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データを読む(2024)

データを読む
Saven Satow
Jan. 07, 2024

「第六感でもいいから、しっかりとした『仮説』を立てなければ、『記録』も見つからない。『記録』とは、目の前に落ちているものではなくて、隠されているなかから見つけなければならない。それには面白い記録を覆い隠している邪魔者を排除するため、『狙う』『記録』を見つけるための『仮説』が絶対に必要……」。
玉木正之『「記録の神様」宇佐美哲也氏への感謝』

 第23回大佛次郎論壇賞の受賞作『戦争とデータ 死者はいかに数値となったか』(は同時代の思想潮流を端的に物語る作品の一つである。著者は五十嵐元道《もとみち》関西大学教授で、専門は国際関係論・国際関係史である。

 内容について、発行元の中央公論新社は自社のサイトで次のように紹介している。

戦場での死者数は、第2次世界大戦後、内戦やゲリラ戦が主流となり、国家による把握が難しくなった。異なる数字が発表され、国連が機能不全に陥る中、法医学や統計学を取り入れた国際的な人道ネットワークが台頭してきている。本書は、特にベトナム戦争からウクライナ戦争までの死者数、とりわけ文民死者数の算出に注目。国家や武装勢力の軋轢や戦乱の中、実態把握のために「ファクト」がいかに求められるのか、苦闘の軌跡を描く。

 こうした書籍が論壇から評価されたことは時代の影響も大きい。2010年代のキーワードの一つが「ビッグデータ」である。日本では2011年が「ビッグデータ元年」と呼ばれる。そのデータの中にはテキストのみならず、画像や動画、音声などさまざまな種類・形式が含まれる。多様な用途への実用性が期待されるとしても、利活用するには、データの生成・収集・蓄積・分析が必要である。国際関係を分断するような武力衝突が続く状況はもちろん、こういった膨大な量のデータの環境もこの本が受容された一因だろう。

 『戦争とデータ』は具体的事例を通じて非政府組織のネットワークが戦死者数をどのように算出しているかを明らかにしている。情報を収集・分析し、結果を決定する過程を描いている。一つの情報リテラシーの開設でもある。

 ビッグデータ処理を担う専門家としてデータサイエンティストが注目される。彼らはデータを収集・解析して課題を解決したり、意思決定を支援したりする。統計学やプログラミングなどの知識を用いて、大量で複雑なデータを分析、見出したパターンや傾向といった知見に基づき、問題解決に必要な情報を抽出したり、新しい事象を発見したりすることを担う。

 もっとも、今日では公開情報だけでも膨大である。そうした情報源悪背s可能なデータを収集・分析・決定する「オシント(OSINT: Open Source Intelligence)」も実践されている。その代表ともいえる「ベリングキャット(Bellingcat)」には市民がボランティアで参加している。こうしたシチズン・データサイエンティストが物語るように、専門家でなくても、言わば、データ・リテラシーを持った市民がネット上で活動している。

 今や公共の利益に適うような発言をする際にはデータ・リテラシーが不可欠である。公開情報の読み込みが不十分なままSNSで自説を発信しようものなら、とんだ赤っ恥をかくことになる。こうした時代においてデータの分析はもちろん、その収集方法に人々が関心を抱くとしても不思議ではない。

 定量データを利用した研究の流行は過去にも起きている。しかし、今日の取り組みはかつてと異なっているl。後に述べるように、今の研究が規範を視野に入れているのに対し、以前のそれは価値中立性としての科学性を強調している。

 50年代、体制競争としての東西冷戦が激化する。だが、理解の違いはあるものの、両陣営友に民主主義の政治的価値は認めている。自由主義陣営は鉄のカーテンの向こう側を権威主義的と批判するが、東側は民主集中制こそ真の民主主義と反論する。ただ、採用する制度が異なっていても、両陣営は共通して民主主義という価値を是認している。

 また、東側の計画経済との競争はあったとしても、西側はケインズ主義に裏付けられた福祉国家の理念を共有している。特に、米英の二大政党の間でコンセンサスが形成され、どちらの政党が統治を担当しても政策はその範囲内に収まる。こうした状況では政治的価値が論じられる余地がない。

