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エドウィン・S・ポーターの『大列車強盗』、あるいはファティックとしての映画(1)(2007)

エドウィン・S・ポーターの『大列車強盗』、あるいはファティックとしての映画
Saven Satow
Oct. 30, 2007

「昔はどうだったのか考えてみるといい「生きていると,色々追われることもあるしね,自分では影響されないと思ってやっていても,こびり付いているものがあるんだよ.だから,一度初心に戻って清々してみると,そうだったんだと見えてくるものがある」。
黒澤明

1 動く絵
 1903年12月1日、アメリカで、『大列車強盗(The Great Train Robbery)』が公開される。この作品のヒットから「映画」が始まる。

 しかし、それは突如として出現した事件ではない。大西洋を挟んだ二つの大陸を中心とした過去約80年に亘る研究・実験・開発の成果・蓄積を導きとしている。

 イギリスの学者ピーター・マーク・ロジェ(Peter Mark Roget)は、1824年、『動体に関する残像(Persistence of Vision with Regard to Moving Objects)』を刊行する。人間の眼はある対象を知覚したとき、それが消えた後でも、ほんのわずかの時間だけその像が残って見えていることを説き、動くものの視覚的な残像に関する原理を述べたものである。視覚において、運動は知覚されたある像が消え、その次のイメージが続く連鎖にほかならない。これが正しいのなら、残像を利用すれば、連続した絵や写真をある一定の速度で眼の前に登場させ続けると、動く映像をつくり出せることになる。なお、映画の原理は残像ではなく、ゲシュタルト心理学によって発見された「仮視運動(Apparent Movement)」と今日では理解されている。

 ロジェの論文は天文学者のジョン・ハーシェル(Sir John Frederick William Herschel, 1st Baronet)や科学者のマイケル・ファラデ-(Michael Faraday)に影響を与え、さらに多くの学者や写真家などを触発し、実験的研究を促進させる。

 1825年、イギリス人医師ジョン・A・パリス(John A. Paris)は、光学玩具のプロトタイプである「トーマトロープ(Thaumatrope)」を考案している。これは、両面に補完し合う画像が描かれた円盤を左右の両端につけた糸で円盤を回転させると、一つの完全な絵に見えるという装置である。

 また、ベルギーの学者ジョゼフ・アントイネ・フェルナンド・プラトー (Joseph Antoine Ferdinand Plateau)は、1832年、「フェナキスティスコープ(Phenakistiscope)」を製作する。軸でとめた円形の紙の縁に連続した絵が描かれており、それを回転させると、絵が動いて見えるという発明品である。ほぼ同時期に、オーストリアのジモン・リター・フォン・シュタンプファー(Simon Ritter von Stampfer)も同様の方法を開発している。

 さらに、1853年、オーストリアのフランツ・フォン・ウハティウス(Franz von Uchatius)が円盤と幻燈の絵を結びつけ、スクリーン上に動画を映写する。その翌年、イギリスの数学者ウィリアム・・ホーマー(William George Homer)は「ゾートロープ(Zoetrope)」を創作している。これは、円筒の内側に連続した絵を順に並べ、回転させてスリットからそれを覗いて動きを見る装置である。

 同じ原理を用いて、1877年、エミール・レイノー(Charles-Émile Reynaud)が「プラクシノスコープ(Praxinoscope)」を発明し、これに改良を加え、1892年10月28日、パリで「テアトル・オプチーク(Théâtre Optique)」として一般公開を始める。運動の位相を描いた数百枚の絵をつなぎ合わせ、15分から20分程度の物語に編集したフィルムであり、初期のアニメーションの一つである。1900年頃まで続けられたが、シネマの普及によって興行としては淘汰される。

 撮影器具・装置もさまざまに発案されている。1822年、フランスのジョゼフ・ニセフォール・ニエプス(Joseph Nicéphore Niépce)とルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(Louis Jacques Mande Daguerre)は協力して永続性のある写真の製作に成功し、1839年に「ダゲレオタイプ(Daguerreotype)」と呼ばれる銀板の実用的な写真術を開発する。翌40年、イギリスのウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(William Henry Fox Talbot)がネガ=ポジによる近代的な印画法を公表する。52年になると、動画の装置の研究で、絵に代わって写真が使用されるようになっている。

