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『オブローモフ』、あるいは怠惰の文学(4)(2004)

第四章 労働と失業
 近代は積極性=能動性が正統化し、消極性=能動性が異端になった時代である。それどころか、後者は罪になってしまう。資本主義とプロテスタンティズムの癒着には欺瞞がある。資本主義体制は大量生産=大量消費によって維持され、資本主義にとっての問題は働かないのではなく、消費しないこと、すなわち金を使わないことである。消極性が資本主義には最大の問題である。

 行動的に事業を展開している幼馴染と違い、オブローモフは所有している領地経営などやらなければならない問題は迫っているのに、具体的な行動をまったく起こせない。

 そんなオブローモフは、彼が少年時代にすごしたロシアの田園の夢を見る。

 何一つ必要ない。生活は静かな河のごとく彼らのかたわらを流れている。彼らはただその河の岸に坐って、呼びもしないのに順々に、彼らの一人一人の前に立ち現れる不可避の現象を観察していればいいのだ。

 この風景はロマン主義者が見出した自然ではない。どこまでも静かで、のどかだ。老子の小国寡民の理想を具現したような民話の世界そのものである。この村に住む家族にとって午前中の最大の話題は昼食のメニューである。昼食が終われば、みんな昼寝をする。やがて日が暮れ、一日が終わる。「やれやれ一日が終わったわい。有難いこった。これで今日もまず無事に過ぎた。どうか明日もこうあって貰いたい。神よ、汝に栄えあれ!神よ、汝に栄光あれ!」

 ゴンチャロフは、オブローモフの村について次のように書いている。

 われわれはどこにいるのだろう。オブローモフの夢は何という祝福された大地の一角にわれわれをつれて来たことだろう。なんと驚くべき地方だろう!
 なるほど、そこには海もなければ、高い山もなく、厳壁も、深淵も、鬱蒼たる密林もなく──雄大なもの、野生的なもの、陰鬱なものは何一つない。
 またそのような、野性的な、雄大なものは、何の必要もないではないか。たとえば、海だが、そんなものに用はないんだ!海を見ていると泣きたくなって、海は人に物悲しい気持を起させるばかりだ。見わたすかぎりの水のシーツの前に立つと、心おびえて戸惑ってしまう。そしてはてしない単調な眺めには疲れた瞳を休ませるところもないのだ。

 この作家は、『オブローモフ』に限らず、回想のシーンになると、ほかの作品でも輝きをもって描く。近代化に積極的に賛成しているわけでもないが、反対しているわけでもない。もはやどこにもなくなり、記憶という場所にのみ生きられることを知りつつ、その風景を嬉々として書いている。

「ゴンチャロフの魂には、ギリシア的な叙事詩のもつ牧歌的精神が生々と躍動していた。もちろん、底の底までロシア化された形ではあるが、彼は古代ギリシアの詩人達のみがもち得たような、あの大らかな、のどかな地上賛歌を見事に近代のロシアに再現した。彼は黙示録的な人間ではなかった。人類の運命とか世界の未来とかいう高遠な問題を背負い込んで、せかせかと、いかにもせわしげに、ひたすら未来を望んで前方へ突進しようとする当時のインテリゲンチャとは反対に、彼は悠々と後ろを振りかえり、いつまでもいつまでも立ち去りがてに足を停めている。彼には過去のロシアが懐かしい。過去のロシアを彼は愛する。スラブ民族の音楽ににじみ出ているような、深い哀愁をこめた、あのものうい夢見心地の過去の面影。そこでは生活そのものが、のんびり一休みしている。近代的文化の騒音にかき乱されることもなく、雲を掴むような哲学上の、もしくは道徳上の問題に心を煩わす必要もなく、昔ながらの素朴で清楚な生活形式の神聖な枠の中で人々は本当に幸福だ。生活の基準は始めからちゃあんと完成した形で与えられている。彼らはそれを両親から、両親はそれを祖父祖母から、そして祖父祖母は曽祖父曽祖母から、かつてのヴぇスタの聖火のように、神聖にして犯すべからずという遺言とともに、受け継いだものだ。だから彼らが今さら自分で何を考えたり、探求したり、興奮したりする必要があろう。(略)心労もなければ不安もなく、人間は何のためにこの世に生まれてきたのかなどという『愚問』を発する者は誰もいない。だからここではみんなが健康で、愉快だ。まるで大空を飛びまわる鳥達のように自由で呑気に暮らしているのだから。彼らにとっては、その日その日が、生の楽しい祝典なのである」(井筒俊彦『ゴンチャロフ』)。

