『デカメロン』、あるいは感染症によって引きこもった人々の物語(2020)
『デカメロン』、あるいは感染症によって引きこもった人々の物語
Saven Satow
Mar. 18, 2020
「われわれが説教するごとく行動し、われわれが行うごとく説教するな」。
ジョヴァンニ・ボッカッチョ
1348年のペスト大流行の際、フィレンツェ市内の寺院で葬儀に参列した男3人と女7人の10人が禍を避けるために郊外の別荘に引きこもる。彼らはパンフィロ、フィロストラト、ディオネオ、パンピネア、フィアンメッタ、フィロメナ、エミリア、ラウレッタ、ネイフィレ、エリッサである。退屈しのぎに、10人が10日間に亘り1人1日1話ずつ語り合うことになる。
これがジョヴァンニ・ボッカッチョ(Giovanni Boccaccio)による物語集『デカメロン(Decameron)』(1353年頃)である。日替わりでテーマが与えられ、10人はそれに基づいた小話を披露する。テーマは「散々な目に遭いながら予想外のめでたい結末を迎えた話」や「恋する人に起きた荒々しい不幸な事件の後にめでたく終わる話」、「女たちが夫にやらかした悪さの数々」といったものである。内容はすべて笑い話である。カネとオンナにしか興味のない聖職者、落ちぶれた貴族、したたかな商人、たくましい庶民、奔放な肉欲に興じる男女などが登場し、バカバカしい小話が展開される。辛気臭さや説教じみたところは一切ない。底抜けの笑いによって生のエネルギーが爆発している。
従来、文学の創作・鑑賞は古典教養を共通基盤として成立している。そのため、作品の舞台は過去に設定されている。しかし、『デカメロン』はそれを同時代に置いた初めての散文物語である。ペスト禍が社会を変え、人々はその経験を共有している。誰もが死の恐怖の下に置かれ、今を生きるのに必死で、昔を思う余裕などない。作品の舞台であるフィレンツェはペストにより人口の3分の2が亡くなったとされる。
誰も彼も、毎日、今日は死ぬかと待っているかの如く、家畜や土地の未来の成果や自分たちの過去の勤労の成果を考えたりしないで、ただ現在、蓄積してあるものを消費することにありったけの智慧を絞って遺憾なからんとするのみでありました。
(『デカメロン』)
こうした状況により新たな共通基盤が生まれているので、舞台を過去に求める必要はない。現在を扱う以上、それにふさわしい文体も求められる。エーリヒ・アウエルバッハの『ミメーシス』によれば、この文体はイタリア散文芸術の先駆けである。ペスト禍は文学も変える。
疫病は、戦争と違い、建物や農地を壊すことなく、人命だけを奪い、終わりも見えない。また、被害は、飢饉と違い、身分や階級、財産にかかわらず生じる。しかも、原因が目に見えない。災害は社会の活動を停滞させるが、そうした特徴により疫病の下で人々は重苦しく抑圧され、次は誰だと疑心暗鬼、フラストレーションがたまる。
笑いはこうした閉塞感から10人を開放する。陰鬱な気分を癒し、精神の健康を回復させてくれる。しかし、彼らはただ笑いたいのではない。その感情を分かち合いたいのだ。同じ場での底抜けの哄笑が共感と信頼という絆の回復につながる。それは疫病がこれまで壊してきたものだ。
新型コロナウィルスのパンデミックにより多くの地域において移動の自由を始め近代の基本的人権が制約されている。外出できず自宅にこもっている人も少なくない。そういった人たちの間でSNSに滑稽な動画を投稿することが流行している。閉じこもりながらも、インターネットを通じて他者とつながり、笑いを分かち合う。感染拡大するCovit19が断ち切ろうとする共感と信頼の絆を動画の拡散によって強化・拡張する。これは現代の『デカメロン』の姿である。
〈了〉
参照文献
エーリヒ・アウエルバッハ、『ミメーシス』上、篠田一士他訳、ちくま学芸文庫、1994年
ジョヴァンニ・ ボッカッチョ、『デカメロン』全6巻き、野上素一訳、岩波文庫、2002年
同、『デカメロン 』上中下、平川祐弘訳、河出文庫、2017年