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『オブローモフ』、あるいは怠惰の文学(5)(2004)

第五章 労働と怠惰
 キリスト教における七つの大罪の一つであるものの、一七世紀までは、ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』によると、「怠惰(pareses: sloth: acedia)」は、一般的には、必ずしも罪ではない。むしろ、無知が罪である。先に触れたヘーゲルの「労働」と「教養」の契機は二つの時代をつなぐ論理である。勤勉が賞賛されているのはそれ以前でも同様である。古代ギリシアのヘシオドスの『労働と日々』、ルネサンスのレオン・バティスタ・アルベルディの著作には勤勉の徳が説かれている。しかし、古代ギリシアでは、と同時に、「スコレー」が尊ばれている。

 シュトルツが「自分で自分が荷厄介になるぞ、今をはずしたらもう永久に機会はこないぞ!」と忠告したのに対し、オブローモフは次のように答えている。

「本当に、助けてもらいたいんだ!
僕は自分でもそれを苦にしているんだ。
 僕がわれとわが墓穴を掘って自分の挽歌を唱っている有様を…。
 僕は何もかも知っている。何もかも解っているんだ。が、力と意志がないんだ。
 どうか君の意志と力と頭を分けてくれ。そしてどこへと好きな所へ連れていってくれ!」

 オブローモフは悲痛な叫びをあげる。彼にも怠惰が悪として認識されている。オブローモフは、善良で優しいが、農奴制によって、その天性の知性も才能も埋もれてしまっている。しかも、ロシアにおいても、牛の歩み程度であっても近代化が進み、貴族として備えるべき教育を受けているため、自分が怠惰で、社会にとって「余計者」であるということを自覚している。

 生活を一新させ、変わらなければと痛感しつつも、結局は何もできずに、苦悩するほかない。「知ってるよ、感じているよ…ああ、アンドレイ、ぼくはすべてを感じ、すべてを理解しているのだ。ぼくはもう前から、この世に生きているのが恥ずかしいん
だ!」

 「オブローモフシチナ」が「カラマーゾフシチナ」と並び称されている通り、「ロシア的」と評されるオブローモフが普遍性を持っているのは、世界が資本主義を体験したからである。資本主義は積極性=能動性を善とし、消極性=受動性を悪と見なす。彼は資本主義が非難する大罪を犯している。オブローモフの姿勢はサボタージュやストライキのような労働運動ではない。彼の引きこもりにはたんに資本主義に対する抵抗があるだけでなく、それを克服する姿勢がある。

 先に引用したオブローモフ村の牧歌性は、のどかに見えても、農奴制に支えられている。貴族のオブローモフは農奴という奴隷に対する主人である。ヘーゲルは、『精神現象学』において、自己意識をめぐる「主人と奴隷」の寓話を説いている。

 「自己意識は即自的かつ対自的に存在するが、それは、自己意識が小文字の他者に対して即時的かつ対自的、すなわちもっぱら承認されたものとして存在する限りにおいて、かつそのことによってである」。私と他者という二つの自己意識は、自立的であろうとして、存在を賭けた闘争を始める。その関係は、両者が戦いを通じて、自分自身と相手を確認するように規定されている。

 自己意識が自立的であり、その正統性を主張しようとするならば、他者から承認されなければならない。自己意識は自立的であろうとすれば、自立的であってはならないというアポリアに直面する。そこで、他者を奴隷にする。こうして自己意識は奴隷から主人として承認される存在となる。

 奴隷は、主人の命令で労働し、主人はそれによって暮らす。主人は自立的で、奴隷は非自立的である。けれども、主人は奴隷がいなければ生活していけなくなる。主人と奴隷の関係が逆転し、主人が非自立的、奴隷が自立的存在となる。

 「それゆえ、自立的意識の真理は奴隷の意識である。この自立的意識は、最初は確かに自己の外に出現し、自己意識の真理としては現れない。しかし、支配の本質が、支配がそう欲したものの逆であることを支配が示したように、おそらく隷従の方も、それが徹底して行われるならば、隷従が直接その反対になるであろう。隷従は、自己内へと押し返された意識として自己へと立ち帰り、真の自立性へと逆転していくであろう」。