ジョンジョロリン、ジョンジョロリン
ジョンジョロリン、ジョンジョロリン
明るい日本はここにある

今日は日曜で何をしようか、せっかくの休みに
猫の毛でもむしろうか、やる事がないから

今日は月曜で何をしようか、一週間の始まりだから
もう一日休もうか、なりゆきだから

今日は火曜で何をしようか、昨日休んじゃったから
家を出るのも出づらいし、めんどうだから

今日もウダウダ朝が来て
楽してオネオネ昼になる
でんぐり返って夜が来る

ジョンジョロリン、ジョンジョロリン
ジョンジョロリン、ジョンジョロリン
ふとんは朝晩たたみましょう

今日は水曜で何をしようか、一週間の真中だから
今週の反省でもしようか、今日も休んじゃったから

今日は木曜で何をしようか、夕方まで眠っちゃったたから
ふとんをベッドにのせようか、おっこっちたままだから

今日は当然何をしようか、会社行った所で
いまさらデスクがあるだろうか、半年も休んじゃったから
(所ジョージ『夢見るジョンジョロリン』)

 一九世紀初頭からロシアでは二つの思想潮流、すなわちスラブ派と西欧派が激しく対立している。前者は一八一二年の第二次ナポレオン戦争後に台頭した民族主義とドイツ・ロマン主義の影響を受け、反西欧・反合理主義・反近代を掲げている。

 キレーエフスキー兄弟やアレクセイ・ステパノヴィチ・ホミャコーフ、アレクサーコフ兄弟が代表的な思想家である。彼らは、マックス・ヴェーバーと異なり、ロシアと西欧の文化的差異をロシア正教会とカトリックの教義の違いに求め、カトリックに見られる合理主義が人間と理性への慢心を生み出し、西欧社会は内的な共同性を失ってしまったと主張する。

 もっとも、一七世紀後半、ロシア正教会の典礼改革に反対して多くのセクトが分裂している。彼らは「分離派」と総称され、「旧教徒」あるいは「古儀式派」とも呼ばれている。ピョートル大帝の欧化政策を否定し、家父長的な共同体を理想化する。さらに、一八八一年の農奴解放後は、リベラリズムもしくは汎スラブ主義に転換し、その中には、極端な反動的思想の源になっている。

 一方、西欧派はピョートル大帝の路線を支持し、立憲制の導入および農奴制の廃止を主張する。代表的知識人は思想家ピョートル・ヤコヴロヴィチ・チャアダーエフやソルゲーネフ、詩人ネクラーゾフ、歴史家ティモフェイ・ニコラエヴィチ・グラノフスキー、革命家ゲルツェンとニコライ・プラドヴィチ・オガーリョフである。農奴解放以降、自由主義者と社会主義的傾向の急進派の二つに分裂する。

 かりに『オブローモフ』がこの二派の対立を軸に展開されていたとしたら、シュトルツももっと精彩さを持っていたかもしれないが、同時に、作品自体は短絡的になっていたことだろう。オブローモフは、西欧派でもなければ、スラブ派でもない。

 両者は、どちらにしろ、主張するという点において、積極的である。彼はいかなる主張とも対立しない。それを吸収してしまう。しかし、その姿勢によって、後に言及するように、彼は近代を克服している。前近代的・前資本主義的・前国民国家的でありながら、だからこそ、オブローモフは近代・資本主義・国民国家を超えている。コオブローモフのごろごろしている姿はデカルトを思い起こさせる。二人ともゴロゴロして近代を眺めている。

 オブローモフは、西欧派的な発想に対して、次のように言っている。

 諸君は思想のためには心情など必要ないと考えているのかい? なんの、なんの、思想は愛によって肉づけされるんだ。堕落した人間には手を差し伸ばして、抱き起こしてやらなくちゃね。そうじゃなくて、もしその人が亡びていくのなら、それに心からの涙を流してやるべきであって、愚弄などすべきじゃない。堕落した人間を愛してやり、そのなかに己れ自身があることを記憶し、それを自分と同様に扱ってやりたまえ。

 ヘーゲルの『精神現象学』によれば、人間は社会的存在であるという自覚を「労働」と「教養」によって成し遂げる。「労働」は自分の生が社会の多くの人々と協調によって可能であることを教え、また「教養」はさまざまな人間の営みの意味を認識させる。人間は社会において「労働」と「教養」を適切に積んで行けば、誰でも自らの自然な人倫を社会化していく。

 オブローモフは、そういいたヘーゲルの認識に対して、次のように考えている。

 それに、この人間の歴史そのものが憂鬱の種である。読んで覚えることといったら、──災厄の時代が到来して、人間が不幸に陥った、そこで人々は気力を奮って、働き、あくせくして、恐ろしい困窮を忍びながら、営々辛苦を重ね、朗らかな時代を準備してゆく。やがてその日が訪れて、今度こそ歴史自身も一休みできるか、と思うとさにあらず、ふたたび暗雲が襲ってきて、再度の営々辛苦の結果も崩れさり、人々はまたも働き、あくせくし始めなければならぬ…明朗な時代はしばらくも続くこともなく、急速に移ってゆく、──かくして人生は常に流れ、常に流れる、破壊につぐ破壊なのだ。