 基本的な価値が自明視されているため、現実はどのようになっているのかという実体論やいかにそれを実現するかという技術論が政治的課題になる。政治哲学はジョン・ロックの自然権思想やジェレミー・ベンサムの功利主義で十分であり、規範ではなく、事実を考察すべきだという認識に基づいて研究が積み重ねられる。問われるべきは実証性で、当為性ではない。政治学者は価値と事実を分け、主観的である前者を排除し、経験的に検証可能な後者を明確化していく。アイザイア・バーリン(Isaiah Berlin)は『哲学、 政治および社会(Philosophy, Politics and Society)』(1962)の第2巻に掲載された論文「政治理論はまだ存在するか(Does Political Theory Still Exist?)」の中で、目標が単一で、経験的・技術的問題しかない世界においては政治理論の存在余地はないと述べている。そうした実証的研究は現状に依拠するため、保守的論調になる可能性がある。明らかにした実態を前提に、いかに既存の価値を実現するかを検討するなら、それは現状の延長である。

 しかし、60年代を迎えると、政治学が現状追認主義で、,現実に対するリリバンスを失っているという批判が高まる。公民権運動や環境問題、女性解放、ベトナム戦争などによる国内対立が激化、危機に立つアメリカの現状に直面した政治学はもはや従来の姿勢ではいられなくなる。改めて価値を検討し、現実に対する批判的対応を論じることが求められる。そうした状況に応えたのがジョン・ロールズ(John Rawls)の『正義論(The Theory of Justice)』(1971)である。この600頁を超す大著は道徳・政治的価値をめぐる問題を,合理的かつリリバントに考察している。以降、政治学では規範的議論が復活、激しい論争も起きている。

 日本における政治学説の流行はアメリカとタイムラグがある。50年代、戦後民主主義が社会に定着しつつあるものの、丸山眞佐男を代表に進歩派知識人は日本の後進性を批判、真の民主主義を根付かせるために啓もう活動に取り組む。それに対する復古主義や革命思想の議論や実践も活発である。政治理論家の間で価値観が共有されているとは言えず、規範的議論が激しく展開されている。特に、マルクス主義の影響は政治学のみならず、社会科学全般に及ぶ。近代主義を批判し、資本主義の克服を目指す思想が強い言論状況では、英米の流行がそのまま伝播することはあり得ない。政治学の実証的研究の発展は学生運動が退潮する70年代を待たなければならない。

 アメリカが豊かな社会を誇示したのは50年代だが、日本のそれは80年代である。60年代に高度経済成長を経験し日本社会が貧しさから脱却していったことは確かだ。しかし、公害が各地に発生、都市の過密化に地方の過疎化が急速にするなど社会問題が顕在化する。さらに、70年代に入ると、ドル・ショックや二度の石油危機に見舞われ、日本は不況の時代を迎える。同時代のアメリカと似たような状況にもかかわらず、規範的議論が続くものの、政治学者たちは実証的研究に関心を寄せる。ただ、その行動には実態を認知する必要がある。現実を知らずに、理論を社会に押しつけてはならない。理論と実践の拮抗という問題は学生運動の経験を経て後者が前者よりも強まる。重要なのは「ファクト」だ。苦しい社会状況を改善するには実践が必要で、価値観争いが果たして社会科学のやるべきことなのかというわけだ。

 ロールズの本格的受容はポストモダニズム思想の流行が退潮し、冷戦が終結、長期不況に陥る90年代以降である。マルクス主義の影響が急落した反面、新自由主義が台頭、格差拡大を始めとする不平等の社会問題が顕在化する中で、ロールズの正義の理論が求められる。価値中立的なファクト重視は現状追認で、やはり目指すべき社会をめぐる価値観の議論が欠かせない。

 『戦争とデータ』はロールズ・ショック以降の流れを踏まえている。現在はデータを読み込んだ研究と言っても、事実を明らかにすることだけを目的としていない。そこには政治的価値についてのまなざしが不可欠である。「実態把握のために『ファクト』」がこの本のテーマではない。

 五十嵐教授は、田島知樹記者による『朝日新聞DIGITAL』、2023年12月21日 5時00分配信「第23回大佛次郎論壇賞 『戦争とデータ 死者はいかに数値となったか』 五十嵐元道さん」において、戦死者数を取り上げた理由について次のように述べている。

