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「この生命誰のもの」を問う呼吸器外し問題(2006)

「この生命誰のもの」を問う呼吸器外し問題
Saven Satow
Mar. 28, 2006

Dr Scott (to Sister): It's marvellous you know. We bring him back to life using everything we've got. We give him back his consciousness, then he says: 'But how do I use it?' So what do we do? We put him back to sleep.
Brian Clark “Whose Life is it Anyway?”

 富山県射水市の射水市民病院において、入院患者7人が延命措置を中止されて死亡しています。病院によると、意識もなく、回復の見込みのない患者だったそうです。それに関わった外科部長はいずれの家族からも同意をとっていたと証言しています。

 その一方で、7人以外の患者の人工呼吸器を外しかけたケースもあり、その家族はそういった説明もなく、そうした行為を頼んだこともないと主張しています。少なくとも、尊厳死を考える際に重要な患者本人の意思の確認は十分ではなかったようです。

 安楽死や尊厳死は非常に難しい問題ですが、ブライアン・クラーク(Brian Clark)は演劇『この生命誰のもの(Whose Life is it Anyway?)』でそれを扱っています。この作品は、1981年、ジョン・バダム(John Badham)監督によって映画化され、リチャード・ドレイファス(Richard Dreyfuss)が迫真の演技を見せています。

 交通事故で四肢の機能を失った若い彫刻家ケン・ハリソンは病院内で一生をすごすことを拒否するために、訴訟を起こします。しかし、それは彼にとって死を意味します。「脳以外の働きが不可能な人間を生かしておくほど残酷なことはない」と彼は安楽死を望んでいるのです。裁判の結果、ケンに病院の外へ出る許可の判決が下されますが、彼は、結局、それを選択せず、新しい生き方を模索していくのです。

 この演劇と今回の出来事との間には明確な違いが二点あります。一つはすでに言及した患者自身の意思確認の点であり、もう一つは第三者による法的な根拠に基づく審査の点です。けれども、日本には、裁判所が判決の中で触れたことはあるものの、いまだに延命中止に関する国によるはっきりとした指針がありません。

 生命をめぐる倫理観にQOLとSOLがあります。QOL(Quality of Life)は生命活動が続けられることです。一方、SOL(Sanctity of Life)はそれ自体だけで生命はすでに尊いとします。いずれにもいくつかの条件がありますが、尊厳死・安楽死を認める主張は前者、従来の延命医療の継続などは後者に基づきます。この演劇からもそれがわかるでしょう。

 近代以前、多くの人々には政治的権利がないなど生命は生物学的生がほとんどです。けれども、近代以降では、さまざまな権利を人々は手にします。生命は生物学的生に限定して考えることはできません。QOL倫理は近代によって認められるのです。QOL倫理の浸透と共に、尊厳死・安楽死の許容が生まれたと言えます。もちろん、生きていることだけでもありがたいというSOL倫理ももっともです。

 両者のどちらが優れているということではありません。ただ、QOLが当人にとっての生命であるのに対して、SOLはそこで生きていてくれるだけでよいという認識がありますから周囲にとってのそれという視点の違いがあります。

 19世紀、フリードリヒ・ニーチェは「神の死」を宣告しています。20世紀は、科学技術の発展に伴う延命治療のために、譬えるなら、その神の死も決定不能に陥ってしまいます。21世紀は神が尊厳死を迎える時代になる可能性があります。もちろん、これは難しい問題です。道徳的にジレンマで、答えのないオープンエンドです。だからこそ、それに向けた合意形成とガイドラインの作成に本腰をあげる時期が来ていることを今回の出来事は告げているのです。
〈了〉

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