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説明できない政治(2017)

説明できない政治
Saven Satow
Jun. 27, 2017

「私が日本政府から受け取った『強い抗議』は、ただ怒りの言葉が並べられているだけで、全く中身のあるものではありませんでした。その抗議は、私の書簡の実質的内容について、1つの点においても反論するものではありませんでした。この抗議は、プライバシー権に関する私が指摘した多くの懸念またはその他の法案の欠陥について、唯の1つも向き合ったものではありません」。
ジョセフ・ケナタッチ

 竹内望記者は、2017年6月25日付『毎日新聞』において、「獣医学部新設問題 首相『加計以外も認める』 優遇批判を意識」と安倍晋三首相の驚愕の発言を次のように伝えている。

 安倍晋三首相は24日の神戸市での講演で、学校法人「加計学園」が愛媛県今治市に獣医学部を新設する計画に関して「今治市だけに限定する必要は全くない。地域に関係なく、2校でも3校でも、意欲ある所にはどんどん新設を認めていく」と述べ、全国の他大学にも新設を認めることに意欲を示した。東京都議選も意識し、「首相の友人が理事長を務める加計学園だけが優遇された」という批判をかわす狙いとみられる。

 この発言は従来の首相や内閣府の主張を覆すものだ。総理大臣には、国家戦略特別区域法に基づく区域方針の決定等の権限が与えられている。しかし、首相や内閣府は、疑惑を問いただされると、獣医学部設置認可に際し、総理が権限を行使したことなどなく、一切無関係だと一貫して返答している。

 責任は権限に関わる。もし不当もしくは不公正な権限の行使をしたなら、責任が問われる。疑惑に際し、安倍首相が恣意的な権限行使をすれば、辞任に値する。関係云々をめぐって森友疑惑に対して国会で大見栄を切ったのだから、獣医学部新設での権限行使の是認は辞職につながる。そのため、総理や内閣府は権限行使や関係を一貫して否定してきたはずである。

 ところが、安倍首相の今回の発言は自分がその気になって権限を行使すれば、全国に獣医学部の新設を許可できることを意味している。総理は権限行使により行政を歪めることができるというわけだ。安倍首相は「腹心の友」の加計孝太郎理事長の加計学園が経営する大学だけが獣医学部新設を認められたことが疑惑だと思っている。自らの権限行使の問題を理解していない。だから、疑惑の獣医学部新設において権限を行使したことを認めたも同然の話をしてしまう。したことがなければ、さらに全国に新設するなどと口にできないからだ。

 しかも、首相は神戸「正論」懇話会の設立記念特別講演会で獣医学部の全国展開を述べている。『正論』の発行元は産経新聞社である。同紙は見ている方が気恥ずかしくなるほど首相をヨイショすることで知られている。野党に疑惑を追及された国会答弁と違い、シンパに囲まれた友好的な雰囲気の中で、自分の考えとして口にしたのだから、常套句の「印象操作」を言い訳に使えない。

 この発言も驚きだが、安倍首相は唖然とすることをその後に言っている。同月26日に日テレ系で放映された『バンキシャ』の中で全国に獣医学部新設をめぐる真意を問われ、安倍首相は「あまりにも批判が続くから、頭に来て言ったんだ」と答えている。総理は、疑惑解明の声に対して、それが何たるかもろくに理解せず、衝動的に反応したというわけだ。

 論理的に説明せず、衝動的に感情を爆発させてしまう態度は以前から安倍首相には頻繁に見られる。それを踏まえると、今回の反応は彼の本質と捉えるべきだろう。

 安倍首相が言語による他者に対するコミュニケーション能力が決定的に乏しい。安倍首相は加計疑惑をめぐって国会で質問されても「印象操作」だとわめき散らし、一般論をくどくど語り、誠実に答える姿が見られない。また、国会閉会後に行われた記者会見でもプロンプターに映し出される原稿を棒読み、記者との質疑応答もやらせで、事前に用意されたセリフを話している。

 このような光景を目にすると、問われたことに対して論理的に説明すること自体が安倍首相には心労になると考えざるを得ない。加計疑惑のみならず、説明を求められると、その場しのぎの嘘や言い逃れを並べ立て、感情を爆発させて騒ぎ、自制心も失って悪態をつく。このような態度を一国の首相が国会で露わにする理由はそれが苦痛からだとしか思えない。言語化できないから、ストレス対処力が低く、幼児のように、衝動的に行動してしまう。

 この安倍首相の政治レトリックは否定の反措定による自己規定である。彼は、敵と見なす対象に対して、事実に基づかないデマや論理の飛躍した言いがかり、定義の曖昧な概念の濫用によって攻撃を加える。敵の否定の一貫性にアイデンティティを見出すので、発言が無内容だったり、矛盾したりしていたとしても気にしない。野党に対する攻撃が重要なのであって、その中身はどうでもよい。

 彼の敵の概念も曖昧である。安倍首相にとって客観性や論理性、厳密性を求めることが敵の証である。彼の主観的な信念や主張を無批判的に受容する人が味方だ。それは彼の熱心な支持者であるネトウヨを見れば明らかだろう。