 そもそも戦死者を数えるのはなぜか。それはまず家族のためである。戦場には、身元不明のまま数としてカウントされない死者がたくさんいる。残された家族は絶望と、生きているかもしれないというわずかな希望の間で苦しむ。それはまた亡くなった人間の尊厳を守ることでもある。カウントされる過程で、尊い命がいつ、どこで、なぜ失われたかが示される。記録が残ることの意味は大きい。

 組織が戦死者数を数える理由は遺族に詩を伝えるためである。従軍して死亡したり、先頭に巻きこまれて命を落としたりした人にはそれぞれ大切な人がいる。生きていて欲しいと願いながらも、無念な結果に直面した時、ショックを受けつつも、葬儀を挙げることはできる。その人がいつ、どこで、どのように亡くなったのかを判明した際、戦死者は一人の人間としての尊厳が確認される。安否不明のままであれば、家族や友人、恋人などが区切りをつけることもより難しいことが少なくない。行方不明者とその家族は共有すべき物語がない。そのような調査の結果が戦死者数である。それは一人一人の人間としての最期の記録だ。

 しかし、関係諸機関により公表される戦死者数にはしばしばバラつきが認められる。その数をめぐって論争さえ起きることがある。そうした事態についても、五十嵐教授は、同記事において、次のように述べている。

 うそか真実か。戦争のデータを見る際にこのような2分法を取ることは難しいという。代わりに重要な視点は三つある。
 まずはどれほど科学的かということ。信頼のあるデータを作るために統計学や法医学の知見が使われる。だがそれだけではなく、社会に受け入れられるデータなのかという視点も欠かせない。政治的対立の前では事実も意味を持たないことがある。またデータの機能性も考慮しなければいけない。裁判のための証拠なのか、それとも政治的物語を支えるものなのか。データには常に目的がある。「ガザやイスラエルの悲劇を伝える死者数もそのような視点で考え、時には疑うべきでしょう」

 集計方法が科学的に見て妥当であるかどうかは言うまでもない。しかし、たとえそうだったとしても、社会がその数字を受け入れるかは別の話である。政治的対立が激しい中では自分たちの信念に合わなければ、それを受け入れることなどない。その数自体が火種となることさえある。また、用途も重要だ。数字の厳密性は目的に応じて可変する。裁判所が判断するには適当ではないことを理由に政治的思惑によりその数を認めない動きが生じることもある。集計には限界があり、利用する場面でそれは考慮されてしかるべきだろう。戦死者数ではないけれども、関東大震災の際の虐殺をめぐる検証も政治的な事態に見舞われている。

 客観性を目指しながらも、諸般の事情によりデータには限界があり、不確定や推定を含むことが少なくない。しかし、だからと言って、すべての数字が主観的なものにすぎないと断定するのは乱暴である。そうしたニヒリズムは恣意を闊歩させる。科学性・社会的受容性・合目的性から取り扱い方を考慮することが必要だ。妄信も廃棄もせず、データの履歴を吟味することがその存在理由につながる。ロールズ以後の社会において政治的価値観の議論は重要であり、その際、論拠となるデータを批判的に検討することが不可欠だ。『戦争とデータ』は科学性・社会的受容性・合目的性現代を兼ね備え、ビッグデータ時代におけるニヒリズムの一つの回避法を示した作品である。
〈了〉
参照文献
五十嵐元道、『戦争とデータ 死者はいかに数値となったか』、中公選書、2023年
山岡龍一、『西洋政治理論の伝統』、放送大学教育振興会、2009年
玉木正之「『記録の神様』宇佐美哲也氏への感謝」、『玉木正之ネットワーク』、2011年08月31日配信
http://www.tamakimasayuki.com/sport/bn_182.htm
「戦争とデータ―死者はいかに数値となったか」、『中央公論新社』、2023年
https://www.chuko.co.jp/zenshu/2023/07/110140.html
田島知樹、「第23回大佛次郎論壇賞 『戦争とデータ 死者はいかに数値となったか』 五十嵐元道さん」、『朝日新聞DIGITAL』、2023年12月21日 5時00分配信
https://digital.asahi.com/articles/DA3S15821740.html
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