目の表情と口の表情で、だいたいその人物の感情の大きさが出せる」。「漫画の人物が生き生きとするか、死ぬかはこの表情で決まる」。「ひと目見て、なんだか知らないが平凡で退屈だなと思う漫画の絵は、たいがい人物の表情のゆたかさに欠けている」(『マンガの描き方』)。

 従来の作品はいかに斬新であっても、表情の豊かさに乏しい。これでは感情移入ができないし、物語も複雑にできない。感情の記号化ができれば、無限級数的な感情が可能になり、無限の登場人物を出せる。そうなれば、マンガでもトルストイの『戦争と平和』のような壮大な物語が構成できるはずだ。

 手塚はディズニーの影響を受けている。ディズニーは、表情がわかりやすくなるように、ミッキー・マウスに白目を入れている。これで観客はミッキーに親近感を覚える。二十世紀に起こったメディア爆発のために、「いかに伝えるか」がこれまでにないほど問われることになり、記号論が発展する。パースの記号論は、ソシュールの記号学と違い、人間の言語以外にも適用できる。自然的記号と規約的記号のどちらも含むパースの流れを受けたアメリカの記号論はありとあらゆる種類の記号の相互作用を検討する。

 ディズニー・アニメもこの記号論に基づいている。手塚は、デビュー作『マアチャンの日記帳』(一九四六)で、ディズニーゆずりの表情の記号化を行っているが、アップを使っていない。「ぼくは、従来の漫画の形式に限界を感じていて、ことに構図の上に大きな不満を持っていた。構図の可能性をもっとひろげれば、物語性も強められ、情緒も出るだろうにとまえまえから考えていた。(略)また、オチがついて笑わせるだけが漫画の能ではないと思い、泣きや悲しみ、怒りや憎しみのテーマを使い、ラストは必ずしもハッピイ・エンドでない物語をつくった」(『ぼくはマンガ家』)。

 従来の漫画は背景や構図を感情移入という観点からなされていない。手塚は、『マンガの描き方』の中で、「映画というものは、お客が、自分が物語の主人公になったような錯覚を起こすほど、グイグイと見ている方を画面にひきずりこんでいく」と書いている。手塚がマンガに映画の手法を持ちこんだというのはこの点である。手塚は、表情の記号化によって、感情移入を可能にしている。

 手塚マンガの登場人物の表情は、現在から見ると、いささか大袈裟に映る。それはトーキー登場以前のサイレント映画の演技である(『ジャングル大帝』に見られる学童社版から講談社手塚治虫漫画全集版への書き換えはサイレントからトーキーへのリメークである)。手塚治虫は、初期のSF作品が示している通り、フリッツ・ラングなどサイレント映画からも強い影響を受けている。ビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り(Sunset Boulevard)』を見ると、グロリア・スワンソンとウィリアム・ホールデンの演技によってサイレントとトーキーの演技の違いがよくわかる。”Still wonderful, isn't it? And no dialogue. We didn't need dialogue. We had faces. There just aren't any faces like that anymore. Maybe one. Garbo. Oh, those idiot producers! Those imbeciles! Haven't they got any eyes? Have they forgotten what a star looks like? I'll show them! I'll be up there again! So help me!”

 感情移入した読者は走る自動車を見ているのではなく、自動車を運転している。その外で乗り物を見ているのとそれに乗っているのとではスピード感に差がある。後者ははるかにスリリングだ。

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