 オブローモフは労働も教養も積まない。社会的存在理由などどうでもよい。オブローモフは他者に依存し、成長しない。これはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『ファウスト』(一八〇一-一八三一)に対する完璧なパロディである。近代において、人間の本質は静的ではなく、瞬間的に変化する動的なものであるから、人間は成長するにつれ、発展してゆかなくてはならない。『オブローモフ』はそんな自立と成長の「教養小節(Bildungsroman)」ではない。

 資本主義体制は、中間層を背景に成長したように、主要な消費者として循環する経済体制であり、失業者の増大は、彼らから購買力を失わせてしまうため、この体制にとって致命的である。資本主義は労働を賞賛しただけでなく、失業を罪にしてしまう。失業は働く能力があり、働く意志があるにもかかわらず、職が得られない状況に置かれた労働者の状態である。

 失業を測定する最も一般的な方法は、大恐慌時代のアメリカで発展し、「国際労働機関(ILO: International Labor Organization)」によって世界中に普及している。しかし、各国の失業率は異なった定義に基づいて測定されているので、失業率の国際比較は困難である。失業はその原因によって摩擦的失業・季節的失業・構造的失業・循環的失業に分類できる。摩擦的失業は、求職中の労働者がすぐに職につけないことから起こる。

 摩擦的失業の発生は、労働者が職を変える頻度や新しい職を見つけるのに要する時間に左右される。この失業は効率的な職業紹介事業によって減少するけれども、労働需給が変動する社会では、ある程度の摩擦的失業は避けられない。季節的失業は季節労働者の休閑期に生まれるものである。

 構造的失業は、使用者が求める労働能力と職を探す労働者の能力が一致しない状態から生じる。イノベーションは多くの産業で新しい技能を必要とし、時代遅れの技能者を離職させる一方、熟練労働者でも、労働需給がアンバランスな状態であれば、解雇されることがある。もし使用者が性別や人種、宗教、年齢、身分などにより不法な差別をすれば、労働需要が大きい場合でも、労働者の失業率は高くなる。

 最後に、循環的失業は、労働需要の一般的不足から発生する。景気循環が下降局面に入ると、財とサービスの需要が低下し、その結果、労働者は解雇される。

サーチン ジブラルタール! 世の中に泥棒よりいいものはねえな!
クレーシチ らくに金が手にはいる……あいつらは……働くわけじゃねえ……
サーチン らくに金の手にはいるやつは多いが、その金とらくに手を切るやつは多かねえ……なに、働く? 働くことがこのおれにも愉快になるようにしてくれ、おれだって、ひょっとすりゃ、働くかもしれねえ……そうさ! かもしれねえよ! 労働が快楽でありゃ──生活は上々だ! 労働が義務となると、生活は奴隷のそれよ! 
(マクシム・ゴーリキー『どん底』)

 二〇世紀最大の経済的・政治的・社会的問題の一つは失業である。失業は、大恐慌に始まる世界的な不況によって、一九三〇年代、社会をひっくり返している。失業はトラウマとしてこの時代を想起させる。二〇世紀は「失業の時代」である。

 消費が露出し、すべてが商品と化す。神さえも例外ではない。神の死は決定不能性に置かれてしまう。それは「ゴドーを待ちながら」(サミュエル・ベケット)の時代である。消費の機会を奪う失業は、体制の根幹に関わるため、社会問題化し、短くても、数年続く。

 とは言っても、失業は二〇世紀を通じてずっと社会を悩ませてきたわけではない。先進国では、六〇年代や七〇年代、先進国では失業は深刻な問題ではなかったが、失業率が上昇してしまうと、それは社会不安の最大の要因になる。失業率の改善はほかの社会問題──犯罪や教育現場の荒廃、自殺者の増加──を沈静化させる作用がある。
 八〇年代以降、EU諸国全体では、八五年に一〇%を超え、九五年三月には一一%に達している。その特徴は、一年以上の長期失業者の割合と二五歳未満の若年労働者の失業率が高い点にある。失業は、現代社会にとって、最も危険な兆候である。労働は積極的な生きがいと言うよりも、失業の恐怖からの逃走にすぎない。

 資本主義体制はその自己保存のために、失業した瞬間に、人間の尊厳までも奪ってしまう。けれども、オブローモフには失業はない。彼は、ベッドの上でボーっと日々をすごしても、人間の尊厳を失うことはない。



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