 オブローモフは、ベッドでゴロゴロして、ヘーゲル的な自己意識を拒絶する。自立しない主人を選択することになってしまうが、スラブ派の知識人のような過去への回帰を扇動的に促しているわけではない。彼は社会が変化していることを承知している。いかなる変化があろうとも、積極的に立ち向かうのではなく、無気力にただ受け入れているだけだ。それはガルゲンフモールである。

You're lazy just stay in bed
You're lazy just stay in bed
You don't want no money
You don't want no bread

If you're drowning you don't clutch no straw
If you're drowning you don't clutch no straw
You don't want to live you don't want to cry no more

Well my trying ain't done no good
I said my trying ain't done no good
You don't make no effort no not like you should

Lazy you just stay in bed
Lazy you just stay in bed
You don't want no money
You don't want no bread
(Deep Purple “Lazy”)

 フリードリヒ・ニーチェは、『反時代的考察』(一八七三-七六)において、彼の生きている時代、すなわち「神の死」の時代を「労働の時代」と定義している。それは経済的有用性が支配する時代という意味であるが、産業資本主義をより効率的に促進させるために、政治体制の変革がヨーロッパで始まる。そこで選ばれたのが国民国家である。

 産業資本主義が経済的な自立の体制だとすると、国民国家は政治的な自立の体制である。失業は自立を奪う。排他的な反動思想はその失業と共に人々の間に浸透する。失業が悪と規定されたときから、それは人々にルサンチマンを抱かせるようになっている。失業という恐怖を感じず、怠惰でいることなど資本主義には言語道断である。失業は罪であり、怠惰は悪癖でなければならない。怠惰は、その消極的な姿にもかかわらず、積極的な意味を持っている。

 けれども、ゴンチャロフは、オブローモフの生活態度を次のように記している。

 イリヤ・イリイチは、さながら人生の金縁額のなかで生活しているようであった。それは、のぞき眼鏡と同様、ただ昼夜、四季のいつに変らぬ姿が入れ代るばかりだった。その他の変化、―ことに生活の底から滓、それもたいていは濁った苦い滓をかき立てるような、大きな偶然事は起こらなかった。

 ヘーゲルの影響を受けたアレクサンドル・コジューヴは、『ヘーゲル読解入門』の第二版において、一九五〇年代以降の世界を考慮し、ヘーゲル的歴史の終わりの後、人間には二つの生存様式しか残されていないと分析している。一つは「日本的スノビズム」であり、もう一つはアメリカ的生活様式の追及、すなわち「動物への回帰」である。

 「合衆国はすでにマルクス主義的『共産主義』の最終段階に到達しているとすら述べることができる」。コジューヴはこのように「階級なき世界」の実現を宣言する。「日本的スノビズム」はともかく、彼はヘーゲル哲学が定義する「人間」に対して、アメリカ的消費者を「動物」と呼ぶ。

 ケインズの「アニマル・スピリッツ」を踏まえたと思われるこの「動物」は環境に対して順応する創造物である。その根本は「欲望」だ。動物は直接に欲望し、人間は他者を媒介して欲望する。他者の媒介によらず、直接的な欲望で充足してしまうことを「動物化」と呼んでいる。近代では、シジフォスの神話は無意味な労働の罰から、スポーツのような、娯楽となりうる。動物化された人間には「世界や自己の(言説による)認識はなくなる」。

 モダンの原理が「動物」であって、ポストモダンではない。ポストモダンの原理は欲望ではないからだ。「欲望といったものが、それほど普遍的なものか。それは時代によって変動している。欲望の概念の支配が頂点だったのは、一九七〇年ごろだったような気がする」のであって、「もっと問題なことは、欲望というものは、一時的にパワーを持っても、必ずバブル化して、やがて終わるということ」(森毅『欲望の行方』)。オブローモフの企ては植物化である。植物化は資本主義には悩ましい。稀代の怠け者が植物のような「ナマケモノ(Sloth)」になることで、『オブローモフ』は近代の真の超克を描いた作品である。