 ネトウヨも安倍首相と同様の政治レトリックを用いる。敵と見なす者に対して「反日」と罵倒する。その定義は曖昧で、根拠もあやふやである。それを問いただしたり、異議を申し立てたりする人は彼らの主観的共通信念を共有しないので「反日」と認定する。否定の反措定が彼らのアイデンティティである。

 言葉で説明できないのは安倍首相とその信奉者だけではない。政府与党にもその傾向が顕著である。安倍政権発足以来、説明できない政治が横行している。

 もちろん、歴代総理にも口下手がいる。その典型が吉田茂である。彼は演説や答弁が下手で、上達しようという気もない、それどころか、座談さえも上手くできない。その彼は松野鶴平のような自分の考えを察して代理として語ってくれる側近を置き、口下手を補っている。

 しかし、吉田は発話が苦手だっただけで、意見や心情を御論理的に説明することができなかったわけではない。彼は自分の思いを言語化して相手にどうしても伝えようとする際、書簡を利用している。総理を辞めた後も、筆を執り、手紙に自分の考えを記し、池田勇人を始め吉田学校の門下生にアドバイスしている。

 けれども、吉田と違い、安倍政権の政府与党から総理の説明不足を補う人が見当たらない。その代表例が菅義偉官房長官である。彼の記者会見での応答は「全く問題ない」等くつかの常套句の繰り返しで、ELIZAプログラムの拡張形式SUGAではないかと思えるほどだ。もっとも、政治部の記者もその無内容な返答に食い下がることがほとんどない。官房長官の定例記者会見は人工知能ならぬ人工無能の展示場と化している。現代歴史学が社会史によって再構成されたように、日本のジャーナリズムも社会部によって政治部もそうされなければならない。

 吉田茂は論理的に思考しているものの、その発話を苦手にしている。側近は語りを代行すればよいから、説明が道理を失わない。他方、安部首相は理知的に考えていない。彼の著作と言われる者にしても、パンフレットの域を出る者ではない。発話だけでなく、そもそも思考自体に論理性が弱い。側近は、当然、彼の判断を論理的に説明することが困難である。

 疑惑をめぐる野党の追及や世論の反応が厳しくなって以降、総理は内輪の会合や親しいメディアでは話すものの、国会から逃げ出す始末である。しかも、それは無理やり国会を閉会した後も同じ姿勢だ。

 思い出せば、第一次安倍政権は「お友だち内閣」と揶揄されている。友人を優遇した人事で固めた内閣だからだ。また、森友疑惑からの一連のスキャンダルも総称して「アベ友事件」と呼ばれることがある。疑惑が総理と夫人の交友関係に根差しているからである。いずれにしても、安倍首相のお友だちへの依怙贔屓が見て取られ、それが彼の体質だと言わざるを得ない。

 家族や友人など内輪の間柄では、物事をめぐって論理的に説明することは必ずしも多くない。感性的な言い回しで十分だったり、言葉も要らなかったりするものだ。安倍首相は他者に説明を求められ苦しくなると、そこに遁走する。長期に亘り政権を担当しても、ヤジを飛ばす姿勢は改まらず、論理的対話力が上達していない。安倍首相のお友だち体質はこうした倫理的コミュニケーション能力の乏しさに起因する。この向上はほぼ不可能であり、安倍晋三には首相としての能力も本来ない。

 こうした安倍首相のスキャンダルは法や慣例などの精度を歪めて家族やお友だちを優先したり、優遇したりして生じている。これは安倍首相以外では起きなかったと言ってよい。確かに、藩閥政治の時代には勧誘物払い下げ事件などお友だち体質の汚職や疑獄が発生している。しかし、それは近代的制度が未整備の状況の話である。曲がりなりにも東アジアで最長の民主主義の伝統を持つ今日とは事情が違う。

 お友だちは法や慣例などの制度を踏まえず、安倍首相との個人的信頼関係により地位を始め利益を得ている。そこには通常ではありえない人事や許認可、機会が認められる。安倍政権の下、制度に則って実績を上げ、キャリアを積み、名声を築いた政治家や官僚、ジャーナリストなどは、首相の意にそぐわない言動をすると、公式・非公式の圧力にさらされ、地位や活動の場を奪われる。彼らに代わり安倍首相への忠誠心によって分不相応なものを手にしたおべっか遣いがいる。彼らには安倍政権を擁護することが個人的合理性に適っている。だから、政権が崩壊すれば、恩恵を失うことになる。アベ・ギャングは、独裁国家の大統領の取り巻き同様、なりふり構わず首相擁護に奔走する。あらかじめに失敗が約束された男によって日本がどうなろうと知ったことではない。

 独裁は暴力による強権だけを指すものではない。法ではなく、為政者の恣意による支配も含まれる。それはロゴスによって説明できないのだから共通理解を人々の間に築けない。社会を分断し、相互信頼を失わせ、対立と卑屈、嘲笑をもたらす。説明できない政治は独裁体制である。人々がお互いに信頼し、社会がまとまるには説明のできる政治が不可欠だ。安倍政権を終わらせねばならない。
〈了〉


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