 61年、アメリカの発明家コールマン・セラーズ(Coleman Sellers)が写真とゾートロープを結びつけた「キネマトスコープ(Kinematoscope)」の特許を収得する。これは、被写体に微妙に違ったポーズをとらせた一連の写真を回転する輪にとりつけ、それが動いているように見える装置である。70年、ヘンリー・レノ・へイル(Henry Renno Heyl)がこれを応用した「ファズマトロープ(Phasmatrope)」を1600人の観客を劇場に集め、スクリーン上で公開している。

 さらに、写真の感光速度が速くなると、静止した画像を連続的に再現して動くように見せるのではなく、実際の動きを写真に撮影する方に関心が移る。フランスの生理学者エティエンヌ=ジュール・マレー(Etienne-Jules Marey)は、1882年、写真銃を発明する。これはライフル銃の形状をした連続写真撮影機である。マレーは写真銃で鳥の飛翔や人物の動きの連続写真を撮って解析し、研究に利用している。その後、実用的なカメラの開発を進め、88年、助手のジョルジュ・ドメニノ(Georges Demenÿ)とともに、「クロノフォトグラフ(Chronophotographe)」を発明する。

2 スタンフォードとマイブリッジ
 1877年、カリフォルニア州知事リーランド・スタンフォード(Leland Stanford)は、友人と乗馬愛好家の間で長年続いてきた論争に決着をつけるべく賭けをする。「馬がギャロップ、すなわち全速力で走るときに、4本の脚が同時に地面から離れることがあるか否か」。このセントラル・パシフィック鉄道の設立者は4万ドルを然りに賭ける。彼は自説を証明し、大金を手にするために、写真家のエドワード・マイブリッジに声をかける。

 イギリスの写真家エドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge)は、1855年にアメリカ合衆国に移住し、その後、サンフランシスコで出版業界に身を置くようになる。彼を一躍有名にしたのは、1872年、妻の愛人を射殺したものの、裁判で無罪を勝ちとったことという出来事である。知事から依頼されたマイブリッジは、ジョン・D・アイザックス(John D. Isaacs)と共同で、ある実験装置を考案する。

 マイブリッジは、競馬場のコースに沿って電気シャッター付きの12台のカメラを設置し、レーンを横切るように12本の糸を張り、走る馬がそれを切るとシャッターが順次作動するメカニズムをつくりあげる。この結果を確認後、試行錯誤をして、彼はカメラを二四台に増やし、同じ実験を行っている。

 この連続写真は全速力で走る馬の姿を収めることに成功し、それにより、スタンフォード大学の創立者が賭けに勝利する。その後も、マイブリッジはシャッター装置の改良を続け、1877年には露光速度も2000分の1秒まで短縮している。

 この実験の成果は新聞で大々的に報道され、大きな反響を呼ぶ。マイブリッジの友人のウォーレス・M・レヴィソン(Wallace Mark Levison)はカメラのレンズ裏のホイール上で感光板を漸進的に動かして連続写真を撮影する技術を考案し、1888年には、ジョージ・イーストマン(George Eastman)はセルロイドの帯状のロール・フィルムを完成させる。

 また、ドイツの写真家オットマール・アンシュッツ(Ottomar Anschütz)は、1888年、フォーカル・プレーン・シャッターの特許をドイツで取得し、1891年、ゾートロープを改良発展させた「電気式シュネルゼーアー(Elektrischer  Schnellseher)」を開発している。

 1889年、マイブリッジが自慢げに例の連続写真をある著名人に見せる。すると、彼は、早速、回転するフィルムに動く映像を写す技術を発明して見せる。この野心的な人物こそ発明王トーマス・アルヴァ・エジソン(Thomas Alva Edison)である。


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