 吾輩はナマケモノである。
 動くのが、じゃまくさい。じっとしていると、そのうちに体に苔が生えてきたりする。
動物というと、動くことになっているが、とくにヒトという動物は二本足でチョコマカと動きまわっている。同じ動物でも、鳥は二本足で、ときには一歩なしでも、落ち着いてじっとしているのに、ヒトはじっとしているのが苦手らしい。じっとしていられないで、新しいところへ進むのを向上心などと言ったりする。
 動かないことでは、吾輩は植物に近いのかもしれない。植物だって、雨が降ったり日が照ったり、暑くなったり寒くなったりで、けっこう環境が変化する。じっとしているのが保守的なわけではない。むしろ、いろいろと環境が変わることを受けいれているのだ。
 ヒトのほうが、自分の気にいった環境というものにこだわって、そうした環境を求めたり、自分のまわりをそうした環境に変えようとしたがる。
 今までの環境にこだわることでは、彼らのほうが保守的なのであって、それを向上心などと言っているだけではないか。そしてその結果、地球環境はどんどん悪くなるし、ヒトなんか来てほしくないところへまでやって来る。困ったことだ。
 吾輩は不精だから、環境を選んだりしない。そのことは一つの環境にこだわらぬということで、環境の変化には吾輩のほうが強い。いくらかは変化を楽しんでいる。ヒトは改革などと言いながらも、その実は変化をこわがっている。そちらのほうが、よほど保守的。自分が動かなくとも、環境のほうが勝手に変化するから、べつに退屈はしない。
 そのかわり、自分の意志でなにかを選択しようといった意欲はもともとない。ヒトの世界でも、なにかと自分を見せびらかしたがるのは、チンピラの属性ではないか。老いて成熟するというのは、こんな無理をしなくてすむことだ。もっともヒトの世では、せっかく年をとったのになにかにこだわりたがる、老いたチンピラもいるらしいが、それは単に、新しい環境を受けいれられない保守性にすぎない。
 吾輩は、その点では最初から成熟しておるのだ。なにが来たって、逃げまわる必要なんかない。苔を生やした老樹だって、逃げたりはしないじゃないか。老いというものは、世の変化を見てきたということであって、その変化を楽しみながら生きていくことである。
 行動的でないことはたしかで、世の変化に合わせてものを考えているだけ。思想に行動の伴うのをよいように言うヒトもいるが、思想そのものが頭脳の運動なのだから、わざわざ体を動かす必要はない。新しい天地など求めなくとも、自然の変化は向こうからやってくる。
 考えたこと表現するのも億劫だ。本当のところは、考えた内容なんてたいしたことじゃない。それよりは、木につかまって、ものを考えている姿。他人になにかを伝達する必要なんかない。
 吾輩を見た他人が、ものを考えている姿を見てなにかを感じ、そこから勝手に自分の心のなかの運動を開始すればいいのだ。とことん吾輩は受動的。
 能動的であることを受動性より上におくのはチンピラの思想である。それよりは、それぞれに自分の世界を持って、その孤独を楽しむのがよい。交わりなどを求めずとも、世界そのものが変化して、歴史の流動を居ながらにして楽しめる。べつにその世界に自分を投入しなくとも、世は動く。そのほうが平和。ヒトのなかでも、そうしたことを説いた男を知っている。その名は、老子。
 なによりいいのは、ナマケモノであるのになんの修行もいらぬところだ。禅というのも魅力的なところがあるが、修行が必要なのが気にいらぬ。修行の成果で悟るのじゃ、やはり向上心風ではないか。吾輩は最初から悟っておる。ヒッピーも禅などに憧れるよりは吾輩を見習え。無為にして化す。
 それでは世のなかがまわらぬ、などと言いだす連中もいようが、世のなかなんてまわそうと思わんでもまわってしまうもの。そのまわる世のなかについていけんので、まわそうとしてあがいているのがヒトというあさはかな連中。つまりは、世のなかで生きていけぬ意気地なしじゃないか。そして、どうあがいたところで、生きているものはやがて死ぬ。そのことを悟るのに、自分が死んでみないとわからんのか。
 体に苔を生やして、生きたままで古岩のように、死ぬ前から土と化す。
 ああ、もう、原稿を書くのも、めんどくそうなった。
(森毅『ナマケモノ的生活のすすめ』)


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